ミコト 十二年前

 やっぱりこの年で膝枕は恥ずかしいよ。わたし、もう十八なんだよ? 春からは大学生になるって言うのに……たしかについ数か月前までよくこうしてハルちゃんに膝枕してもらってたけど……わかった。今日だけ、本当に今日だけだからね。


 ハルちゃんの太ももはやわらかいな。あったかくてやわらかくて、なつかしい。だから、別れるのが余計寂しくなる。この町を出て行くのが名残惜しくなる。


 ダメだな、わたし。今日はハルちゃんに話したいことがあったのに、その決意まで鈍っちゃう。


 ハルちゃんはいつも言ってたよね。お姉さんは右側に座るものなんだって。お箸を持つのが右手と決まっているように、本のページが右開きと決まってるように、それは絶対の約束事なんだって。


 だから、このソファの右半分はいつだってハルちゃんの指定席だった。こうやってわたしを膝枕してくれるときはいつも右端まで寄って、わたしの頭を迎えてくれたよね。


 ここに引っ越してきたとき、わたしは何歳だったんだろ。一人で立って歩けたかな。言葉は話せたかな。全然思い出せないんだ。わたしが物心ついた頃にはもうハルちゃん家の隣に住んでて、毎日遊んでもらってた。


 膝枕してもらうようになったのは、ハルちゃんが小学校に上がった頃だったかな。ハルちゃん、よくここで宿題してたよね。わたしが遊びに来ると、ランドセルをどけて座るスペースを作ってくれたっけ。あのときはハルちゃんが一気にお姉ちゃんになったような気がした。わたしも早く小学生になりたかった。


 このソファとも長い付き合いだよね。うちのリビングは椅子と炬燵しかないからずっとうらやましかった。


 膝枕してもらいながら、いろんなことをしたよね。一緒にテレビを見たり、ゲームしたり、おやつを食べたり。わたしはハルちゃんの膝の上でどんどん器用になっていった。わたしがなんでも膝の上ですませようとするから、ハルちゃんもよく呆れてたっけ。


 ハルちゃんにこうしてもらっていると、いつも守られてる気がした。わたしはいつだって「左側」で、「妹」だった。ハルちゃんに甘えっぱなしの困った子供。ハルちゃんだってまだ子供なんだってことをすっかり忘れてた。


 あれはいつからだろう。ハルちゃんが左側に座っているのを見かけるようになったのは。


 ハルちゃんはわたしが遊びに来ると、ソファの上を移動するようになった。左から右へ。いつもじゃないよ。でも、それがわたしには気になった。その頃にはもう、お姉さんは右側に座るものだって信念がわたしにも根づいてたから。


 考えてみれば、その理由はとても簡単なものだった。ハルちゃんだって、誰に対してもお姉さんなわけじゃない。まだ子供なんだもん。誰かに甘えたいことだって当然あるはずだったんだから。


 ハルちゃんの家に新しいお母さんが来たのは、ちょうどその頃だったよね。お母さんって呼ぶのもおかしいような、若い女の人だったけど。ハルちゃんもわたしもリサさんって呼んでた。


 あれはいつだったかな。リサさんの膝で眠ってるハルちゃんを見たことがある。そのときようやく、ハルちゃんが左側に座る理由がわかったの。ハルちゃんはリサさんのために右側の席を空けてたんだ。リサさんの方がハルちゃんよりもずっとお姉さんだったから。


 あのとき、リサさんはわたしを見て口の前にそっと指を立てた。ハルちゃんはその膝で子供みたいに眠ってた。そこにはわたしの知らないハルちゃんがいた。ハルちゃんが誰かの膝の上で眠ってるなんて信じられなかった。


 ハルちゃんを取られた。


 変な話だよね。わたしはそう思っちゃったんだ。ハルちゃんの若い「お母さん」が妬ましかった。わたしの知らないハルちゃんを知ってるあの人が。


 これが、本当のお母さんだったら、わたしもそんな風には考えなかったと思う。わたしはハルちゃんの「妹」だけど、血のつながりがあるわけじゃない。そこのところはわきまえてるつもりだった。ハルちゃんと同じ家で暮らすわけにはいかないし、親子の絆に割り込んでいい立場じゃないんだって。


 でも、リサさんはあくまで赤の他人だった。その意味では、わたしと条件は同じ。ううん、それどころか、この町にやって来たのも、ハルちゃんのことを知ったのも、わたしの方がずっと先輩だった。わたしがリサさんに負ける理由なんて何一つないはずだった。


 おかしいよね、勝ち負けの話なんかじゃ全然ないのに。わたしは勝手にリサさんを敵とみなして、ファイティングポーズを取ってたんた。


 でもね、勝負っていうんならその時点でわたしは負けてたんだと思う。だってわたしはリサさんを敵視するばっかりで、ハルちゃんのことがまるで目に入ってなかったんだもん。そのことに気づいたのは、リサさんがいなくなってからだった。


 リサさんてば急にいなくなっちゃったんだよね。あのときのハルちゃんの落ち込みようを見てると、胸が痛んだよ。でも同時に、心のどこかで喜ぶわたしもいた。これで、わたしがまたハルちゃんを独り占めにできるんだって。


 ハルちゃんはまたすぐに笑うようになった。でも、どこか無理をしているように思えた。それはわたしがどれだけ励ましても同じ。けっきょく、わたしは、ハルちゃんを元気づけることができなかったんだ。そのことがすごく悔しかった。


 わたしは負けた。完敗だった。リサさんってばハルちゃんの心を奪ったまま勝ち逃げしちゃったんだ。


 あれ以来、ハルちゃんはソファの上を移動することもなくなった。ハルちゃんは右側に、わたしのお姉さんに戻った。


 でも、一度だけハルちゃんが左側に座ってたことがあったよね。


 あれはちょうど二年前のいまごろだった。わたしはいつもそうするように玄関で来意を告げて、散歩から帰った猫みたいな気軽さでこの家に上がった。


 その日のハルちゃんはどこか上の空で、自分が左側に座ってることにも気づいてないようだった。


 わたしはハルちゃんの様子が気になったけど、空いてる右側に座ることにした。そしていつも通り膝枕をしてもらったんだ。こうやって仰向きの姿勢で。


 そのとき、わたしは気づいたの。どうしてお姉さんは右側に座らなければならないのか。


 仰向けになった瞬間、わたしは思わず目を細めた。だって、顔の真上に照明があったから。ソファの左側はちょうど照明の真下になるんだ。だから、左側に座った人に膝枕してもらった場合、その照明とにらめっこすることになる。これは眩しいよね。だから、お姉さんは右側じゃなきゃダメだったんだ。妹が眩しがらないように。


 だからきっと、あの日のハルちゃんは誰か自分よりもお姉さんな人に会ってたんだと思う。


 そんな人、わたしは一人しか知らない。あの日、この家にはリサさんが来てたんだ。そうでしょ? わたしにはすぐにわかったよ。でも、あの日のハルちゃんの様子を見てると、訊くに訊けなかった。ハルちゃんはその後もしばらくはそんな状態が続いて、そしてリサさんの家のことがニュースに流れたの。


 ねえ、ハルちゃん。


 あの日、リサさんとの間に何があったの?


 リサさんはいま、どこにいるの?


 あの人はまだ生きているの?

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