第52話 慟哭

 治療室に入った三人が見たものは、細い脚に点滴の針を刺されて、ぐったりと横たわった、痛々しい夏の姿だった。

 生きている。

 たとえ、どんな姿だろうと、夏は生きている。

 最悪の事態も覚悟していた善次郎は、夏の姿を見て、心の底から歓喜が込み上げてきた。

 美千代と洋平も、同じ気持ちだったようだ。

 二人は、夏の姿を見て息を呑んだものの、直ぐに安堵の声を漏らした。

 夏は、三人の姿を認めると、あらん限りの力を振り絞って起き上がり、震える四肢で全身を支えながら、か弱い声でミャアと鳴いた。

 それは、おうちへ帰ろうと、言っているように聞こえた。

 夏は、みんなと一緒に、家へ帰りたがっている。

 それが、善次郎には、痛いほどよくわかった。

「今まで、起き上がることもできなかったのに、よほど、あなた達が好きなんだな」

 先生が、感慨深げに言った。

 痛々しくもいじらしい夏の姿を見、先生の言葉を聞いて、美千代は顔を覆って嗚咽を漏らし、洋平はしゃがみ込んで泣き出した。

 善次郎は、歯を食いしばって涙を堪え、じっと夏に目を注いでいる。

「どうやら、一命は取り止めたよ」

 三人に、先生の声が、天使のように響いた。

 先生の言葉に、三人の頬が緩んだ。

 だが、涙が止まったわけではない。

 美千代と洋平は、よけいに泣き出してしまった。

 張りつめていたものが、一気に決壊したのだろう。

 先生が言うには、もう少し遅ければ、手遅れになっていたかもしれないとのことだった。

 原因は、低カルシウム血症とのことだ。

 低カルシウム血症とは、血液中のカルシウム濃度が極端に低くなる病気で、あまりに低くなると、死に至るとのことである。

 人間や犬には、ままある病気らしいのだが、猫の低カルシウム血症というのは、非常に珍しいらしく、日本どころか、世界でもあまり症例がないのだそうだ。

 猫は野良が多いので、実際はよくあることかもしれないがと、先生は付け加えた。

 夏は、通常値の半分を切っており、非常に危険な状態だったそうだ。

 手術前の検査結果を持っているかと尋ねる先生に、なにも検査なんかしなかったと善次郎が答えると、先生は驚いた顔をした。

 たとえ、去勢手術であろうとも、全身麻酔をかけるため、病気を持っていないか、身体に異常がないか、検査をするのが普通だという。

 それを聞いて、善次郎の全身が、怒りで震えた。

「まあ、義務付けられているわけではないし、全ての病院が検査しているわけでもないから」

 善次郎の様子から、なにかを感じ取ったのだろう。

 先生は、取って付けたように、そう言った。

 先生にしては、当然だろう。

 表立って、他の病院を批判するわけにはいかない。

 一命を取り止めたといっても、まだ予断は許さない。

 今夜は付ききりで、様子を見る必要がある。

 しかし、あなた達が居ても、出来ることはなにもないので、一旦引き揚げてくれ。

 溶体が急変するか安定したら、何時になっても連絡を入れるから。

 そう言われて、三人は帰された。

 今日が土曜なのに、善次郎は感謝した。

 もし平日なら、いくら不審感を抱いていたとしても、手術をした病院へ行っていただろう。

 その場合、間違いなく、夏は死んでいた。

 医者によって、こうも違うものなのか。

 全ての動物病院の先生が、動物に愛情を注いでいるのではないことを、善次郎は痛いほど思い知らされた。

 家に帰っても、美千代と洋平は、自分たちの部屋には戻らなかった。

 先生からの連絡を、待つつもりのようだ。

 二人の涙は、まだ枯れていない。

 活も、どことなく元気がなかった。

 善次郎は、ぼんやりと、夏のいない部屋を見回した。

 夏一匹いないだけで、部屋が寒々しく感じられる。

 猫に興味もない人々からみれば、取るに足りない小さな命。

 しかし、その小さな命が、善次郎にとって、どれほど大切か。

 美千代と洋平にとっても、そうだろう。

 夏よ、おまえの未来は、これからではないか。

 まだ、半年しか、生きていないじゃないか。

 野良に生まれ、親にも見捨てられた夏。

 これから、その不幸を取り返して、幸せな生活を送るんだろう。

 せっかく生まれてきたのに、死に急ぐんじゃない。

 どうか、助かってくれ。

 そして、元気な姿で、再び、この家に戻ってくるんだ。

 そう思った瞬間、これまで抑えていた涙が、堰を切ったように溢れ出してきた。

 夏と、出会ったこと。

 夏を、拾ったこと。

 夏の、傍若無人な我儘ぶり。

 そんなことが、次々に思い出され、善次郎の目から、止めどもなく涙が溢れ出す。

 とうとう、善次郎は、声をあげて泣き出した。

 洋平が、びっくりしたように、善次郎を見る。

 それまで、悲しみに包まれていた美千代が、「大丈夫、大丈夫だから」と、優しい口調で言って、慈しむように、善次郎の頭を両腕で包み込んだ。

 善次郎は泣いた。

 心の底から泣いた。

 美千代の腕に、顔を埋めて泣いた。

 美千代が、泣きじゃくる善次郎の頭を、優しく撫でてやる。

 それでも、善次郎が泣き止むことはなかった。

 いつしか、美千代の手が止まり、美千代の頬が、善次郎の頭に付けられた。

 そのまま美千代も、嗚咽を漏らしていった。

 二人の傍で、洋平も泣いている。

 そんな三人を慰めるように、活が、順番に三人の身体に、自分の身体を擦り付けたり、手を舐めたりして回った。


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