#対岸の
対岸の
「明日、事務所休みにするから」
桜もまだの三月半ば。
決定事項を伝えられたのは、晩ご飯の準備をしている時だった。
「それはまた、急ですね」
少し、文句を言いたい気分になる。今日一日一緒に仕事をしていたのに、なんで言うのが今なんだ。
何か調べているのか、ダイニングテーブルに肘をついて携帯を触っていた上司は、若干申し訳なさそうな声で私の背中に語りかける。
「ちょっと、頼まれごとがあってね」
「はぁ」
「で、あかりちゃん、もし暇なら手伝ってくれないかな。報酬は別で出るから」
そのセリフに、思わず振り返った。
「……なんか企んでます?」
遠慮なしに疑いの目を向ける。『急な話』に『別報酬』。以前、このセットで酷い目に遭ったような気が。
「いや?」
にっこりと爽やかに微笑みかけてくるその顔が、この上なく胡散臭く見えるのは気のせいか。
葛藤が始まる。貯金が上手く進まない今、別報酬は魅力的だ。今の言い方だとこの人が出すわけではなさそうだし。怪しかったら拒否すればいいんだから、話くらい聞いてもいいんじゃないか? 囁いてくるもうひとりの自分は、天使なのか悪魔なのか。
「大丈夫だよ、前みたいなことにはならないから」
「……何させる気なんですか」
「んー、ただちょっと、バイトしてほしいだけ」
「バイト?」
「そ。高校生でもやってる、ごく一般的なアルバイト」
その笑顔に、裏があるのかどうなのか。結局、私には判断出来なかった。
*
「いらっしゃいませ! おひとりですか? こちらへどうぞ!」
午後五時半。笑顔も条件反射で作れるようになってきた。
徐々に客足が増える店内。窓際のカウンター席に、またひとりお客様を誘導する。
御影市の端っこにあるリバーサイドビルの三階、カフェレストラン『りん』。
暗くなってきた窓の外、山の端にぽつりぽつりと明かりが灯り始めている。近くの建物の壁には、背にした川から反射した夕焼けの光がゆらゆらと揺れていた。なんというか、色彩豊かな風景だ。
あと二時間。
まさかこんなところで給仕をさせられるとは思わなかったから聞いた時は驚いたが、身の危険がないだけホッとした。時給も弾んでくれるらしいし、明細ごと私にくれると言うから前みたいに上司が利益独り占めなんてこともない。
ひとつ気になったのは、こんなに人目に付く仕事で誰かに見られないかということだったけれど。
――大丈夫だったなぁ。
もう一度目をやった窓ガラス。映る姿は、自分とは思えない。
膝下丈のハイウエストジャンパースカートにエプロンの可愛らしい制服。変装用の伊達眼鏡に、生まれて初めてふたつくくりにした髪。胸元につけた名札には今朝適当に決めた「庄田」の偽名。
いつもと変わらないのは防寒用の黒タイツくらいか。上司に今日は寒いと言われて着てきたはいいけれど、ちょっと合わない気もする……って、それはともかく。
自分でも二度見するくらいだ。よっぽどよく知る人でもない限り、わかるはずがない。同じ市内でもここは実家とは対極の位置にあるし、実家の関係者が来ることもないだろう。
「あの、ご注文は……?」
それでも、『お客様』にじっと見られると、どきりと心臓が跳ねた。
「キミ新しい子? 可愛いね。連絡先教えてよ」
鞄から煙草とライターを取り出しながら、にやけた男はそんなことを言ってくる。
この制服の可愛らしさは、バイトの女の子にはもちろん、この手の輩にも大人気らしい。今日何度目かの同じ質問にうんざりする反面、それがただの下心であることに安堵した。
隣のテーブルで注文を聞いていたウェイターが、ちらりとこちらを見る。
『ひとりで来る客には要注意だよ』
今朝言われたセリフが頭の中でこだまする。
――心配しなくても教えたりしませんよ。
エプロンのポケットからこの店のカードを取り出して、
「またご来店ください。ご指名は承れませんけどね」
二度と会うことはないだろうナンパ青年をとびっきりの笑顔であしらう。
