第三部 殺人犯に花束を

第三部 一



 セント・メアリー病院の一室を出たクライヴたちは、ブレンドンの運転するアストンマーティンで、チェルシーへ向かっていた。バルタサールに関連した事件が再び起こったらしい。

 空から差す陽射しが、東にそびえるバッキンガム宮殿と、街行く人々を照らしていた。


「やっと訊けたわね」


 後部座席に座っていたキャロルが言った。

 三時間ほど前のことだった。クライヴ、キャロル、ブレンドン、アーロンを病室に呼んだカーティスは、自らの過去を語った。イラク戦争で自分が体験したこと、戦友たちのこと、帰国してからのこと。神父から訊いたということは、彼との約束通り黙っていた。事実を明かしていくカーティスの顔は晴れていた。

 ローレンス神父の言った通り、カーティスは心に傷を負っていたのかもしれない。だが、カーティスが過去を乗り越えたのであれば、言うことはなにもない。

 キャロルの右に座っていたアーロンは車窓を開け、風を浴びていた。


「まったくだ。これで遠慮せずグロヴナーベーカリーのパンを食えるな」


「あなたは前からそうだったでしょう。ブレンドン、運転中によそ見しないで」


 ほどなくして車は停車した。クライヴはバックミラーに移していた視線を前に戻し、赤になった信号を見つめていた。友人のつぎに頭のなかに浮かび上がったのは、マクシミリアン・ヒューズの名であった。

 あの男の遺体を調べたとき、体からは大量のコカインが検出された。嫌な予感がしてヒューズの自宅に関する調査報告書に目を通したところ、自室の床下に錠剤・・が見つかったと記載があった。アントン・コーベット宅で見つかったものと同じだった。数年前から彼に見られた妄言は、麻薬によってもたらされたということだ。

 それは同時に、バルタサールが関与しているという事実を如実に表している。

 マクミランTAC-50に関しては、アメリカ関係者から有益な情報は得られなかったものの、アメリカとメキシコ間での武器の密輸は活発であり、アメリカ軍の武器が流れていても不思議ではないという。あの対物狙撃銃は、アメリカからメキシコへ、そして大西洋をはるばる渡ってイギリスへ来たと考えていいだろう。実銃の空輸はチェックが非常に厳しい。スポーツハンティング用に偽装したのかもしれない。

 車はヴィクトリア駅を通過し、チェルシーに入った。カジュアル、アンティークなどの店がひしめくキングス通りを逸れ、住宅街に入る。狭い路地を進むと、さっそくバリケードテープを張られた一軒家と、そこを行き来する人が見えた。男女の顔ぶれには、アングロサクソン系だけでなく、ヒスパニック系も混じっている。


「この前来ると言っていた、メキシコからの協力隊か。三十人くらいか」


 クライヴが言った。


「三百人はやっぱ余計だったな。まあ、人手が足りなくなるよりは余っていたほうがいいが」


 ブレンドンがそう言いつつ車を隅に寄せた。

 車を降りると、クライヴたちはバリケードテープを潜って現場へと足を踏み入れた。ドアノブを捻り、窓辺から差す光を受けて暗い廊下を進もうとしたとたん、嗅ぎ慣れた臭いが鼻を突いた。血と死体であった。

 顔を引きつらせて進むと、開け放たれたドアから男性が出てきた。黒髪に小麦色の肌。クライヴに近づくと右腕を差し出し、


「協力隊を率いている、レアンドロ・アドモだ。短いあいだになるとは思うが、よろしく」


 クライヴも右腕を出して応える。


「こちらこそ。重大組織犯罪局のクライヴ・エインズワース警部だ」


 クライヴたちはレアンドロの案内で現場に向かう。

 寝室では、若い男がシーツをかけたまま死んでいた。頭部と胸部に弾が撃ち込まれていて、胸からは赤い円がシーツに染み出している。二十代後半と思しき男の死に顔は穏やかだった。就寝中に殺されたのは明白だった。側の机の上には、透明な袋に入った錠剤がある。周囲に荒らされた形跡はない。


「事件発生からまだ時間が経っていないようで、詳しいことはわからない。近所の人間からの話では、被害者はIT企業に務めているようで、人間関係でトラブルを抱えていたようだな。なにかあったら呼んでくれ。俺は外にいる」


「わかった。親切にありがとう」


 レアンドロは、スペイン訛りの英語でクライヴに告げると、家を出た。


「いままでの現場からすりゃ、まだマシだな」


 悪態をつくブレンドンが遺体を調べ始めたので、クライヴはリビングへ向かった。キャロルは寝室に残り、アーロンが続く。ソファーとテーブルがひとつずつ、その前には液晶テレビ。キッチンの側には冷蔵庫と、至ってふつうの家だった。被害者は人間関係を憂いていたようだが、その苦しみから逃れるために麻薬に手を出したのだろうか。


