彼女に死ねと言われたら

浦登 みっひ

綺麗な薔薇には棘がある

「ねえ、貴方、死ぬのが怖い?」


 はらはらと小雪が舞う校舎の屋上で、ロザリーは灰色の空を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「……え?」


 僕は、これ以上ないぐらい単純な語彙、つまりたったの一文字で聞き返した。突然の意表を突かれた質問、それが非常に物騒な内容だったものだから、僕の頭は完全に機能を停止していた。何かと聞き間違えたのかとも思った。五階建ての校舎の屋上に呼び出されて最初の一言がそれだったら、誰だって不審に思うはずだ。

 眼下にはうっすらと雪化粧を施した街並が広がっていて、その背景に溶け込んだ彼女の横顔は、ぞっとするほど美しかった。白い髪、白い肌、複雑なデザインの白いドレス。先天性白皮症――通称アルビノ――である彼女には、こんな雪景色がよく似合う。


 ロザリーは、この特殊な体質のため、制服の着用も免除されている。彼女の皮膚には紫外線から体を守るための色素メラニンが欠けていて、陽の出ている間はあまり素肌を晒せない。特に、日差しの強くなる夏場に夏服を着ることは不可能だ。ロザリーが学園の理事長の姪だから特別に融通が利くのかもしれないが、とにかく、彼女は学校に来るときも常に複雑なデザインのドレスを身に着けている。


 空から視線を落とし、ロザリーはゆっくりと僕に向き直る。彼女の白い大きな瞳が、まっすぐに僕の目を捉えた。


「モーリスは、死ぬのが怖い?」


「……いきなり何を言い出すんだい、ロザリー」

「いいから答えて」


 柔らかい微笑みをたたえながら、ロザリーは言った。しかし、その表情とは裏腹に、彼女の目は少しも笑っていない。

 僕達の間に流れた短い沈黙を、北風がさらに冷やしてゆく。これは何かのとんち問題か、はたまたドッキリの一種か……。

冗談にしても、うまい切り返しが思い付かない。ロザリーの質問に深い意味がないことを願いながら、僕は素直に答えた。


「……そうだね、やっぱり怖いよ、死ぬのって。だってさ、死んだらそこで終わりじゃない? 僕だって一応、人並みだけど、十六年間頑張って生きてきたんだし」


「そう。でもね、生きとし生けるものは皆、いつかは死んでしまう。これだけマナに関する技術が発達し、生活に溶け込んでもなお、我々人間は病に打ち勝つことができない。私達の体に宿る生体エネルギー、マナ。それを電気やガスと同様に日々の生活にエネルギーとして使えるようになり、インフラが整備されて、もう数年が経った。それなのに、マナの力の源泉である『生命』についてはまだ何もわかっておらず、死者の蘇生はおろか、医療分野での活用についても未だ理論すら組み立てられないでいる。私達が用いるマナのエネルギーが自然界の力を借りたものである以上、自然の摂理である『死』を回避できないのは当然のことかもしれない」


 彼女の瞳の色が、白から黒、赤、そして緑へと目まぐるしく変化してゆく。

 幼い頃から巨大なマナの力を操り、かつて天才魔法少女と呼ばれていたロザリー。彼女は常に自然界を流れるマナの影響を受けており、扱うマナの元素によって瞳の色が変わるという特異体質を持っている。アルビノである彼女自身の色素の薄さと相俟って、彼女の瞳の色は絶え間なく変化しているのだ。これを不気味に感じる者もいるらしいけれど、僕はとても美しいと思う。

 僕は、複雑怪奇に変化してゆくその瞳の色を見守っていた。今日はいつもより変化が激しい。


 もしかして、僕は今魔法をかけられているのだろうか。

 彼女の白銀色の長い髪がひらひらと風に靡く。


 ロザリーの瞳が、再び白く染まった。


「だからね、もし死ぬのが怖いのなら、貴方は生まれてくるべきではなかった」


 生まれてくるべきではなかった?

 僕が?


 彼女は一体何を言っているんだ……?