「あと、申し訳ございませんが、当店は全席禁煙です。お煙草はご遠慮くださいね」
「……あぁこれは失礼」
手にしていたものを慌てて鞄にしまい、お客様はコーヒーを注文する。
テーブルの向こうで、ウェイター姿の上司がくすりと笑った。
『いつからうちの事務所はなんでも屋になったんですか』
休憩時間、まかないの昼食を口にしながら睨みつけた相手は、黒いベストにサロンエプロン。
オーナーシェフの他は女性ばかりのこの店。男性用の制服がなかったとかで、わざわざ上司のためにあつらえたとオーナーは笑っていた。似合ってよかった、と。確かに似合っている。この人の場合、私と同じ制服でも似合っていたかもしれないけれど。
『たまにはこういうところもいいんだよ。客の声聞いてれば思わぬ情報も手に入るし』
ぶつけた文句には、もっともらしい答えが返ってきた。
それなら私を巻き込む必要はなかったんじゃないかと思ったが、忙しく動き回っているうちにそんな思いも消えた。一部の人間には大人気でも、いわゆる『知る人ぞ知る店』というやつで、もともとの店員の数は少ないらしい。近くでお祭りがある今日はたった一日の繁忙期。ホールを全面的に引き受けた臨時の助っ人に、『りん』のメンバーはとても優しくしてくれた。
そう、このままいけば忙しくも充実した一日が、平和に終わる――はず、だった。
閉店まであと一時間。お祭りの影響か店内の空席は少なかったが、給仕役としては穏やかなものだった。時間つぶしをしているのか、一時間前からコーヒーだけで居座っている客も居る。混み具合を見て引き返す人も居て、新規で入ってくるお客様はほんのちらほらだった。これなら助っ人はそろそろお暇してもいいんじゃないかと思えてくるほどだったが、何人かこの隙に休憩に行ったようで、姿が見えなくなっていた。お昼休憩も取れなかったようだし、やっとゆっくり出来たかな、なんてぼんやり考えていると、
チリン
十数分ぶりのドアチャイム。
「いらっしゃいま――」
隣の上司の声が不自然に途切れる。眉間に、皺?
不思議に思っていると、とん、と背中を叩かれた。
「……え、ちょっ、」
上司はもう、入ってきた客のほうを見ようとせず、すたすたと厨房の方へ足を進めていた。
「……もう」
なんだか知らないが、お前が行けということらしい。
――まぁいいけどさ。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
そこに居たのは、着物姿の上品な老婦人。
――……?
どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない。
「ええ」
まぁいい。少なくとも事務所の客ではない。客だとしても、今の私を見てわかるとは思えないし。
「こちらへどうぞ」
窓際の席に案内して、椅子を引く。
「ありがとう。初めてなんだけど感じのいい店ね」
落ち着いた柔らかな声でそんなことを言い、彼女はちらりと私の名札に目をやった。
「庄田さん? もしかして、紘のところの子かしら」
両手を合わせた、とても可愛らしい仕草で。
言われたそのセリフに、ぞくりとした。
――……なんで。
その、違和感。
庄田という偽名を口にしながら、城ノ内紘の部下だと言い当てた。
この店は従業員の名前を公開していない。常連ならメンバーも把握しているだろうし、助っ人の話も聞いているかもしれないけれど、この人は初めてだと言った。
なら、何故わかった?
――この人は、正体を知られてもいい部類の人間なのか。
答えを返せずにいると、老婦人はくすりと笑った。
その笑い方は上司のそれによく似ていて、どきりとする。
「大丈夫よ。あの子と知り合いなだけ」
「…………」
「ごめんなさい。驚かせちゃったわね。あかりちゃん」
さらりとこちらの名前を口にして、目を細める。
『ひとりで来る客には要注意』
あれには、こんな意味もあったのだろうか。
あの上司が顔を合わせたくない人物? 一体どんな知り合いなのか。
同業者? 実家関係?
