16 エピローグ
第112話 正義(1)
ジャンニは警察長官庁舎の中庭で、ひさしから落ちる雨粒を眺めていた。
すぐに踵を返して立ち去りたい気分だった。しかし、この日の午後に庁舎へ来るよう、リドルフィに言われている。
改めて思った――何とも陰気な場所だよ。古井戸、壁面の紋章、片隅にある斬首用の切株。全てが見慣れないもののように目に映った。おかしなものだ。最後に訪れてから、もう半年も経ったかに思える。しかし実際には1週間しか経っていない。
マントをしっかり体に巻きつけて雨粒の下に出た。寒かった。雨は数日間続き、夏の陽射しを空の彼方へ追いやった。まだ9月だというのに、空気はすでに冷たい。
地下牢の鍵をぶら下げて、看守がジャンニを待っていた。
「何度も取り調べようとしたんだが、奴はあんたとしか話さないと言ってるらしい。手枷がついてるから暴れたりはしないだろう。でも扉は開けとく。何かあったら――」
「ああ、分かってるよ。外で待っててくれ」
*
1週間前、夜明けを待って出発した警吏隊が農場からブルーノを連行して来た。
マルカントニオ・ラプッチは、この農夫にかけられた容疑の信憑性を疑問視した。体は大きいが気が弱そうで、4人も殺したようにはとても見えないからだ。
だが、ライモンド・ロットは高潔な男だった、と取調べで彼が言った瞬間、ブルーノの態度は変わった。それまで肩をすぼめていた農夫は罵声を上げて書記官に飛びかかり、目をえぐろうとしたらしい。
その後は一言も喋らなくなった。困惑する裁判官に向かって、唯一、ジャンニ・モレッリになら話してもいい、とブルーノは言った。拷問器具の前で脅しても、彼はそう繰り返すだけだった。
*
身を屈めて独房に入った。寝台にブルーノが座っていた。もじもじと不安そうにしている。
目の前にいるこの人殺しをどう思っているか、ジャンニは考えた。分からなかった。あの晩の顛末がジャンニを疲労困憊させていた。
「あんたはレオナルドを子供の頃から知ってるね?」
ブルーノの小さな目が嬉しそうに輝いた。
「おれは、あんたなら分かってるんじゃないかと思ってた。やっぱり分かってた」
「サンタ・フェリチタ教区の司祭に聞いたよ。あんたは施療院で育ち、大きくなってから子どものない樽職人の夫婦にもらわれた孤児だった。でも、数年たってレオナルドが生まれると、夫婦はその子をより可愛がった。あんたは怒りっぽく、手のつけられない乱暴者だったんだ。ある時は隣人のノーラにひどい怪我をさせた」
「あの女は馬鹿だった」
「その子は家から追い出された。ブルーノという名前だったが、司祭によれば、彼はちっちゃい弟が大好きだった。レオナルドが釈放された後、彼をヴォルテッラから連れて来てあの農場に住まわせたのはあんただね」
「そうだ。可愛かったよ、宝物だった。おれにすごく懐いてた。弟がいなくなって――八人委員会に逮捕されたと聞いて――おれは死ぬほど悲しかった」
「レオナルド――つまり、ラーポだ。釈放されてからは偽名で通してたんだな。これからは彼をレオナルドと呼ぶよ」
「ああ」
「あの男に一連のことをやれたはずがないんだ。レオナルドは拷問で腕をだめにされ、自分の名前を書くのも困難になっていた。たぶん一生そのままだろう。もう、石を削るために鑿を振るうことができないんじゃないのかい。そういう体で、死んだ男を担いで階段を登って縄で吊すなんて大仕事はできない。ヤコポを殺したのもあんただろう?」
ヤコポは7月9日の日記に、橋の上で妙な男に会ったと書いた。それはブルーノのことだったのだ。
――相手の方から急につかみかかってきた。わけの分からないことを喚いていた。変な男だと思い、私はすぐにその場から立ち去った。あれが誰だったのかは知らない……
「そうさ。苦労して、おれはフィレンツェで奴を捜した。奴と八人委員会のせいで大事な弟が酷い目に遭ったって事を分からせなけりゃならなかった。そしたらあの馬鹿はおれを突き飛ばした」
「どうして、そうまでしてレオナルドのために復讐したかったんだ?」
ブルーノの手は後ろに回っているので、その動きはジャンニには見えなかったが、どうやら手枷を引きちぎろうとしているようだ。
「弟がこけにされたら、おれがされたのと同じだからだ! 奴は殺さないでくれと言い、裁判で嘘をついたと白状した。おれはいいことを思いついた。あの嘘つきの口に銅貨を入れてやったんだ。金が欲しかったそうだからな。奴は金を食って死んだんだ!」
体を震わせて笑っている男を見ながら、ジャンニは思った。
ヤコポも死ぬ前にこの笑いを見たんだろうか。
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