日本のベースボールの神話的トーナメント、甲子園の観覧席から

【以下は仏「ル・モンド」紙の記事に基づく翻訳です。元記事のURL: https://www.lemonde.fr/sport/article/2018/08/21/koshien-tournoi-nostalgique-et-mythique-creuset-du-yakyu-le-baseball-japonais_5344578_3242.html】


日本の最高の高校野球のチームが毎年8月に開催される100回目のトーナメントに結集。19世紀に米国から導入され、日本で非常に人気の高いスポーツ。


緊張感は長くは続かなかった。甲子園の名で知られている、8月21日(火)の高校野球のトーナメントの決勝戦により、真の常勝チームである大阪桐蔭の優勝が決まった。1988年の野球クラブ設立以来、すでに7回優勝している、その実力校がまたしても勝利した。


大阪桐蔭は、13対2のスコアで秋田県の金足農を圧倒した。金足農の決勝進出は、地元を熱狂させた。秋田の高校の最後の決勝進出は、103年前だった!同地区の住人が誇りに思うのは当然だろう。その公立高校では、雪のために冬はプレーできず、選手全員が秋田の出身である。彼らは日本全土の「スカウト」により採用されなかった。


ファンは慰められるだろう。なぜなら、そのチームは、日本の野球の将来のスターとしての片鱗をすでに示している選手である吉田輝星により担われたからである。吉田輝星は、150 km/h以上の球を投げ(高校野球の平均は120~130 km/h)、大阪桐蔭の2人の選手と同様に、すでにプロチームのドラフト対象になっている。


競い合う49のチーム

大阪桐蔭高校は、1915年に朝日新聞社の創業者・村山龍平により考案された大会の伝説の中に多少多く参加している。同大会は、19世紀の終わりに米国から伝来し、日本人が没頭していると言っても過言ではない、このスポーツに夢中の日本における制度である。それは、厳密に日本の名前である「野球」を維持している輸入された唯一のスポーツである。英語の言葉が禁止されていた、戦争の前および戦争中に、「蹴球」と呼ばれたフットボールでさえ、すぐに「サッカー」に戻った。


2018年の夏で100回目となった甲子園大会は、1918年および第二次世界大戦中に中止された。「決して戻らない夏は、ボールを打つバットの音や観覧席のファンの声援のない夏です」。決勝戦の前日の8月14日に掲載された、朝日新聞の寄稿欄の記事からの抜粋である。


毎年、8月の蒸し暑さの中、甲子園には、47都道府県の45チームと東京と北海道のそれぞれ2チームで49チームが集まる。戦前に、朝鮮と台湾が日本帝国の一部だった頃、それらのチームが甲子園に参加していた。そういうわけで、1930年代に台湾の嘉義市の嘉義農林のチームが、このトーナメントの準優勝に輝いた。嘉義農林は、日本人、原住民、中国人から成るチームだった。馬志翔が2014年に撮影した台湾の映画『Kano』は、この出来事から着想を得た。


不変の儀式

甲子園球場は、1924年8月1日に営業を開始した。当時アジア最大のスタジアムであった。甲子園球場は、55,000人の観客を収容し、そのコンセプトは、野球とアメリカンフットボールのために、19世紀の終わりに建設されたニューヨークのポロ・グラウンズから大いに影響を受けている。


野球の伝説的プレーヤーであるベーブ・ルース(1895~1948年)は、1934年の日本遠征の際、甲子園でプレーした。この出来事を記念したプレートがある。甲子園はまた、コンクリートの有名な「野球の塔」や魅力的で古くさい雰囲気を保持しているトーナメントの博物館で知られている。


この雰囲気は、甲子園に伴う、不変の儀式に大きな原因がある。すなわち、初日の選手宣誓、選手が思い出として、または応援した人たちに贈るグラウンドの土を集める習慣、試合開始のたびに鳴り響くサイレンなどに。


「レトロなユニフォーム、高いプレーのレベル、伝説的な甲子園球場。これらすべてが1960年代にミッキー・マントルを見るためにヤンキースタジアムに行くときの興奮を思い起こさせます」東京を拠点とするアメリカの写真家、James Whitlow Delanoは、楽しそうに言う。


プロ野球の前段階である甲子園は、選手を徹底的に打ち込むよう駆り立てる。毎年ヒーローがいる。一部の選手は他の選手より優れている。たとえば、青森三沢高校の太田幸司は、1969年大会の華々しい試合のヒーローを演じた。通常は9回のところを2日で18回を投げた。初日は、0対0のままでも、日が暮れたので試合は中断された。試合は、記録的な視聴者を日本のテレビに引きつけ、三沢高校と素晴らしい大田の悲痛な敗北に終わり、その投手の長所と魅力は、日本人の心を魅了した。


「二刀流」、侍の技術

また、鈴木イチロー、松井秀喜(通称「ゴジラ」)、または松坂大輔などの、野球の未来のスターが出現するのも、甲子園の間である。最近のスターは大谷翔平である。彼は花巻高校で甲子園でプレーした後、160キロ近いボールを投げることで有名になり、北海道日本ハムファイターズに入団し、その後、選手全員の夢である、メジャーリーグのロサンゼルス・エンジェルズでプレーすることになる。


その汎用性のために「日本のベイブ・ルース」というあだ名を付けられた大谷翔平は、年長のアメリカ人の著名人のように、バッターだけでなく、ピッチャーとしても際立っている。日本人は、この希少な能力に「二刀流」の名を与えた。これは、2本の刀を持つ侍の戦闘技術のことである。


甲子園では、メディアにより快挙がふんだんに中継される。日本ではよくあるように、そのような成功は漫画作家の想像力を刺激する。1972年から1981年にかけて出版され、その後アニメになった水島新司の『ドカベン』は、成功した多数のシリーズの1つである。


漫画家にとって、甲子園は、インスピレーションの源泉であり続けている。甲子園は常に満員である。大音量と巧みに繰り返される振り付けを用いて、平和的に敵対する2チームのチアガールとオーケストラを除いて、観客はほとんど参加しない。彼らはただ単に素晴らしい動作に拍手を送る。バッターを抑える投球、野手を欺く打撃、ボールを取り、バッターを「アウト」にするためのダイブなど、観客は玄人として鑑賞する。息子と同僚と訪れた母親は認めて言う。「私たちはどちらも応援していません。観客は野球が大好きなのです。それがすべてです」


100回目の夏の甲子園は、日本の野球推進に向けた取り組みに一致する。野球は、2012年と2016年に廃止されるまで、2008年までオリンピック種目だった。野球は、女子ソフトボールとともに2020年に東京オリンピックで復活する予定である。当然のことながら、2008年に2種目で金メダルを取った日本は、優勝候補に入っている。

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