第35話 息子の証言

 菜園はのどかな緑の中にあった。地面は区分けされ、小道の両脇に野菜や花が植えられている。レモンの葉の間からは遠くの教会の赤い屋根が見える。


 まだ何も植えられていない畑もあった。横に手押し車が置かれ、薪割り用の斧が立てかけてある。すぐに戻るつもりでちょっと置いていったようにも見える。


 主を失った菜園を見渡し、ジャンニ親方がつぶやいた。

「おれがポックリ死んだら、工房もこんなふうに仕事を残してほったらかしになっちまうんだろうな」


 今だってほったらかしだ、とミケランジェロは思った。


 その日、最初に工房を訪れたのは組合の事務員だった。

 フィレンツェの彫金工房は徒弟の名簿を提出することが義務づけられている。だが、ジャンニ親方からはまだ出されていない。いったい、いつになったらもらえるんです?

 

 次は、身なりのよい男の客だった。数か月前に宝飾品の製作を頼んだのだが、と男は言った。だが、例によって親方が忘れたらしく、その品はもちろんできあがっていなかった。困り果てて親方の机を調べると、鼻をかんで皺くちゃになった注文書がごみの中から出てきた。


 ミケランジェロが叱責されている間、もう1人の徒弟のリージは模造宝石をくすねたり、カゴから小銭を取って懐に入れたりしていた。そこへまたもピエルフランチェスコ・リッチョ氏が現れ、親方はどこかと呼ばわりはじめたのだ。


 ミケランジェロは警察長官庁舎へ行ってみた。が、そこでも皆がジャンニを捜していた。思いあたる場所を歩きまわり、リナルデスキ家の若者を連れて菜園へ向かう途中のジャンニをやっとのことでつかまえた。



 *



「リージのことで親方に話しておきたいことがあります」

「なんだい?」


 菜園の中央にある塔を、ジャンニは見ていた。木造のやぐらが備わっている。古い時代の監視塔だろうか。


「親方のいない間に、あいつが盗みを働いているのをご存じですか?」

「ああ、知ってるよ」


 ジャンニはもう歩き出していた。


「なら、どうしてあんなやつを工房に置いておくんですか?」

「お前さんとちがって、あの坊やは貧しい家の出だ。マウリツィオみたいな悪党に嫌がらせを受けたら、腹いせに金をちょろまかしたくもなるよ。それより、どうしておれは菜園を見たいなんて言っちまったんだろうな。ここには何もないよ」


 塔の内部は思ったよりも狭かった。階段と、突きあたりにもう1つ扉がある。突然の侵入者に驚き、砂だらけの床を緑色の小さなトカゲが逃げていった。


 2階にあがった。イグサを敷いた床に大型の木箱が1つ。敷布の束と明かりを灯す道具が上に置いてあるだけで、あとは何もない。


 最上階のやぐらは、かなり古かった。あちこちが壊れ、木材が失われている。長居するのは危険だという気がした。

 

 ここで、もしくはここへくる途中でエネア・リナルデスキ氏の身に何かが起こったということらしいが、ジャンニはすでに興味をなくしているように見えた。


「手間かけちまったな。親父さんが死んだ原因について何か分かるかもしれないと思ったんだよ」

 ジャンニがフェデリーコに言った。


「屋根にも上がれますが、ご覧になりますか?」


「いや。階段を登ることについちゃ、一生分を昨日の夜にすませちまった。あとは天国が近くなったときだけでいい。さて、行くかい?」


 フェデリーコはしばらく黙っていた。

「さっきは心あたりがないと言いましたが、父の件でちょっと気になることがあって……」


「どんなことだ?」


「父が、手紙を火にくべるのを見たんです」


「いつ?」


「2カ月ほど前でした。リヨンに発送する商品について相談したくて、書斎を訪ねた時です。父は、扉に背を向けて手紙を燃やしていたんです」


「誰からの手紙だったんだ?」


「分かりません。私が見ているのに気づくと、ぎょっとした顔になって、炉に投げ入れてしまいました。燃え尽きる前にちらりと見えたから、取引関連の書類じゃないのは確かです。それに、そういうものは燃やしたりしない。すべて保管しています」


 ジャンニは退屈そうな顔だ。

「別におかしくはない。古い手紙かもしれない。火にくべたのは、いらなくなったからだろう」


「分かっています。気になったのはその時の様子なんです。都合の悪いところを見られたような……初めてでした、あんな顔を見たのは。ばつが悪くて、何を燃やしたかは聞けなかった。父も、早く出て行ってもらいたがっている顔だったんです」


「まずいことが書かれてあったとか?」

「どういう意味です?」

「お前さんは、さっきこう言った――商売をやってれば、少なからず恨みをかう」

「あなたは父をご存じない。父を恨んでいる人はいなかった」

「誰かに脅されてたとしたら?」

「まともにとりあわないでしょう。父は謂れのない脅しに屈する人間じゃありませんでした」


 フェデリーコは支柱の1本に近づいた。広大な林と、近くを流れるアルノ川を一望できる場所だった。


 ふいに、音がミケランジェロの耳に届いた。

 地面に杭を打ち込むような音だった。


 フェデリーコが大きく後ろによろめいた。彼の胸から太い矢が突き出しているのを見て、ミケランジェロは驚いた。


 目を転じると、近くにある別の塔で小型の機械弓が翻り、頭巾つきの長衣をまとった人物が窓の後ろに身を隠すのが見えた。


 フェデリーコは片手を伸ばした。が、つかまるものがなかった。彼は壁にぶつかり、ゆっくりと床に崩れ落ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る