第32話 リナルデスキ邸

 玄関に小さな鉢植えがふたつ。豆粒のような葉が伸びている。


 エネア・リナルデスキの家は古い塔が並ぶ通りの中程にあった。


 広間に足を踏み入れ、一家の事業はかなりうまくいっているらしい、とジャンニは思った。高価な装飾品を見ればそれがわかる。大理石の泉のまわりは弔問客で埋まっている。


 1人の若者が現れた。背筋を伸ばして歩いてくる姿に疲労がにじみ出ている。エネア・リナルデスキの長男、フェデリーコだ。


 八人委員会の裁判官であることを隠す理由は思い浮かばなかったので、ジャンニは正直に伝えた。若者は驚かなかった。


「夜半を過ぎた頃、親族が急に訪ねてきたんです。大聖堂で騒ぎがあったとは聞いていましたが、まさか、父が……あんな……」


 続き部屋からは女のすすり泣く声が聞こえてくる。フェデリーコが平静を取り戻すまで待ち、ジャンニはお悔やみを言った。


「死はあらゆる人に課せられた義務であり、誰もそれを避けることはできません。ですが、あの死にかたはない。教えてください。なぜ、父が……」

「何も心あたりはないのかい?」


 前屈みになって両手で顔を覆ったまま、若者は首を横にふった。


「昨晩、親父さんに何があった?」

「どこからお話しすればいいか。ご存じないようだから言いますが、我々は父を捜していたのです」


「捜していた?」

「ええ。父は姿を消していました」


「いつから?」

「月曜からです。朝から姿が見えないので、てっきり菜園にいるものと思っていました。ですが、日が暮れても戻らなかったんです」


「前の晩はいたんだな」

「ええ。夜明け前に起きて散歩に出かける人ですから、姿がなくても妙だと思いませんでした。昼食に現れなかったので、私が菜園に呼びに行ったんです。だが、いなかった」


「他の場所はあたってみたかい? 教会は?」

「その日はどこにも顔を出さなかったようです。前の晩に寝室で寝たのは確かです。身のまわりの世話をしてた女もそう言ってますから。なのに、朝いつものように家を出て、いなくなってしまった」


 ジャンニは指輪を出した。虚ろだった若者の目が焦点を結んだ。


「それは……」

「教会の床に落ちてたんだ」

「父のものだと思います。純金製だそうですが、人に会うたびに自慢してました。古代より、きんは富と成功をあらわすだけでなく、完全なものの象徴でもある、と」


 地金に日光が反射した。フェデリーコに渡そうとする手を止め、ジャンニは目を細くしてじっと見た。


 どうして昨晩は気づかなかったんだろう?


 表面が腐食している。

 ヤコポの口に詰められていた銅貨のように。


「申し訳ないが、この指輪をちょいと預からせてもらってもいいかい?」


 戸惑いつつも、フェデリーコはうなずいた。20歳の青年は数日で心身共に疲れ切ってしまったように見えた。


「かまいません。どうぞ」

「その菜園ってのは?」

「曾祖父が修道院から譲り受けた土地です。畑を見るのを、父は毎朝の日課にしていました」


「つらいだろうが、よく思い出してみてくれ、親父さんを殺すようなやつがいなかったかどうかを」

「私もそればかり考えていました。知っていれば、同じ目に遭わせてやりますよ」


「彼を憎んでたやつに心あたりは?」


「そりゃ、いるでしょうよ。我々の世界なんて騙し合いだ。商売をやっていれば、少なからず誰かの妬みや恨みをかう。だけど、父はもう経営から遠ざかっていたんです。昔はよく人を怒鳴りつけていましたが、近年は口論するところさえ見たことがありません」


「あんたがたの会社では薬品も取り扱うのかい?」


 若者は面食らったようだ。

「薬品? なんの薬品ですか?」


「なんでもない。親父さんのことは本当に残念に思う」


 膝の痛みをこらえて、ジャンニは立ちあがった。まったく、おれも身のまわりの世話をしてくれる女がほしいもんだ。いててて。


「ところで、その菜園はどこにあるんだい?」

「オルトラルノの修道院のそばです。市門より少し手前の・・・・・・」

「そいつをちょっと見てみたいな」


 客を見送るつもりでいたらしい若者は、腰を浮かせたまま当惑顔になった。


「菜園を、ですか?」

「ああ」

「でも、なぜです?」

「親父さんがいなくなったのはその菜園だ。もしくはそこに行く途中で何かが起こった。手がかりが残ってるかもしれない」


 工房で待っているのは、どうせうるさい催促だ。それよりもこの指輪が気になる。


 驚いた顔で、フェデリーコはうなずいた。

「しかし、あそこには何もないんですが……」


「ああ、どこにあるか教えてくれりゃいい」

「いえ、よければご案内しますよ」

「いいのかい? あんたがたをわずらわせちまうんでなけりゃいいけど」

「下でお待ちください。出かけることを叔父に知らせてきます」

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