「ち、ちょっと待ってよロザリー……なんだい、それ……僕、何か君を怒らせるようなことしたかな?」

「いいえ、何も……」

「だったら……生まれてくるべきじゃなかったなんて、そんな言い方はあんまりじゃないか?」

「私の言ったこと、どこか間違っている?」


 僕は必死で考えた。死ぬのが怖いって言ったのがいけなかったんだろうか。そうだ、きっとそうだ。男のくせに意気地なしと思われたに違いない。でも、死ぬのは怖いじゃんか、普通。


「どうしたんだいロザリー、いつもの君に戻ってくれよ……いつもの、聡明で優しい君に」

「私は至って正気よ、貴方が私をどう思っているかは知らないけれど。私は貴方の無邪気さが羨ましい。私がただ微笑んで見せるだけで、私をまるで天使みたいに優しい女だと思い込んでくれる、貴方のそんな単純さが」

「……なんだよ、それ……今までのは全部嘘だったって言うのかい?」

「いいえ。嘘はついていない。ただ貴方の幻想を壊したくなかっただけ。私は貴方のことが好き。純粋で、愚かで、それを恥じることすら知らない、無垢で無意味な優しさが好き」


 僕には彼女の言っていることがさっぱり理解できなかった。なるほど、彼女の言う通り、僕は愚かなのかもしれない。

 でも、それってそんなに責められることだろうか?

 僕はよく『優しいね』って言われるし、そうあろうと努力もしてきた。あまりにも平凡な人間である僕にとって、取り柄と呼べるものはそれぐらいしかないからだ。たしかに僕は単純で愚かかもしれないけれど、少なくとも、優しさは無意味ではないと思う。

 僕は彼女が正気じゃないと信じたかった。彼女は思春期の女の子だもの、精神が不安定になる時期ぐらいはあるはず。女の子って気分屋だし、今はただその波がやってきているだけ。今までの彼女がとてもおとなしかったから、ちょっとショックを受けてしまっただけだ。

 自らにそう言い聞かせる一方で、僕は、意識の奥底で確かに気付いていた。

 ダイヤモンドダストのように美しい彼女の瞳を見つめながら。


 僕はロザリーのことをまだ何も知らなかったんだと。


「でもね、時々怖くなる。貴方の優しさはどこからどこまで真心なのか、貴方が囁く愛の言葉はどこまで真実なのかしらって。もしも貴方の水晶のように透き通った優しさに、ほんの一片でも打算という不純物が混じっていたとしたら、それはたちまち陳腐なものになってしまう。濁った宝石に価値はないわ。だから、こうして確かめたくなってしまうの」

「確かめる……?」

「そう。私の言ったこと、どこか間違っている?」

「いや……間違ってないよ、ロザリーの言うことはいつも正しい」

「ありがとう。もう一度聞くわ。貴方は、死ぬのが怖い?」


 正直に言おう。僕はロザリーが怖くなった。でも、いくら僕が単純バカだからって、それを口にするほど愚かではないつもりだ。今はとにかく、じっくりと彼女の話を聞くべき。彼女の言葉を否定してはならない。足の震えを自覚しながら、僕はこう答えた。


「いいや……怖くないよ」

「じゃあ、今ここで、私のために死ねる?」


 ああ。最も恐ろしい問いが、彼女の口から放たれた。

 最初の一言から、うっすらと予感していた結末。無益とは思いつつも、僕は必死の抵抗を試みる。


「待ってくれ、ロザリー。たしかに、たしかに僕は君のためなら死ねるよ。誓ってもいい。でもね、今ここで死んで見せたって、なんの意味もないだろう? 今ここで死ぬことが、君のためになるとは思えないよ」


 ロザリーの微笑は全く崩れない。


「意味……意味って何かしら。生きる意味って、生まれてきた意味って何だと思う? 子孫を残すため、世の中に貢献するため、幸せになるため……色々都合のいい解釈はあるけれど、全ての人が子孫を残せるわけじゃないし、世の中に貢献できるわけでもない。それに、幸せになれる人はほんの一握り。全てが後付けの理屈。全ては単なる幻想だよ。この世に生を受けたもの全てに共通する結末、それは死。みんな死ぬために生まれてきたの」