「ここにも酒がありますね」


 冷蔵庫を開けて中身を見ていたアーロンが言った。


「大人なら酒のひとつやふたつ、冷蔵庫に保存していても不思議じゃないだろう」


「すいません、言葉足らずでした。厳密にはグレンエルギン・・・・・・・です。覚えてますか? アントン・コーベットのときと同じです」


 アーロンの言う通り、アントン・コーベット宅の冷蔵庫にはグレンエルギンは入っていた。


「コーベットの家では、カップがふたつ置かれていました。コーベットは誰かと飲み物を飲んでいたはず。なにかつながりがあるかもしれません」


「同じ酒を飲んでいても、偶然で片付けられそうなものだが――」


 クライヴはふと顔を上げた。

 マクシミリアン・ヒューズの家にもグレンエルギンが置かれていたはずだ。捜査員からの報告書にそう記載されていたが、冷蔵庫に入っている中身は関係ないだろうと思い、読み流していた。

 グレンエルギンがすべての被害者の家に置かれているなら、なにか意味はあるかもしれない。思考を遮るかのように、クライヴのスマートフォンが振動する。彼はポケットからスマートフォンを取り出すと画面を見た。SOCAの事務員からだ。


『もしもし、クライヴです』


『クライヴさん、ナイジェル・ヘンリーの容態が安定しました。事情聴取が可能とのことです』



 フローレンス・ナイチンゲールが設立した世界初の看護学校には、いま、聖人とは縁がない罪人が紛れ込んでいる。正確には、担ぎ込まれたと言うべきか。

 クライヴはキャロルたちを引き連れ、ナイジェル・ヘイリーの病室を目指していた。ヘイリーは、支離滅裂な妄言でクライヴたちを辟易させた、例の麻薬中毒者ジャンキーだ。4人分の靴音が、白く塗られた院内の通路に響く。108号室に着いたクライヴは室内に入るため取っ手を右に引き、ドアを開けた。部屋を出るナースとすれ違い、軽く会釈をする。

 純白のベッドで休息を取っている男、ヘイリーは、クライヴたちの姿を見ると目を見開いた。クライヴは彼のベッドへと近づくと、側に置かれていた椅子に腰を下ろした。


「あんた――」


「少し前にバーミンガムの廃墟で会った、クライヴ・エインズワースだ。あなたの状態が安定したというので、事情聴取に来た」


「ああ、覚えてる。わざわざクリミア・・・・・・・・までご苦労なことだよ・・・・・・・・・・


「……大丈夫なんですか?」


 クライヴの背後で、壁に背を持たれていたアーロンが心配そうに言った。


「兄ちゃん、そいつは余計なお世話ってもんよ。俺は至って正気さ」


 ヘイリーのスキンヘッドが、陽を受けて煌びやかに光る。窪んだふたつの目は相変わらず虚ろではあるが、最初に出会ったときと比べれば、顔の血色はよく、全身に生気がみなぎっている。

 クライヴは一度咳払いをすると、


「あの廃墟で起こった出来事を、もう一度訊かせて欲しい。覚えている限りで構わない」


「……ああ、八発の砲弾の話だね?」


 クライヴは顔を曇らせた。バーミンガムの襲撃事件では、八回の砲撃を訊いたなどという証言もなければ、報告もない。万が一のことを考えて現場の責任者であるスコットに訊ねたが、怪訝な表情をしながら否定されたのは記憶に新しかった。

 怒声のひとつでも浴びせてやりたい気持ちを抑え、クライヴはヘイリーの言葉を待った。彼の落ち着いた物腰に、わずかな光明を見出していた。


「あのとき、俺はコカインをつくる作業がひと段落したもんで、そのまま奥の休憩室に行ったんだ。ラジオを訊きながらぼんやり錆びついた天井を見つめていたとき、ことが起こった。ホールに入るためのドアが勢いよく開く音が響いたかと思うと、銃声が幾重にも重なり五分くらい続いた。テンプル騎士団・・・・・・がここの存在を嗅ぎつけていたっつう噂は俺も耳にしてたんだ。秘密情報部SISの長官とコンタクトを取ろうとも思ったさ、だがよクライヴさん、俺の殺しのライセンスは、とっくの昔に失効しちまってんだ。そうなりゃ、ただの一般人なのよ」


 ホラを吹くヘイリーは至って真剣だった。

 ブレンドンが吹き出す音を訊きながら、クライヴは、


「……それで、銃声が終わった後、どうなった?」


「俺はパニックになって、すかさずベッドの下に入り込んだ。しばらく掃除してなかったもんで、ほこりが体中にまとわりついてうんざりしたよ。少しすると、ひとり分の足音が銃声とともに近づいてきた。きっと生き残りを始末していたんだろうさ。俺はさながら、刑の執行を待つ死刑囚さ。歯をがちがち鳴らしながら、その瞬間を待っていた。足音が俺の部屋の前で止まった瞬間だ、砲撃が始まったのは。俺は訊き漏らさなかった。八発、きっちり八発だ」


