第三部 二十三

 ケアンゴームズ国立公園東部のフィンジアンで、カーティスたちは休息を取っていた。武装隊員を乗せたヘリは、依然としてカーティスたちがいた場所を往復している。


「アレン、携帯電話を借りてもいいか。バルタサールに、俺のスマートフォンが使えないことを伝える必要がある」


 水筒の水を飲んでいたアレンは、


「わかりました」


 カーティスは、最後に連絡を受けた際の番号を思い出し、画面に入力すると、スマートフォンを耳にかざした。


『誰だ?』


 バルタサールの声ではなかった。


『カーティスだ。バルタサールじゃないのか?』


『俺はベルナルド・ルエンゴ。ボスはパトリシオのところだ。さっきボスに呼ばれてもんで、急いで向かってる』


『そうか。なら、伝えてほしいことがある』


 カーティスはバルタサールと自分の関係を伝えたうえで、手持ちのスマートフォンは盗聴を受けている可能性が高いこと、つぎからは、いま使っている方に掛けてほしいと話した。ベルナルドという男は終始、人の良さそうな快活な声で答えると、通話を切った。

 足音がした方角を向くと、ふたりの人間が近づいてきた。緑色のギリースーツを脇に挟んでいる。

 カーティスは立ち上がりながら、


「なんとか合流できたな」


「誤って撃たれるんじゃないかと思ったぞ」


 ハワードは疲れ気味に言った。


「ヘリが出てきて助かったな。こっちの物音に気付く気配もなかった」


 ノーマンの言い分はもっともだった。

 本来は、カーティスが狙撃で敵を引き付け、森に潜んでいるハワードとノーマンが敵を仕留めるはずだった。だが、相手がヘリを呼んでくれたおかげで、ブレード音が静穏性を高めてくれたのである。

 カーティスたちの敵は協力隊であって、イギリス警察ではない。それが四人の共通認識であった。いいように利用されているだけのクライヴたちを、殺すことはできない。

 カーティスはふたりにも休むよう話した。ハワードとノーマンはギリースーツを地面に敷くと、その上に座り込み、水筒の水を飲んだ。辺りは薄暗い。虫の鳴き声が大きく訊こえるほどで、ふたりの水を飲む音もよく訊こえた。

 いつ死ぬともわからぬ緊張感と、行動をともにする仲間たち、カーティスは、かつての戦場の空気を感じていた。違う点があるとすれば、中東かヨーロッパか、くらいのものだ。イラク戦争では、連合軍が圧倒的な戦力を投入したが、カーティスたちの戦力は、戦闘員四名と、携行可能な範囲で持ち出した武器と弾薬だけである。あのときとは立場が逆だ。


「最初の見張りは私がやります」


 アレンの厚意に甘えたカーティスは、バッグからギリースーツを取り出した。それを掛け布団代わりにして寝転ぶ。夜空には満点の星が広がっていた。バグダッドでアレンたちとたき火を囲んだ、あの夜と同じだった。冷酷な世界では、火の温もりがなによりも優しく感じられた。六人で無邪気に語り合い、レーションでささやかなパーティを開いたことが思い起こされ、カーティスの目に熱いものがこみ上げてきた。それを必死で抑え込んだ。

 カーティスは、右で小さな寝息を立てているアレクシアを見た。戦場に抱いていた憧れを完膚なきまでに打ち砕かれて以来、空虚を埋めるために犯罪者どもを殺し続けた日々。長く続いた虚しい毎日を、マクシミリアン・ヒューズと戦っている最中にかかってきた、あの電話が変えた。アレクシアと国内を旅していたときから、変化の兆しはあったのかもしれない。

 カーティスは寝返りをうった。

 協力隊の追撃を振り払ったとしても、アレクシアは裁きを受ける。だが、それが銃弾よりは、法であるほうがいい。

 腕時計のアラーム機能を二時間後にセットすると、カーティスは目をつむった。いままでの疲れが出たのか、そう時を待たずして眠りに落ちた。


 ※


 フィンジアン南東の森に停めてあったアウディに乗り込んだ一同は、給油のためアボインを目指す。B976を北東に進み、バーズモアを過ぎてアボインへ。舗装された道を滑らかに走るアウディは、十分ほどでカーティスたちを目的地へ送り届けた。太陽は顔を出したばかりで、辺りは暗かった。

 ガソリンスタンドで給油を終え、ノーマンは紙袋を持って車内へ戻って来た。なかに詰められたパンや菓子を食べて空腹を満たす。食事を終えたカーティスたちは、さらに北上するべく、アボインの街中を進んだ。

 アボインの中央に走るバラスター通りの両脇は、整えられた庭木が直線に伸びていた。奥には、比較的新しい無骨な石造りの家々がそびえ立ち、風格ある佇まいからは、ノルマン様式の残り香を感じさせる。

