泪屋奇譚

草薙 至

Prologue

 時々、自分の涙に溺れる夢をみる。

 悲しみにくれ、足元にたまっていく涙。

 そこに、己の身体が沈んでいく不思議な感覚に、温かい抱擁感と、同時に恐怖を感じ目が覚める。


「あつ……」


 眠ってしまったせいで放置されたグラスの氷は、すっかり無くなって味の薄まった牛乳を作り、扇風機は首を振りながら、ただ生温い風を送ってくる。読みかけの本に栞を挟み、座卓に置くと平行して読んでいる本たちが、大きくはない座卓をさらに小さくさせていた。縁側から見える空にはすでに夏の始まりを知らせる様な雲が広がっている。


「さてと、店開けるか」

 上り口の沓脱石くつぬぎいしに転がった草履を足でこちらに寄せると、足がつりそうになり思わず眉間にしわが寄る。

「お、行儀悪い子見っけー」

 庭にひょっこりと顔を見せたのは、もう随分と長い付き合いになる幼馴染だった。

 スーツに身を包んだ身体は、初老の外見のわりにバランスがよく、ロマンスグレーの頭髪は知性を感じさせる。まぁ中身は伴わないのだが。


「勝手に入って来るなよ、天草。不法侵入者め」

「インターホン鳴らしても出ないから心配して覗いたのにひどっ。また本の虫が発動したんだろうけど今、何時かわかってますかー?」

 寝起きの頭には少々やかましいテンションで絡む天草の言葉に、壁にかかった時計を見る。


「12時5分前だ。ちなみにインターホンは先月の頭あたりから壊れてる。開店は12時だから丁度いい時間……あ、、」

「もう2時です。ちなみに今月はもう今日で終わります」


 呆れ顔の後に見た壁掛け時計は秒針が止まっており、昨晩もう少し本の続きを読む時間があるかを確認した時と寸分たがわぬ姿だった。


「まぁ君のそういうとこ、嫌いじゃないけどね。今日は裏の仕事の話に来たんだけど、」

 天草の言葉を遮るように珍しく腹の虫が鳴ると、昨日の正午前に蕎麦を食べたきりだったことを思い出し、空腹を自覚した。


「とりあえず店開けるから、少し待ってくれ」

「はいはい、店屋物頼んでおくよー」


 馴染みの店に電話をかける天草の横を抜け、庭から表の店に回る。開店を心待ちに並ぶような客がいる店ではないが、客の来ない店ではない。


 鍵を開けてカラララと引き戸を開けると、乾いた紙の匂いを感じ、改めて深く息を吸う。開店状態を示す暖簾を出してから、庭を覗き天草に声をかけた。


「天草、待たせた」

「よし、改めて仕事の話だ」



 ここは古書店。様々な本と人生が集まる店。

 これから天草と話す裏の仕事は、ほんの少しの奇譚が垣間見える店の話。



 お待たせしました。泪屋古書店にようこそ――――


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