困惑を隠せない私に、彼女は穏やかに微笑んだまま言葉を続けた。
「お詫びに、知りたいことがあったら言ってね。紘の秘密ならいくらでも」
タン、と。
婦人の言葉を遮るように、若干乱暴にグラスが置かれる。
「ほう、それは是非お聞きしたいですね」
いつの間にか隣に立っていた上司が、貼り付いたような笑顔でそう言った。
「悪趣味ですよ、山野辺さん」
「お前が逃げるからだよ」
くっと笑った婦人は、がらりと口調を変えて、グラスを手に取った。
「……そっちの意味だけじゃありませんよ」
「それは認めるけどね」
砕けたやりとりに肩の力が抜けるのを感じた。
どうやら、本当に知り合いらしい。上司は彼女が苦手のようだけれど。
「スリリングなのはご自分の体験だけで十分でしょうに」
「たまには対岸の火事も見たくなるんだよ」
「どうせなら似たようなのでもっと健康的なのがあるでしょ。それに――」
よくわからないふたりの会話。
どうやら私の存在は忘れられたようなので、仕事に戻ることにしようか。
「――対岸の火事は
何の例え話だろうか。上司の言葉を聞き流しながら店内に意識を戻すと、カウンター席の客が店員を探しているようで、首を伸ばして厨房の辺りを伺っていた。先ほどのナンパ青年。カップの中身は既になくなっている。けれど、伝票も持っていないし、立ち上がりもしない。勘定というわけではなさそうだが追加注文だろうか。
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」
そっと声を掛けた、つもりだった。
「えっ、あ、いや! いいよ、ありがとう」
跳ねるように振り返って。膝に置いていた鞄を抱きしめ、随分と焦った様子でこちらに笑いかける。
「……そうですか。何かありましたらお声がけくださいね」
営業スマイルで一礼するけれど。
――今、何を隠した?
「あ! じゃあ、水くれないかな」
笑いながら言うその注文も、その場を取り繕っているように見えて。
「かしこまりました」
こちらも笑顔を保つ。自分の感情を表に出さないように。
妙な緊迫感。
そこへ、今度は静かにグラスが置かれた。カラン、と小さく氷だけが音を立てる。
「――どうぞ」
ウォーターピッチャーを片手に、違和感のない笑顔で上司が言う。
「ごゆっくり」
背中に触れた手に促され、上司とともに一礼して背を向けた。
*
「城ノ内さん、あのお客さん、なんかおかしいです」
ふたりで厨房近くの定位置まで戻ると、周りに聞こえないよう、声を抑えて報告する。
「……気づいてなかったんだ」
抑えた声が低く響く。それは、どこか呆れたような笑いを含んでいて、少しムッとした。
この人はさっきのやりとりをどの段階から見ていたのか。
この、言いしれぬ私の不安を、本当に理解出来ているのか。
「…………」
唯一注文したコーヒーもとっくに飲み干し、追加注文もしないのに、店を出ようとはしない。となると、誰かと待ち合わせだろうか。――いや、待ち合わせなら、入り口に注意を払いそうなものだ。彼が見ていたのは、主に今私たちが居るこの辺り。
――……目的は、店員か?
チラチラと厨房を伺いながら、すぐ側に居る私たちには声を掛けなかった。私たちでは駄目なんだ。
考えてみれば、常連も居るだろうこの店で、今日一日ピーク時以外ホールはほとんど私たちふたりに任せっきりだった。確かに厨房もてんてこ舞いだったようだけど、それにしたって少々不自然に思える。
でも、それが、意図的だったとしたら。
上司が意図的に、彼女たちを客から遠ざけたんだとしたら。
あの時、彼は確かに何かを隠した。
例えばそれが、刃物だったとしたら?