 閑静な住宅街を走るアウディの速度が落ちた。助手席に座っていたカーティスの顔に、緊張が走った。


「協力隊だ」


 早朝からの勤務に忙しい者たちが行き交う交差点に、武装した隊員たちが立っていた。近くにはバンが三輌止まっている。ノーマンはバックして別の道を探そうとした。だが、道の真ん中に立っていた者が、微動するヘッドライトに気付いた。

 カーティスは足元の小銃に手を伸ばした。


「下がれ!」


 アウディは全速力で来た道を戻る。カーティスは開けた車窓から上半身を乗り出すと、小銃を構えていた相手に攻撃を加えた。崩れ落ちる隊員をかばうように、別のふたりが前へと進み出で引き金を引く。ボンネットの表面に穴が開いたが、本格的な反撃が加えられる前に車は右折した。


「手前の通りを右折して、北東へ向かおう」


 うなづいたノーマンは、バラスター通りの手前にある通りを右折した。そのままアボインを出るべく速度を上げた。

 バラスター通りに合流すると、斜めに伸びる対向車線からサイレンを鳴らした車が走って来た。イギリス警察だった。背後にはバンが二輌続く。銃器専門指令部SCO19だ。

 そして、サイレンを鳴らす先頭車両の助手席から体を乗り出し、カーティスを見つめる男がいた。


「カーティス!」


 クライヴの怒鳴り声は、車のエンジンと空を裂く音で少しばかり小さくなっていたが、その鋭い剣幕をカーティスはたしかに感じ取った。複雑な口調から感じたのは、怒りと驚きと困惑。この異常な状況に対する素直な心情であった。

 二輌の車が高速ですれ違う。クライヴの乗った車はタイヤを擦らせながら大きく反転すると、カーティスたちを追うべく速度を上げた。バンも追随する。


「ありゃ、イギリスうちの警察だぞ!」


 後部座席からハワードが叫んだ。

 ノーマンが視線をこちらに向けながら、


「どうする」


「全員、ゴム弾に切り替えろ」


 カーティスたちは、マガジンを暴徒鎮圧用のゴム弾が入ったマガジンに付け換えた。サイドミラーから後方を見ると、クライヴたちの車列は五十メートルほどの位置を維持していた。

 ノーマンが操る車は、交差点で待機していた左右の車列などお構いなしに突っ切っていく。

 直線を走っていても、クライヴたちからの攻撃はなかった。カーティスも銃の引き金を引くことはなかった。彼らに攻撃の意志がないのであれば、わざわざ戦う必要もない。

 クライヴたちの車は徐々に近づいてきた。


 ◆◆


 セフェリノたちがドアを開けると、そこには床に伏せるパトリシオと玄関で出会った女、ヘロインの袋を持ったままソファーに腰かけるバルタサールがいた。


「ボス、どうしましたか」


「パトリシオをそこの椅子に縛り付けろ」


 バルタサールが顎で指示した場所には、豪勢な革張りの椅子があった。背もたれは高く、手入れはかなり行き届いていて、いかにも高そうだ。そもそもこの部屋自体が別世界のようだったが、セフェリノは口に出さず、バルタサールの指示に従った。

 二年前とは無残にも変わり果てた友の姿を見て、セフェリノはいたたまれない気持ちになった。醜く太った両手の指には、ルビーにアメジスト、エメラルドといった宝石の類が指輪となってはめられている。切れ者のようだった鋭い顔つきも、すらりと伸びた長身もない。金や権力を手にすれば、人はここまで変われるものなのか。


「おい、そっち持ってくれ」


 ベルナルドに言われ、セフェリノはパトリシオの左腕を担いだ。バルタサールが拳銃をパトリシオに突きつけているあいだ、ふたりで執務机の後ろにある椅子へと引っ張っていき、彼を座らせた。


「無駄さ。いまに俺の部下やサンティジャンの増援が来る」


「楽しみだ」


 バルタサールは言い放った。彼は白い歯を見せて笑っていたが、目はなにひとつとして変わっていなかった。彼はソファーかた立ち上がり、女を一瞥すると、もう一度パトリシオを見た。


「ベルトで固定しろ」


 セフェリノとベルナルドは腰のベルトを外し、パトリシオの両手首とひじ掛けを固定した。バルタサールが自身のベルトを差し出したので、セフェリノはそれを受け取り、パトリシオの両足首と支柱をきつく縛り上げた。

 バルタサールはヘロインの袋に穴を開けた。隙間から漏れ出す粉をワイングラスに注いでいく。

 セフェリノは、これからバルタサールがしようとしていることを悟った。

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