「死ぬために……生まれてきた?」

「そう。死ぬ理由、それは生きる理由と等しい。もし貴方が私のために死んでくれたなら、私は貴方の愛を心から信じることができる。そしてこの先、私の人生とマナの全てを、貴方を蘇生させるための研究に費やすと誓うわ。貴方は私のために死ぬ、私は貴方のために生きる。とても素敵なことだと思わない?」


 僕は彼女のために死ぬ。ロザリーは僕のために生きる。

 その言葉は、確かに素敵な言霊を持っていた。

 彼女のためなら死ねるという言葉。あれは決して嘘じゃない。

 例えば、今突然とても強い地震が起こって、この校舎が瓦礫の山になってしまったとしよう。その時僕は身を挺して、降りかかる瓦礫から彼女を守るだろう。そんなことは全く怖れていない。彼女のことを愛しているから。

 でも、もし、その地震が起こる前に僕が不慮の事故で死んじゃったりなんかしたら、どうだろう?


 僕は事故で死ぬために生まれてきたことになってしまう?


 そんなのは嫌だ。

 彼女のために死ねるなら、そして彼女が僕のために生きてくれるのなら、それは僕にとっても本望なことではないか?


 自分の思考がどんどん破滅的な方向に向いていくのが自覚できる。けれど、それをどうやって止めたらいいのか、僕には見当もつかなかった。

 僕はいったいどうしてしまったんだろう。やっぱりこれも彼女の魔法なのか。僕は答えた。


「とっても素敵なことだと思うよ」


 ロザリーは、これまで僕が見てきた中で最高に素敵な笑顔を見せた。百合のように可憐で、蘭のように優雅で、薔薇のように美しい。僕はこの笑顔を見るために生まれてきたのかもしれない。

 こんなに素敵な魔法に魅了されたまま死ねるのなら。

 こんなに幸せな気持ちに包まれたまま死ねるのなら。


「もう一度聞くわ。貴方は、死ぬのが怖い?」

「怖くないよ。君のためならば」


 僕は屋上の手摺に手をかけた。寒風にさらされ、うっすらと雪が積もった鉄製の手摺は、氷のように冷たい。まるで頭を冷やせと僕を諭すかのように。


 そのまま、身を乗り出して下を覗き込む。雪に覆われた地面は、ふわふわのムースみたいだった。


 僕はもう一度ロザリーの方を振り向いた。

 神々しさすら感じるその微笑。

 これまで接してきた中で、今日の彼女が一番綺麗だ。


 手摺に足をかける。

 体がバランスを失う。

 ここから体勢を立て直せるほど、僕の運動神経は優れていない。地面への短いスカイダイビングが始まる。


 灰色の空が視界いっぱいに広がり、屋上の手摺がみるみるうちに遠ざかってゆく。


 自由落下の最中、僕の頭の中を、ロザリーとの楽しかった思い出が走馬灯のように駆け巡っていた。


 初めて彼女の姿を見たとき、僕はなんて綺麗な子だろうと思った。まるで雷に打たれたように、一目で恋に落ちたのだ。それが、高名な貴族アルバローズ家の令嬢にして、かつて一世を風靡した天才魔法少女ロザリーの成長した姿であると知ったのは、少し後のことだった。

 一方、僕は学業の成績も中ぐらい、運動神経は悪いし、イケメンでもない。こんな僕と彼女が釣り合うわけがない――そう思いつつも、どうしても諦めきれず、玉砕覚悟で初めて書いたラブレター。

 翌日、僕の下駄箱の中には、彼女の名前が書かれた封筒が入っていた。彼女の返事はこうだった。


『心のこもった初めてのラブレター、ありがとうございます』


 文通から始まった僕たちの恋は、三回目のデートで成就した。

 彼女と付き合い始めてからの三か月間、僕は本当に幸せだった。ごく平凡だった僕の人生の中で、彼女といた時間だけがプリズムのように輝いている。

 そうか。僕は、もうずっと前からロザリーのために生きていたんだ。

 彼女のために死ねるなら怖くはない。

 地面はすぐそこまで近付いている。

 僕は死を受け入れた。


 しかしその瞬間、屋上から何か黒い影が降ってくるのが見えた。

 黒い影は僕の落下速度を遥かに上回る早さでシュルシュルと伸びてきて、あっという間に僕の左腕を絡め取ってしまった。落下は地面まであと一秒というところで止まり、僕の体は宙吊りになる。

