第153話 名前を語られた話

 会社に勤め始めて3年ほど経っていた。

 それなりに仕事にも慣れ、後輩もできた。

 先輩たちとも打ち解けて、可愛がられていた。

 金こそ無かったが、毎日は楽しく、生きてるだけで楽しい…そんな時代が僕にもあった。


 この当時、携帯電話なんて有ったのだろうか…。

 連絡先と言えば家電話だけ、そんな時代。


 ある日、会社に1本の電話が入った。

「そちらの会社に桜雪さんという方いらっしゃいますか?」

 事務員が応対して、私が電話にでようとすると…。

「なんか…変な感じだよ…知り合いって感じじゃないけど…」

 事務員が怪訝そうな顔で受話器を私に差し出した。

「お電話変わりました、桜雪です」

「桜雪さんですか!」

「はい…どちら様で?」

「私、A子の母親でございます!」

「A子さん?はぁ…どちらのA子さんでしょうか?」

「ふざけてるんですか!」

「ふざけてません…心当たりが無いのですが…」

「とにかく、お会いできませんでしょうか!」

「はぁ~…あの仕事中でして…」

「娘の事で緊急にお話したいのです!」


(メッチャ怒ってる…A子誰?)

「ちょっと…外出していいですか?」

 上司が頷く。


「解りました…どなたか存じませんが、何処に行けばいいんでしょうか?」

「駅前の喫茶店でお待ちしております、では後ほど」

 ガチャン!


「ナニがあったんだ?」

 事務員が、上司に報告していたらしい。

「声がここまで聴こえたぞ」

「はぁ…実は…」


 …………。

「お前、A子って娘知らないの?」

「知らないですね~」

「う~ん…相手はお前の名前も、会社も知ってたんだろ…変じゃないか」

「そうなんですよね…誰なんでしょ?」

「まぁいい…相手の剣幕も相当みたいだ、とりあえず行ってこい」


 指定された喫茶店で、店内を見回す…顔見知りいねぇ…。

 キョロキョロしてると…こちらを見ている年配の女性、その隣に若い女の子。

(アレかな…)

 近づいて

「すいません…電話の方ですか?」

「あなたが桜雪さんですか!」

 マジマジと顔を見ても覚えがない…。


 娘が母親に小声で言う。

「お母さん…この人じゃない…この人知らない人…」

 聴こえてるよ…。

「あの…」

「あなた…ホントに桜雪さん?違う人出してきたんじゃないの?」

 母親が僕に食って掛かる。

「桜雪です…あ~、免許書見せましょうか?」

 免許書を差し出すと…。

 ジロジロと見比べる母娘。


「あの…どういう要件なんでしょうか?」

 僕が切り出すと…。

 母親が

「私の娘が妊娠しました」

 キッパリと言った。

「……で?」

「桜雪さんとお付き合いしていたようで…」

「私と?」

おどおどしていた娘が小声で

「お母さん…この人…知らない人」

「あの…初対面ですよね」

「はい」

 頷く娘。

「……で?」

「いえ…その桜雪さんから、勤務先を聞いていたようで…連絡したしだいで」

「はぁ…おかしいでしょ?付き合ってて、家の場所も、電話番号も知らないって…付き合ってたんじゃないでしょ」

 母親が娘の顔を見る

「ナンパされたの…」

 娘が泣きそうな顔で母親を見る。


 なんともいえない…空気が…支配する喫茶店。

「あの…関係ないですし、仕事有るんで戻っていいですよね」

「待ってください!」

母親が僕を呼び止めた。

「なんですか!」

 僕はイライラしていた。

「あなたの知り合いですよね!探してください!」

「おい!大概にしろよ! 勘違いで呼び出しておいて、すいませんもなく、なんだその態度!ツラのカタチ変えんぞコラ!」


 喫茶店が静まり返る。


「すいませんでした…御迷惑をおかけしました…」

 悔しそうに頭を下げる母親。


 僕は店を後にした…。


 その後は知らない。

 会社に戻り上司に報告した。

「まぁ…人違いでよかったけど…誰なんだ?お前の名前語ったの?」

「会社のヤツですね…見つけたら、僕の好きにさせてもらいますよ」

「あまり…手荒なことは避けるようにね…桜雪くん…頼むよ」


「本多くん…まさか君じゃないよね」

「冗談じゃないですよ…桜雪さんの名前なんか語りませんよ、どうなるかくらい解ってますから…会社のヤツじゃないんじゃないかな~…違うと思うな~」


(お前じゃないのか?本多よ…)

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