「そいつを巻き添えにして砲撃をしたのか」


「間違いない。だって、砲撃の最中に足音は訊こえなかったからな。あいつはその場で動かなかったに違いない。ただ――」


「ただ?」


「いやあ、なに、大したことじゃないんだが、やけに精密な砲撃だったな。なにせ、砲撃のタイミングも、音もすべて同じ・・・・・だった」


 クライヴはヘイリーの証言をもとに、頭のなかで現場を作り出していた。

 彼は同じ場所に等間隔で砲撃が加えられたと言っている。だが、実際に砲撃はされていない。なら、それと勘違いするなにかがあったのではないだろうか。


「ヘイリーさん。バルタサール一味の逮捕につながる証言をすれば、あなたは裁判で有利になる。その分、刑期が減刑されるんだ。その砲撃に、気になることはなかったか」


 ヘイリーは眉間に皺を寄せると、目をつむり、腕を組んで思考に耽った。あからさまな態度は演技のようにも見える。本当に演技だったら、クライヴは事情聴取を打ち切る腹づもりだった。

まぶたをゆっくりと開けたヘイリーはクライヴを見ると、


「……八発目だ。そうだ、八発目でちょっと気になったことがある」


「それは?」


「砲撃音が消えちまったんだ。途中でぷっつりと……その後で足音が遠ざかっていったんだ!」


 クライヴの頭のなかで状況を組み立てた。足音が遠ざかったということは、その男は廃墟から出た。そのタイミングは、ヘイリー曰く、砲撃の後である。

 ヘイリーは興奮した様子で息を荒げていた。


「済まない、ちょっと疲れちまった。休憩してもいいかい」


「ヘイリーさん、ありがとう。おかげで手がかりがつかめた」


「そいつは良かった。君たちに、神の加護があらんことを」


 ※


 四人は近所の店に寄って軽食を買うと、車内に戻った。ドアの窓をすべて全開にし、昼下がりの心地よい風に当てられながら休息を取る。


「ヘイリーの証言からわかったことはふたつある」


 クライヴが言った。


「本当? 麻薬中毒者の妄言にしか訊こえなかったけど」


 とキャロル。


「砲撃音は、おそらく柱時計・・・だ。ヘイリーが言っていた砲撃は、すべてが等間隔に、同じ場所に撃ち込まれた。だが、廃墟にはそんな跡はない。ヘイリーは、そのときに訊いた柱時計の音を、砲撃音と勘違いしたんだ。麻薬中毒で正常な判断ができないなら、可能性は十分にある」


「廃墟に柱時計なんてなかったけど――」


「そこで、遠ざかっていく足音が重要になる」


 アーロンが付け加えた。クライヴは彼の言葉を継いだ。


「本当なら、ヘイリーのいた部屋を見るはずだった男が、途中で引き返した。つまり、そこに、奴が行動を変えざるを得ないようなことが起こった――誰かの指示とか」


 バックミラー越しに映るキャロルの顔がはっとした。


「電話」


 クライヴはうなづく。


「なるほどな。まとめると、廃墟を襲撃した男は、ホールにいた構成員を殺した後、生き残りを探して休憩室のある場所まで行った。ヘイリーの部屋に入る前で、男は携帯を取り出して通話を始めた。そのときに受話口を通して柱時計の音が訊こえ、ヘイリーはそれを砲撃の音だと勘違いした。男は通話を終えると、その場から去っていった」


 ホットドッグを食べながら話すブレンドンの声はひどく訊き取りにくかったが、要するにそういうことだった。


「襲撃犯の男が急に行動を変えたのなら、きっとそいつの上司にあたる存在だ。現場で死んでいたリーダーには、バルタサールの一味による犯行を示す、頭部と胸部の銃痕があった。であれば、通話していたのは――」


「バルタサール・ベネディクトと、彼のボディーガード」


 キャロルの言葉に、クライヴはうなづいた。


「加えて言うなら、バルタサールのアジトには、柱時計があるということだな。奴がイギリスへ来たのが二年前。なら、ここ二年のあいだに柱時計を購入した家がアジトである可能性が高い――」


 島国とは言え、イギリスは広い。現状の手がかりだけでは母数が大きくなるのは想像に難くない。


「グレンエルギンが、捜査の包囲網を狭めてくれる」


 スコットランド・ウィスキーの名産地である、スコットランドのエルギン。エルギン内に範囲を限定すれば、一週間である程度は絞り込めるだろう。

 休憩を終えた四人は、ブレンドンの操る車で警視庁へ向かった。 


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