一難去ってまた一難

 スマートフォンでレーヌの二人の部下にSOSを発してから数分後。僕たちを乗せたバスは、チトセシティの中心部で渋滞に飲まれていた。


「ええい、もう少し早く進めんのか……」


 あまりの渋滞ぶりに、二人のバスジャック犯の顔にも、はっきりと焦りの色が浮かんでいる。


「この辺の車を吹き飛ばして無理矢理進めんのか?」

「いや、アニキ、あんまり激しい衝撃を与えると、爆弾にも影響が出るかもしれやせんぜ」

「チッ、不便なもんだな」


 痩せぎすの男からアニキと呼ばれた大男は吐き捨てるように言い、苛立ちを募らせながら再び乗客を睥睨した。車内のあちらこちらから、乗客たちの悲鳴が上がる。

 いくら渋滞に飲まれているとは言っても、市庁舎まではもう2~300メートルぐらいしかない。大男が『やっぱり無理矢理突っ切るぞ』と言えば、数十秒で着いてしまう距離。助けは間に合うだろうか……。


「大丈夫よ、モーリス。きっとすぐに誰か助けに来てくれるわ」


 僕の不安を察してか、レーヌは僕に優しく微笑みかける。


「レーヌは怖くないの? 相手は銃と爆弾を持ってるんだよ。もしあの爆弾が今爆発したら……」

「う~ん、全然怖くないと言ったら嘘になるけど、でも、私は私の部下を信じているから」

「へえ……うらやましいな、頼れる仲間がいて。僕には全然……」

「あら、モーリスにはロザリーがいるでしょう?」

「うん……」


 ロザリーのことを信じていないわけじゃない。でも、それは仲間意識ではないし、信頼とも違うように思う。


「でも、やっぱり仲間とは違うよ。僕はロザリーのことが好きだし、確かに付き合ってはいるけど、それでも、僕は彼女について知らないことが多すぎる。ここ数週間で僕は、今まで知らなかったロザリーの一面をたくさん見た。けれど、それでもまだ、彼女には僕の知らないことがたくさんあるような気がするんだ。それに、僕は見ての通り何の取り柄もない無力な人間だから、ロザリーに信頼されてないんじゃないかって」

「不安なのね。うーん……」


 レーヌはここで意味深に俯き、少し考え込んで、慎重に言葉を選びながら話し始めた。


「でもね、そもそも、いくら恋人同士といっても、お互いのことを何もかも理解するのは難しいと思う。それに、ロザリーがモーリスに何か隠しごとをしているのだとしたら、それにはきっと理由がある。モーリスが頼りにならないからとか、そういうわけじゃないんじゃないかな」

「理由……か」

「それに、モーリスは無力でも取り柄のない人間でもないよ。優しいもの、モーリスは」

「……ありがとう。でも、優しいだけじゃ何の役にも立たないからなぁ」

「そんなことない。だって私……」


 と、レーヌが何か言いかけた次の瞬間、突然バスの窓ガラスが二箇所割れ、外から二つの黒い影飛び込んできた。


「わっ!」

「きゃっ!」


 車内のあちこちから短い悲鳴が上がり、


「な、なんだ!」


 驚いた大男が咄嗟にサブマシンガンを構える。僕たちは、他の乗客たちと同様、その場で体を低く屈めた。乱射された銃弾がバスの窓をぐるりと砕き、割れたガラスの破片が僕たちの上にも降ってくる。


「ケンイチとクリストフが来てくれたわ。もう大丈夫」


 僕とレーヌは座席の横から顔を出し、前方の様子を窺う。壁を走る二つの黒い影。その軌跡を、拳銃とマシンガンの弾丸がなぞるように跳ねてゆく。


「一体なんなんだ、こいつら!」


 不測の事態に困惑する二人のバスジャック犯。壁から天井に、そして犯人たちの頭上へと達した二つの黒い影は、そのまま二人の頭に飛び降りると、素手でその顎と頭を押さえ、首を捻じ曲げた。

 グキリという音がこちらにまで聞こえたような気がする。奇妙な方向に首を傾げた二人のバスジャック犯は、糸の切れた人形のようにその場にぐったりと倒れ込んで、ぴくりとも動かなくなった。


「すごい……」


 あまりにも鮮やかなその手際を、僕たち乗客は皆呆然と見守っていた。隣ではレーヌが得意げな笑みを浮かべている。


「ほら、大丈夫だったでしょう?」

「……うん」


 レーヌに頷き返し、再びバスの前方へと視線を戻すと、黒い影の姿はもうどこにも見当たらなかった。これが銃をも恐れぬ忍びの力か……。


 バスジャック犯たちのあまりにもあっけない結末。車内を安堵のため息が満たす。立て続けに鳴り響いた銃声と割れたガラスはバスの周囲にも異変を伝えていて、割れた窓から外の様子を窺うと、こちらに背を向けて一目散に逃げてゆく歩行者たちや、盛大にクラクションを鳴らしながら走り去る車の群れが見えた。