急激に、喉が渇いた気がした。
――あの客が、何かをしようとしている?
ちらりと、隣の男を見上げる。
言いたいことのどこまでわかったのか、上司は私の視線に苦笑して、
「君は気にしなくていいから」
ただ短く、なだめるようにそう言った。
――これが、対岸の、火事?
様子を伺おうと視線を向けた例の客は、柱の陰になって見えなかった。
*
午後七時半。閉店のメロディも止まった。入り口に掛けられたのは本日閉店のシンプルな看板。
いつもは八時までの営業らしいが、今日はお祭りもあって特別に三十分だけ繰り上げ閉店。やっぱりほとんどのお客様は時間つぶしや待ち合わせでの利用だったらしく、閉店のアナウンスが流れると水が引くように店から姿を消した。テーブルもほとんどを拭き終わり、厨房でもそろそろ片付けが落ち着こうとしている。
さっきまでの喧噪が嘘のように、しんとした店内。
「…………」
そんな中、厨房の手伝いにも行かず、私がここに居るのは。
「さぁて、どうしようかね」
そんなことを呟く思案顔の上司と、ひとりだけニヤニヤ顔で居座っている老婦人。
そして正直見たくなかったのが、ふたりの視線の先にある――
テーブルに突っ伏して動かない例の客。
「……城ノ内さん、何盛ったんですか」
「さぁ、なんの話かな」
「…………」
嘘つけ。あの時の水、明らかになんか入れただろ。と言いたくなるのをこらえる。問題は何を盛ったかではなく、これからこの男をどうする気か、だ。
「ま、閉店時間も過ぎたことだし、お客様にはお帰り願いますか」
上司は意味ありげに笑い、お客様に近寄る。
私としてはそのセリフを他人事のように聞き流している老婦人の存在も気になるのだが、とりあえず何も言わずに見守ることにした。
「んー……」
おそらくここがどこかもわかっていなかっただろう。
穏やかに起こされ、寝ぼけて間の抜けた声を漏らした男は、
「閉店時間ですよ。掛川伸彦さん」
上司の言葉の数秒後、面白いほどに顔色を変えた。
「――え、え? なんで、名前……?」
「さぁ、なんででしょうね?」
あくまで穏やかに笑いながら言うその返答は、掛川とやらにとっての凶器になる。
「あ、え、何?」
唇を微かに震わせて、動揺する自分を必死に隠そうと不自然な笑顔を返してくる。今は、多分、想定した最悪のパターンを認めたくなくて、それに対抗する『大丈夫だった』未来をいくつか思い浮かべているところ。
もちろん、そんな現実逃避を上司が許すはずもなく。
「失礼ですが、鞄の中を見せていただけますか」
その声は、先ほどよりわずかに低く。それだけで、周りの空気が冷えた気がした。
口元の笑顔はそのまま、けれど目は笑っていない。見下すような、冷たい目。
「な、なんでそんなこと」
「さぁ……、なんででしょうね」
同じセリフを繰り返す上司の声は、どんどんと色を失っていく。
「身に覚えがあるんじゃないですか」
その視線は、自白を求めるように。
「あんた警察? なんの権利があって!」
追い詰められたねずみは声を大きくし、相手を噛もうと虚勢を張ったけれど、
「あぁ、では警察を呼びましょうか。そのほうが色々手間が省けますから」
にっこりと笑う猫に、あっさりと陥落した。
ちなみに、上司が警察と言った瞬間嫌な顔をした人がもうひとり居たみたいだが、そこは見なかったことにする。なんなんだ、この人は。
固唾を飲んで見守る中、上司は鞄の中のものをひとつひとつ取り出していく。
並べられた所持品は、財布と定期券、それに煙草とライター。――それだけだった。
「なんだ、それだけか。一昨日買った包丁は持ってこなかったんだね」
つまらなそうに老婦人が言う。ぎょっとしたのはもちろん私だけではなかった。