 その直後、絡め取られた腕に激痛が走った。全体重の負荷が左腕一本に掛かっていることによる痛みもあったが、それとはまったく種類の異なる、刺すような痛みが左腕全体を覆っている。

 左腕を見ると、そこに絡み付いていたのは、びっしりと棘の生えた薔薇の蔦だった。ギリギリと腕を締め付けるその力は凄まじく、冬服のブレザーとシャツを破って肌に深々と突き刺さっている。あまりの激痛に身を捩ると、棘が食い込んで余計に痛みが増していく。薔薇の蔦はさらにニュルニュルと伸びて、僕の全身に絡み付いていった。


「いっ、いいいい、痛い! 痛い!」


 全身に絡み付いた薔薇の蔦によって僕の体はグイグイと引き上げられ、地面から遠ざかっていく。いったい僕の身に何が起こっているのだろう……?


 蔦は、さっき僕が飛び降りたばかりの屋上の手摺を超えたところで動きを止めた。僕の体は薔薇の蔦に絡めとられたまま、磔刑にされたような格好で中空に吊るされている。

 屋上に立つロザリーの姿が視界に入る。

 彼女は泣いていた。

 しかし、最も驚かされたのはそこではない。

 白銀に輝く彼女の長い髪は肩のあたりから緑に変色し、そこから伸びた長い蔦が僕の体に絡み付いているのだった。


 それは紛れもなく、ロザリーのマナが引き起こした奇跡。

 科学の常識を超越した、彼女だけが扱える不思議な魔法。


 僕はそのまま屋上に降ろされた。蔦は一瞬のうちに細く萎んで、美しい銀色の毛髪へと戻ってゆく。

 無数の棘に刺された僕の体は顔以外のほぼ全身が傷だらけで、あちこちから血が滴っていた。


「ああっ……痛い……ロザリー……」


 薄く雪が積もった床に這い、全身の激痛に悶える。白いブーツをはいたロザリーの細い足首がこちらに歩いてくるのが見えた。彼女は僕の目の前でしゃがみ、優しい声色で言う。


「ごめんね。痛かった?」


 ロザリーの潤んだ瞳に見つめられ、数秒間だけ、まるで麻酔をかけられたように全身の痛みが引いていった。きっと、涙を浮かべた彼女の表情を見て、僕は安心したのだろう。痛みはすぐにぶり返してきたけれど、柄にもなく、精一杯に強がってみせた。


「ううん、全然」


 ロザリーはそのまま冷たい床に座り込み、僕の体を抱き起こした。絹のロンググローブに包まれた彼女のか細い両腕が、蔦よりもずっと強い力で僕の体に絡み付く。ロザリーの腕の中はとても温かくて、微かに薔薇の甘い香りがした。素敵な純白のドレスが、僕の血で赤黒く染まっていく。


「ごめんね。ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんね。こんなに血を流して。痛かったでしょう? 私はなんて酷いこと……ごめんね。ごめんなさい……」

「い、いいんだよロザリー……」

「私のこと、嫌いになったでしょ? こんな酷い女って思ったでしょ?」


 彼女の瞳から溢れ出た温かい滴が僕の頬を濡らし、それだけで、全てを許せるような気がした。彼女の涙には、痛覚や判断力を鈍らせる、何か魔法の麻薬みたいなものが混じっているに違いない。


「そんなことないよ……僕の方こそ、ドレスを汚しちゃって、ごめん……」


 ロザリーはそっと目を閉じた。

 彼女の顔がすぐそこに。

 唇に触れる柔らかい感触。


 これが、僕、モーリス・ディサイファと、彼女、ロザリー・アルバローズが交わした、最初の口づけだった。

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