「お客様、お怪我はございませんか」


 運転席から中年のドライバーがこちらへ身を乗り出す。体格のいい男性の運転手だったが、その足元は心なしか震えているように見えた。座席の影からにょきにょきと雨後のタケノコのように頭が飛び出し、運転手に無事を伝える。どうやら、乗客に大きな怪我はなかったようだ。

 しかし、割れたガラス片が散らばる車内にいつまでもいるわけにはいかない。運転手の指示に従って、僕たち乗客はボロボロになった市営バスを降りた。


「いやあ、死ぬかと思った……」

「あいつらをやっつけてくれたあの黒い影は、いったい何だったの?」


 道路脇の歩道で、死の恐怖から解放された乗客たちが突如現れた黒い影について様々な憶測を囁き合う中。


「……」

「……」


 僕とレーヌは、助けを呼ぶために僕たちがしたこと、つまり、手を使わずにスマートフォンを操作するためにした数々の行為を思い出して、今更ながら赤面していた。


「あっ、あの、レーヌ、色々ごめんね」

「……もう、お嫁に行けないわ……」

「えっ、そ、そんな……」

「責任……とってくれる?」


 上目遣いに僕を見つめるレーヌの瞳の真っ直ぐさに、思わず『うん』と言ってしまいそうだった。そう、もしも僕がロザリーと付き合っていなかったら、きっとこの場の勢いで――。


「ふふ……冗談だよ。そんなに困った顔しないで」


 レーヌはそう言うと、破顔して僕の肩をバシンと叩いた。


「あ……そ、そうだよね、アハハ」


 一瞬でも本気で考えてしまった自分の単細胞ぶりにうんざりしつつ、それを隠すように、僕もレーヌに笑い返した。

 それにしても、さっきのあの表情が演技か。女の子は怖いなぁ。

 レーヌに叩かれた肩は、全く痛みは感じなかったけれど、何故だろう、レーヌの柔らかい手の感触がずっと皮膚に残っている。


「そういえば、あのバスジャック犯たちが持っていた爆弾、どうなったのかしら?」


 と、レーヌがバスの方を振り返ったその刹那。

 バスの前方にパッと光が走り、一瞬遅れて、


 ドォォォォォォォォン


「うわぁぁぁっ!」

「きゃぁっ!」


 激しい地響きと共に、耳を劈くような轟音。バスからは十メートル以上離れていたにも関わらず、僕とレーヌはその爆風で吹き飛ばされた。

 灼けるような熱風と共に飛んできたガラス片がいくつか背中に突き刺さり、体中に激痛が走る。爆音で耳がやられてしまったのか、周りの音が何も聞こえない。


 顔を包み込む、クッションのように柔らかい感覚。

 気付くと、僕はレーヌを押し倒すような格好で倒れ込み、その豊満な胸に顔を埋めていた――わざとではない、決して。


『ごめん……大丈夫、レーヌ?』


 そう言ったつもりだったけれど、自分の声が全く聞こえない。僕の背中に刺さったガラス片を見たレーヌは目を潤ませながら、


『モーリス……私を、かばってくれたの?』


 唇をそう動かした。

 本当は全くの偶然なんだけど、何となく偶然とは言いづらくて、僕は曖昧に頷いておいた。

 僕の全体重を受け止めた彼女は、きっと重くて苦しい思いをしているだろう。だが、起き上がろうとしても、体はなかなかいうことを聞いてくれなかった。歯を食いしばり、手足に力をこめても、自分の体ひとつ持ち上げることができない。そんな情けない僕を見かねたのか、レーヌは、


『いいのよ、モーリス。無理しないで』


 と、僕の頭を優しく抱き締めてくれた。

 レーヌの柔らかい腕と胸、そしてその優しさが、僕のちっぽけな意地を溶かす。体中の力が一瞬で抜けて、僕はしばらくの間、そのままレーヌの腕に包まれていた。


 それから数分後。僕の耳はようやく正常な聴覚を取り戻し、熱風に曝され蒸し風呂のようになっていた周囲の温度も少しずつ下がり始めた。他の乗客たちはもう皆立ち上がっていたけれど、レーヌの胸と腕に頭を抱き留められた僕は、それを振り払うわけにもいかず……。


「あ、あの、レーヌ……? そろそろ……」


 もう大丈夫だよ、と言いかけたその時。

 とても聞き覚えのある涼しげな声が頭上から降ってきて、僕は一瞬で背筋が凍り付くほどの恐怖を覚えた。


「モーリス……? そこで何をしてるの……?」


 おそるおそる振り返ると、そこには、氷のような冷たい視線でこちらを見下ろすロザリーの姿があったのだ。

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