「っ、なんでそんなことまで」
「教えてくれるんだよ、霊がね」
両手首を胸の前で垂らしてにやりと笑った老婦人に、眉をひそめる掛川と苦笑する上司。あぁ、どうやらこの婦人も相当なくせ者だ。
「……あれは本当に偶然のお使いですよ。普通に彼の母親が使ってます。切りやすくて近所にもおすすめしてたらしいですよ」
「なぁんだ。警察にお呼ばれした直後に買うなんて期待するじゃないか」
「刃傷沙汰期待して見に来るとか、悪趣味すぎるんですよ」
「失礼な。いざとなったら止めるよ、揉め事はともかく血が見たいわけじゃないからね」
なんだかすごい会話が繰り広げられている気がするが、つまり、対岸の火事というのはそのことだったのだろう。
肝心なのは、何故掛川が警察に呼ばれたのかというところだけれど、これはそろそろ予想がついてくる。
店員が目的ということは、この店にはよく来ていたんだろう。彼女たちのファンは少なくない。
だから、警察に警告を受けるような、行き過ぎた者が居ても、きっとおかしくはないのだ。
――つまりこれは、城ノ内紘がおそらく個人的に請け負った、ストーカー対策。
「あの、もういいでしょう? 何も持ってませんよ」
上司と婦人の話を割って、険しい顔で鞄を取り戻そうと手を伸ばす。
「あぁ、そうですね」
上司は彼を流し見て鞄を返すと、テーブルの上のひとつを手に取った。
「――っ!」
掛川の声は、声にならない。
返されたばかりの鞄が邪魔をして、手を伸ばすことすら出来ない数秒。それだけで十分だった。
あの時、私に対して隠す必要があったもの。
上司に見られたくなかった鞄の中身。
「安心してください。あなたが警告を守るなら、これ以上警察に言うつもりはありません」
くすりと笑いながら、上司はその、青いライターをかざしてみせる。
「でも、」
『……気づいてなかったんだ』
あぁ、確かにそうだ。おかしかったのは、最初から。
『キミ新しい子?』
そう、この男がこの店の常連だったなら。
――禁煙と、知らないはずはなかったんだから。
着火ボタン部分を横から押さえて引き抜くと、見慣れた形が現れる。――USBのコネクタ。
上司は、その脇から小さなカードをするりと抜き出すと、
「このデータは渡せません。俺の大事な部下が、映ってるようですから」
笑顔のまま、掛川の目の前で、真っ二つに割って見せた。
無言でうつむく掛川と、何がおかしいのか声を上げて笑い出す老婦人。
あのライターがカメラで、写真か動画かは知らないが自分も撮られていた。それは理解できたものの何故か現実感がなく、嫌悪感はあれど、他人事のような感覚で眺めている自分が居た。
というか、今割ったそれ、大切な証拠なんじゃないのか。解決したいなら、それを警察に引き渡すべきだったのでは。
眉を寄せっぱなしの私に苦笑して、上司はエプロンのポケットから何かを取り出す。
それを掛川に手渡して、うつむいた彼の耳元で、静かに。
「ちなみに、ストーカー行為なら、俺も得意ですよ」
瞬間、バサリと床にバラ撒かれたのは、数十枚の写真だった。電車、駅、ビル、住宅街。場所は違えど、すべてに掛川が写っている。そして、その中には身を隠して女性を追いかけていると思しき写真もあった。
「――!!」
気の毒になるほど蒼白な顔で取り落とした写真をかき集めたお客様は、ろくな言葉も発せないまま、逃げるように店を出た。
「またのご利用、心よりお待ちしております」
ドアチャイムと同時、無感情な上司の呟きが、店内に響いた。
*
「じゃ、私もお暇しようかね」
掛川の突っ伏していたテーブルを拭き終わり、はぁ、と一息つくと、老婦人がひょいと立ち上がった。
「あ、城ノ内さん呼びましょうか」
