第9話 虫
暗い話が続いたので、話を善次郎と活の日常に戻す。
活は、虫が大好きだ。
蚊などが天井にへばりついていると、飽きずにじっと眺めている。
天井を離れて飛び回ると、眼で追いながらついてゆき、どこだろうと、平気で踏み越えていく。
ある時、善次郎がパソコンを操作していたところに、活が虫を追いかけてキーボードの上を踏み越えていった。
その途端、突然テンキーが利かなくなり、善次郎は往生した。
彼は、パソコンはあまり詳しくない。知っていれば簡単なことだが、原因を掴むのに一苦労した。
ネットで検索すれば直ぐにわかったことなのに、壊れたと思い、焦った善次郎は、そこまで気が回らなかった。
どうしようと考えた末、キーボードに配置されているキーを端から一つずつ押しては、テンキーを叩くということを繰り返した。
それで、ようやく使えるようになった。NumLockと書いてあるキーが、どうやらそれだったようだ。
元の状態に戻って、ようやく落ち着きを取り戻した善次郎は、遅まきながらネットで検索してみた。
NumLockとはニューメリックロックの略で、テンキーを使用可能にしたり、不可にしたりする機能だということがわかった。
そんな苦労も知らず、活は、今日も虫を追いかけている。
今は夏、クーラーはない。
窓を閉め切ると、部屋の中は蒸し風呂状態になる。
だから、仕方なく窓を開けているが、網戸がないので、結構虫が入ってくる。
活が今追いかけているのは、カナブンだ。虫の中でも、一番の好物である。
活は、カナブンを見ると嬉しそうに尻尾を振る。
犬のような激しい振り方ではなく、ゆっくりと左右にだ。
そうやって、カナブンの後を追いかける。
カナブンが止まると、攻撃体制に入る。
腹ばいになり、いつでも飛び出せるよう背中を丸めて、前脚に体重をかける。
至近距離に飛んできた時など、後脚で立ち上がり、両の前脚をせわしなく動かして撃墜しようとする。
活の攻撃が滅多に当たることはないが、たまに当たって、カナブンが落ちた時など大変だ。
前脚で押さえ、鼻を近づける。それから、ころころと転がしてみたり、少し齧ってみたりと、執拗にいたぶる。
活にとっては、いたぶっているつもりはなく、ただ遊んでいるだけなのだろうが、カナブンにとっては、まことに災難だ。
見かねて善次郎が摘み上げると、素早く善次郎の背中に乗り、ジャンプして奪おうとする。
狙いが逸れて、善次郎の腕に勲章が刻まれることもしばしばだ。
そして、大抵は着ている服の背中にも、小さな穴が開く。
なにしろ、善次郎の背中で後ろ立ちしているのだから、当然落ちまいと爪を立てている。
活のパンチが空を切り、善次郎がカナブンを外へ逃がしてやると、活は、暫く未練たらしく外を見ている。
やがて諦めた活は、善次郎に向かってひと声鳴く。
多分、文句を言っているのだろう。
善次郎が寝ている時に、虫が入ってきたりすれば大変だ。
活は、善次郎の顔さえ平気で踏み越えてゆく。
普段は腹の上に乗ることはあっても、顔に乗ることはしないのだが、虫を追いかけている時だけは、見境がなくなってしまうようだ。
活に文句は通じない。怒って頭を軽く叩いても、反撃してくるだけだ。
仕方がないので、最近ではうつ伏せで眠るようにしている。
息苦しいが、顔をジャンプ台にされるよりはましである。
いい気持ちで寝ている時に、突然顔を踏まれらたまったものではない。
それに、勲章は腕だけでいい。顔にまで傷は作りたくない。
そんなことは、一度だけで十分だった。
一度踏まれて、顔に傷が付いた時は往生した。
勤務先の同僚から、女に引っ掻かれたのかとからかわれたのだ。
活は、虫が好きなのか、動くものに興味を覚えるのか、善次郎にはわからない。
ただ、猫じゃらしには興味を示さない。
一度、ペットショップで買ってきた猫じゃらしで遊んでやろうとしたことがあるが、どうしたことか、活はてんで興味を示さなかった。
虫と、どう違うというのだろう?
善次郎が考えてもわかるはずがない。
活の頭の中は、誰にもわからない。
今も、活はカナブンを嬉しそうに追いかけまわしている。
善次郎の食事中にだ。
あまりにしつこいので、カナブンを捕まえ外へ抛り出した。
そして、善次郎の腕の勲章が増えた。
今度の休みに網戸を買おう。
新しく刻まれた勲章を見ながら、善次郎は決意した。
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