雪舞、ゴー!

 屋敷の敷地内から外に出ると、肌を刺すような冷たい風が吹き付けてくる。だが、脚にぴったり密着した雪舞の体温と背中に密着したロザリーの体温とで、体感での肌寒さは半減していた。ロザリーは僕の体に回していないもう片方の手でしっかり日傘を差しており、僕は馬上で相合傘というかなり珍しい体験をさせてもらった。


 雪舞は車道の脇をパカパカと歩いていく。道路交通法上、馬は軽車両扱いになるのだそうだ。

 体高170cmぐらいの雪舞の背に乗って見る街の風景はとても楽しくて、視点が高くなるだけで、何だか自分が偉くなったような錯覚に陥る。道行く人々やすれ違う車のドライバーたちが、皆ぎょっとした顔でこちらを振り返り、見上げてゆく。そりゃそうだろう、車やバイクと同じように、馬が何食わぬ顔で道を歩いているのだから。

 何かのイベントか、テレビの撮影だと思った人も多いはず。ここまで人目を集めてしまうと、色々問題があるんじゃないだろうか。


「ねえロザリー、こんなに目立っちゃって大丈夫なの? いつもこんな感じ?」

「ううん、いつもは大体夜になってから活動しているから……昼間に雪舞と出歩くのは久しぶりかも。堂々としていれば、案外目立たないものだよ」

「いや、めちゃくちゃ目立ってるってば。いいの? 任務に影響を及ぼしたりとか……」

「別に、任務だって、好きでやってるわけじゃないもの」


 ロザリーは吐き捨てるようにそう言った。ダイヤモンド侯爵の前では、『自分の力を世の中の役に立てたい』と言っていたはずなのに、彼女の今の言葉は、それと矛盾するのではないか。


「ロザリー、もしかして君は、この任務を……」

「やめましょう、この話は」


 やめようと言われても尚無理矢理同じ話題を続けられるほど、僕は強引な人間ではない。かといって、いきなり明るい話題を振ることもできず……。


「お屋敷は? 今はロザリーも雪舞もいないでしょ。あれだけ大きなお屋敷だから、泥棒に入られるかもしれないよ?」

「どうでもいいよ。あそこに、失って困るようなものはないから」


 あんな大きなお屋敷を、失って困らないなんてことはないだろう。

 彼女がこんなに投げやりで刹那的なことを言うのは初めてだ。この任務のこと、そして今の生活のこと、本当はどう思っているのだろうか。


 僕とロザリーwith雪舞のデートは、それから三時間ほど続いた。特に何をするわけでもなく、街中をゆっくり散歩して、オープンカフェで休憩したり、二人でショッピングをしたり。

 今日のロザリーは、いつになくはしゃいでいるように見えた。もしかしたら、これまでにないほど危険な任務を遂行するにあたって、緊張をほぐそうとしているのかもしれない。それに、彼女にとって今回偵察する相手は両親の命を奪ったテロリストなのだから、明るく振る舞っていても、内心では複雑な感情が蠢いているに違いない。

 僕の前では、あまり無理をしてほしくない――そう思ったけれど、それを口にしてしまったら却って逆効果になってしまう。僕は極力、いつものデートと同じように楽しむことをだけを考えるように心がけた。


 僕たちが買い物をしている間、雪舞は店の前で黙って待っていて、時折、通りかかった子供や女性に撫でられたりもしているようだった。大人しく愛撫を受け入れるその姿に屋敷への侵入者を蹴り殺すような凶暴さは微塵も見られず、あれほどじっとしていられるのは飼い犬でも決して多くないだろう。訓練された盲導犬並みの大人しさだ。

 メインストリートを一通り歩き終えると、空は既にほんのりと夕暮れ色に染まり始めていた。

 夜は近い。遊び疲れた僕たちは、雪舞の背に揺られながら、宵闇迫る街中をゆったりと歩いていた。日差しが弱まったのを確かめて、ロザリーは日傘をたたむ。


「さて、そろそろ行こうか、雪舞。いい? モーリス」


 ロザリーの声と表情がにわかに引き締まる。


「あ、ああ。いよいよなんだね」


 ロザリーは小さく頷き、僕の体に抱き付いた。


「ちょっぴり揺れるから、雪舞のたてがみにしっかり掴まっていてね」

「え、揺れるって、もしかして、走るの?」

「もちろん。雪舞、ゴー!」


 ロザリーが叫ぶと、雪舞は待ってましたとばかりに高く嘶いて、車道脇の狭いスペースを颯爽と駆け出した。夕方のメインストリートは徐々に交通量が増え始めていて、帰宅ラッシュの時間になれば、渋滞の度合いはさらに増していくだろう。


