第6話 家族

 今日は、仕事が長引いた。

 交代要員が急病のため、代わりが見つかるまで帰ることができなかったのだ。

 ようやく解放されたのは、昼前だった。

 昨夜から、ぶっ続けで勤務に就いていた善次郎は疲れ切っていた。

 重い足取りで家路へと向かう途中、急にお腹の虫が鳴りだし、、夕べから何も食べ

ていないことに気が付いた。

 善次郎は、夜勤の時は出掛けに食事をしてから、勤務が終わって家に帰るまで食事を摂らない。

 いつもは早朝に勤務が終わるため、それでも問題はない。

 だが今日は、代わりの者が来るまで、持ち場を離れられなかった。

 早く家に帰って寝たい気持ちはあったが、空腹には勝てなかった。

 帰り道にあるスーパーで、何か買って帰ろう。

 少しでも早く活(かつ)の顔が見たくて、店で食べる気がしなかった善次郎は、そう決めた。

 空腹だが、疲れているせいで、あまりこってりしたものは食べる気がしない。

 善次郎は店内をうろつきながら、なにかあっさりしたものはないかと、お惣菜のコーナーを物色して回った。

 ふと、刺身のパックに眼が留まる。

(少し高いが、まあいいか。刺身で一杯やったら、ぐっすりと眠ることができるだろう。

 それに、活にも喰わせてやりたいし)

 猫が生魚を好きだと思い込んでいた善次郎は、奮発した。

 これまで、生魚なんてやったことはない。

 善次郎は刺身を手にして、活の喜ぶ姿を思い浮かべながら、、いそいそと家路についた。

「今日はご馳走だぞ」

 そう言って、活の前に、マグロの刺身を一切れ置いてやる。

 活は、警戒するように鼻を近づけて匂いを嗅いだ。

 暫くそうやっていたが、やがて口に咥えた。

 最初は少し齧り、それから、ゆっくりと食べ始める。

 犬とは違い、猫は初めての食べ物には、いきなり食べ始めるということはしない。

 食べ慣れたものなら、出すといきなり食べ始めるが、初めてのものは、食べ始めるまでにかなりの時間を要する。

 それだけ、警戒心が強いのだろう。

 犬も、ある程度の警戒心はあり、初めてののものは匂いを嗅いだりするが、猫ほど慎重ではない。

 決して犬が卑しいというわけではなく、多分、飼い主との信頼関係や従順さに起因しているものと思われる。

 美味かったのだろう。マグロを食べ終えた活は、もっとくれというように、じっと善次郎を見つめてきた。

 良かった、喜んでくれて。

 気を良くした善次郎は、次に鰹をやった。

 やはり暫く匂いを嗅いだ後、これも食べてしまった。

 また善次郎を見たので、最後にイカをやった。

 「今までのと違って、コリコリして美味しいだろう」

 活に話しかける。

 このところ善次郎は、よく活に話しかける。

 活も、気が向いた時には、ニャアと鳴いて返事してくれる。

 昼食を終えて、ほろ酔い気分の善次郎が寝ようとした時、活の異変に気が付いた。

 ぐったりしている。

「どうした」

 問いかけても、返事が返ってくることはない。

 もう一度、「どうした」と言った時、活が吐いた。

 善次郎の眠気が吹っ飛んだ。

 慌てて身繕いをすると、活を懐に入れて家を飛び出した。

 大通りに出て、運よく走ってきたタクシーを停めて乗り込んだのはよいが、迂闊なことに、善次郎は動物病院がどこにあるのか知らなった。

 幸い運転手が知っていたので、そこへ行ってもらった。

 懐の活は、息こそしているもののぐったりとしている。

 動物病院に着くまで、善次郎は生きた心地がしなかった。

 その時善次郎は、活がただのペットではなく、今やかけがえのない家族になっていることに気付いた。

 動物病院では、こってりと油を搾られた。

 善次郎は、猫にイカやタコは禁物だということを知らなかったのだ。

「猫を飼うのなら、そのくらいは知っておけ」

 厳しい先生だった。それだけ、動物を愛しているのだろう。

 善次郎は、大いに反省した。

 活は家族。自分は、活の命を預かっている。

 善次郎の胸に、ひしひしと責任感が湧いてきた。

 結婚していた頃に、こんな気持ちになったことはない。だから離婚された。

 それでも、妻と子供は生きている。

 それは、言葉が喋れるし、具合が悪ければ自分で病院へも行けるからだ。

 だが、活は違う。自分が気を付けてやらなければ、死なすことだってある。

 そのことが、身に染みてわかった。

 家族とはいいものだ。

 夜、元気になって走り回る活を見ながら、善次郎はしみじみと思っていた。

 そんな善次郎の脳裏に、不意に別れた妻と子供の顔が浮かんだ。

 あの頃こんな気持ちでいたら、離婚されることはなかったろう。

 いくら悔やんでも、過ぎ去った時間は戻ってこない。

 妻や子供の分まで、お前を大事にするぞ。

 善次郎は万感の想いを込めて、活の頭を撫でてやった。

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