上司はトイレにでも行っているのか姿が見えなくなっていた。慌てて携帯を取り出したけれど、山野辺さんが制止する。
「いいよ。これはこれで面白い見せもんだったって、紘に言っといて」
「……はい」
「しかし、あかりちゃん、相当気に入られてるね」
実に楽しそうに、そんなことを言われる。
「そうでしょうか」
「まさかあの子が、あそこでカード割るとは思わなかったから。没収するだけにしとけば色々使えたものを……実際撮られると思いの外気に食わなかったらしいね」
ふふ、とまたおかしそうに笑う婦人を前に、愛想笑いさえする気にはなれなかった。
「……どっちにしても、私は騙された気分で一杯ですけど」
掛川のあの様子だと杞憂だったようだが、万一カードの中身が空だったらしらばっくれられる可能性があったから、とにかく『盗撮』をさせる必要があったから、だから上司は私を連れてきた。私を、店員たちの身代わりにするために。
多分、防寒しろと言ったのもそのためだったんだろうな。下着までは撮られないように。
ただのバイトだと思って来てみればやっぱりおとりじゃないか。
「結局、いつも都合よく使われるんですよね」
今日一日、大変だったけれど、アルバイトなんて出来なかった学生時代を取り戻せたみたいで楽しかったのに。
店員たちの手助けが出来たことは確かなのだし、守れたことも確かだ。おそらく掛川は二度とこの店には来ない。彼女たちに手出しもしないだろう。けれど、結局利用されただけだと思えば、充実感はため息に変わる。
「……多分、それだけじゃないと思うけどね」
「他に何があるんですか」
「ま、騙されておくといいよ。もうちょっとね」
彼女の言うことは、含むところが多すぎてよくわからない。
「……なんの話ですか」
「何でもないわよ。でも、刺激的かもしれないわね。西園のお嬢様には」
口調を変え、ついでに表情も別人のように柔らかにして、老婦人はくすりと笑う。
「そんなことまで知ってるんですか」
もう、驚きはしない。苦笑する私に、
「霊が教えてくれるのよ」
人差し指を口元でピンと立てた可愛らしい仕草で、何者なのかさっぱりわからない彼女はにっこりと笑う。
「それじゃあね、あかりちゃん。――楽しい夜を」
結局、彼女のことをどこで見たかは思い出せなかった。
*
「お疲れさま。今日は長い時間ありがとね。閉めとくから着替えて」
厨房から出てきたオーナーが声を掛けてくれる。いつの間にか、周囲には誰も居なくなっていた。自分の知り合いを人に押しつけて、上司はどこへ消えたんだか。
「給料は帰る時でいいかな?」
「あ、はい!」
「じゃあ、あとで」
オーナーを待たせているような気がして、急いで着替える。
別人のような姿を写真にでも撮っておけばよかったと気づいたのは、コートまで着終えてからだった。
髪を整え、眼鏡を外して、はい元通り。って、これから帰るんだから眼鏡は外しちゃ駄目か。
更衣室を出て店へ戻ろうとすると、そこでやっと上司の姿を見つけた。
「こっちもう閉まってるよ」
「城ノ内さん、どこ行ってたんですか?」
「ちょっと、色々ね」
女性陣にストーカー対策の報告でもしていたんだろうか。適当にはぐらかした後、困ったような顔でこちらの頭を撫でてくる。
「……なんですか、急に」
「いや、元に戻っちゃったなーと思って」
「そりゃ戻りますよ。何馬鹿なこと言ってんですか」
「似合ってたのに」
そんなことを残念そうに言われても困る。
いつの間にかおもちゃから着せ替え人形にクラスチェンジしたのか、私は。
「えっと、オーナーは? 帰りに寄るように言われたんですけど」
「ん、じゃあ行こっか」
そうして、上司は歩き出す。私の手を引いて、――出口とは逆方向へ。
「え、ちょ、どこ行くんですか?」