 馬に乗るのが初体験の僕は、走ったらすごく揺れるんじゃないかと心配したけれど、予想していたよりも揺れは小さく、たてがみに掴まっているだけでなんとかなるレベルだった。視界も高いし、スピード感もあって、とても気持ちいい。僕は思わず声を上げた。


「ひゃっほう! 楽しいね、これ! それに、案外揺れないものなんだね」

「雪舞だからよ。いい馬ほど、走ってもあまり背中が揺れないの」


 交差点に差し掛かり、目の前で信号が赤に変わる。周囲の車と同じように止まって待つのかと思いきや、雪舞は勢いよくジャンプして、片側だけで三車線ある広い道路を、ペガサスのように一息に飛び越えてしまった。群衆のわあっという歓声と車のクラクションが、背後から遅れて聞こえてくる。


「うわっ! なに、このジャンプ力!」

「ふふ。これはね、私のマナで少し手伝ってるの」

「そんなこともできるの?」

「雪舞の周りの重力をちょっぴりいじるだけだよ」


 僕はロザリーの能力に改めて驚嘆すると共に、ロザリーと雪舞のパートナーシップを羨ましくも思った。雪舞だって、ロザリーに全幅の信頼を寄せていなければ、あの広い交差点を飛び越えようとは思わないだろう。


 夕焼け空は瞬く間にその深さを増し、薄紫から濃紺へと色を変えていく。街灯とネオンとヘッドライトが乱反射する中を、僕たちは滑るように駆け抜けた。

 中心市街地を抜けると、交通量も人通りも途端に少なくなる。街灯の明かりも減り、周囲の建物も徐々にまばらになっていった。

 シャダイ王国首都チトセシティといえども、郊外まで出ると森や田畑の割合が多くなり、小さな民家が点在するばかりとなる。その民家も空き家が多く、明かりが漏れている窓は半分もなかった。

 静かな街に、雪舞の軽やかな蹄の音だけがどこまでも遠く響いていく。前方には黒々とした海が広がっていて、吹き付ける風にも潮の香りが混じり始めた。夜気を孕んだ冷たい空気が頬を刺し、昨日の傷口にチクチクと沁み込んでくる。


 それから数分後、いよいよ目的の廃倉庫群が僕らの眼前に姿を現した。

 数十年前に作られた埋め立て地の上に、海鼠のような黒い塊が並んでいる。まだ距離はあったけれど、海抜の低い埋め立て地は僕たちが走ってきた道路より数メートルほど低い場所にあり、目標となる廃倉庫群のほぼ全域を見下ろすことができた。

 倉庫の総数がいったいどれぐらいなのか、闇の底に溶けこんでいるため、ここからでは正確な数がわからない。だが、敷地の広さからみて、一棟や二棟ということはなさそうだ。


 こんな広い敷地が捨てられたまま放置されているなんて、とは思ったが、ここ数年のシャダイ王国では、割とよく見られるケースだ。目前に迫った化石燃料の枯渇と、それに起因した価格の高騰によって、大量の燃料を消費する大型の建設機械などは使用が制限されていて、郊外で優先度の低い大規模な工事は後回しになっていることが多い。

 チトセシティの郊外には元々工業地帯が広がっていたのだが、燃料費の高騰によって大部分の工場が閉鎖に追い込まれた。この周辺に空き家が多いのも、そのせいである。


 道路の半ばで、雪舞はぴたりと足を止めた。倉庫群までは、まだ直線距離にして4〜500mはありそうだ。


「雪舞に乗せてもらえるのはここまでかな。これ以上は、蹄の音で気付かれちゃう。ありがとうね、雪舞」


 ロザリーはスカートをひらりと翻しながら下馬し、アスファルトの地面に舞い降りる。僕も彼女を真似て飛び降りようとしたものの、慣れないことはするものじゃない。僕は着地に失敗して、みっともなく尻餅をついてしまった。


「モーリス、大丈夫?」

「う、うん……ありがとう」

「ほら、モーリスもこうして、雪舞の頸を撫でてあげて」


 ロザリーは雪舞の頸を優しく撫でていた。

 言われた通りに雪舞の頸に触れてみる、すると、雪舞の雪のように白い肌がしっとりと汗ばんでいるのがわかった。屋敷を出てからずっと立ちっぱなしで、日が沈み始めてからは走りっぱなしだったのだから、きっと疲れているだろう。僕は感謝の気持ちを込めて雪舞の頸を愛撫した。雪舞はブルルと鼻を鳴らして答える。


「じゃあ雪舞、少しここで待っていてね。仕事が終わったら、すぐに戻ってくるから」

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