「今日の最終目的地」
そう言った彼は、笑いながら階段を上って、最上階へ。
そして『関係者以外立ち入り禁止』のドアに手を掛ける。
「――わ、」
ごう、と風の音が一瞬耳を塞いだ後、
「お疲れさまー!」
暗闇の中から、数人の声がした。
「……え?」
そこには『りん』のメンバーが勢揃いしていた。
「なんでこんなとこで?」
そう言った私の視線を、上司が指で空へ導く。
「――え?」
釣られて目をやった、その方向には。
ひゅう、と音を立てる一本の光の筋。
そして、視界を埋め尽くす黄金の光と、
全身を震わせる、音。
「おー始まったねー!」
響き渡る拍手と、歓声。
それは、ビルの外からも、風に乗って聞こえてくる。
その言葉を目の前の光景と当てはめられるまで随分と時間が掛かった。
対岸から打ち上げられる、色とりどりの――
「――花、火」
空一杯に咲き乱れる光の線に、全感覚を奪われる。
確かに祭りで毎年季節外れの花火が行われることは知っていた。けれど。
音もほとんど聞こえないような遠い光を実家の窓から眺めていた記憶が、重なる。
――花火とは、こんなに圧倒されるものだったのか。
「今日は一日ありがとねー! まかない程度だけど食べて食べて!」
オーナーのそんな言葉で始まったのは、まさにこの場にふさわしい、打ち上げという名の宴会。
けれど私は、渡された紙コップのビールに口を付けることさえ出来ずに、ただ呆然と空を眺めていた。
空に光が花開くたび、ほんの少し遅れて身体に走る衝撃。受け止めるだけで、精一杯だった。
「……お疲れさま」
そんな私の様子に気がついたのか、上司が隣に立つ。いつものように私の頭に手を置いて、口にする労いの言葉には詫びの色が混じっていた。
「なかなかでしょ? 『りん』の従業員だけの特等席」
この建物は、実はオーナーの持ちビルらしい。
「――私、初めてです。こんな近くで見るの」
実家に居た時は家から出してもらえなかったし、去年は仕事の真っ最中だった。まぁ、どのみち一緒に行く友達も居なかったんだけれど。
「ん、知ってる」
しれっとそんなことを言ってくる。情報源は……まぁ、想像が付く。
――そっか。ここが、最終目的地。
やっと、山野辺さんの言葉の意味がわかった気がした。
きっとこの人は、これが見せたかったんだ。
視線を空に固定したまま動かない私に、彼はくすりと苦笑する。
「ご感想は?」
「なんのですか」
「今日一日」
閃光に目を細めながら、少しだけ意識を頭の中に戻す。
そうですね、と前置きして、率直な思いを口に出す。
「最悪でした」
「はは、やっぱり?」
「当たり前でしょう? 仕事は忙しいし、結局おとり役だったし」
「ん、……ごめん」
「本当なら、また首でも絞めてやりたいところですけど」
笑いながら言ってやると同時、一際大きな花が咲く。
「――でも、これで全部吹っ飛びました」
空に溶ける光露を見届け、傍らの上司を見上げて。
「来年、また手伝ってあげてもいいって思うくらい」
少し驚いたような表情へ、にっと笑ってみせた。
「次はおとりなんかしませんからね」
わずかに肩をすくめて、上司が苦笑する。
「……了解」
爆発音の消えた屋上では、みんなの騒ぐ声がよく聞こえるようになる。彼女たちにとっては宴会のほうがメインらしく、あれだけ迫力のある花火もそっちのけだったようだ。
「……私たちも、乾杯しましょうか」
「ん。今日は本当にお疲れさま」
「お疲れさまでした!」
ぶつけた紙コップは音も立てずにへにゃりと歪む。
寒空の下、飲み干したその冷たさは、意外にも悪くないものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます