憧れと守りたい人

三角海域

第1話

 なんのために拳法なんてやってるのと訊かれることが多い。そんな時私は心身を鍛えるためなんて返したりするのだけど、実際は小さい頃に見たジャッキー・チェンに憧れてというかなりミーハーな理由だったりする。

 女の子なのに珍しいねみたいなことを言われるのが嫌だった。女の子がジャッキーが好きだと珍しいの? そんなのっておかしい。

 今日も私はそんなモヤモヤを稽古にぶつける。痣ができるし辛いことばかりだけど、そんな憤りを原動力にして、私はずっと拳法を続けてきた。

 マイナスの感情も、稽古で汗を流せば消えていく。私にとって拳法は同級生の子たちにとってのおしゃれだとかデートみたいなものだ。

 その日、私はもしかしたら今までで一番ともいえる鋭い一撃を放つことができた。今日はいい日だ。そんないい気分で道場を後にした時には、すでに外は夜の暗闇に満ちていた。

「お疲れさん」

 先輩が首をまわしながら言う。

「お疲れ様です」

「いい一発だったな」

「ありがとうございます」

「頑張れよ」

 駐輪場へ向かう先輩を見送り、私は駅へ向かった。とても気分がよかったので、駅前のレンタルショップでお気に入りのジャッキー映画をレンタルする。

 口笛でも吹きたい気分で駅へと向かう。スイカをタッチしようとしたタイミングで、女の人の悲鳴が聞こえた。関わりあうと面倒なことになるのは分かっているのに、私は声のした方へ向かう。カンフー映画の主人公気分だったのかもしれない。

 いつもは利用しない西口の方。そこに女の人と、その人を取り囲む三人の男たちがいた。

 古典的だなぁなんてことを考える。ほんとにこんなシチュエーションあるんだな。

「ちょっと」

 よせばいいのに、私は男たちに声をかける。

 男たちが冗談かと思うくらい顔を歪ませて私をにらんだ。

「なんだよ」

「なにしてるの?」

「関係ないだろ」

「関係はないけど、気になるんだよね」

 男二人が私に近づく。

「俺たちさ、男女平等主義なんだよね」

「そんな台詞言う人ほんとにいるんだね。映画とかドラマの中だけかと思ってた。ちょっと感動」

 男たちが露骨にイラついた声を出して、私との距離を詰める。

「関係ない子巻き込むのはやめて」

 女の人がか細い声をあげる。おびえながら必死に絞り出しましたって感じの声だった。でもそれは逆効果だったらしく、私を囲んでいた男たちは下卑た笑みを浮かべながらさらに私に近づく。

「引っ込んでろよガキ」

 手を振り上げる。平手。動作が大きすぎる。乾いた音が響く。女の人は目を伏せてしまった。

「次手を出したらこっちも反撃するよ? いいの?」

 男の平手は空を切った。手首が痛むのか、何度もさすっている。

 何が起こったのか分からないといった感じだった。簡単な話だ。私が平手を叩き落としただけ。

「調子に……」

 軽く拳を突き出す。身長差はあるけれど、逆に顎を打ちやすい。顎の寸前で拳をぴたりと止める。

「反撃するよ?」

 今度は少しだけ強く言ってみる。男たちは二三歩後ろへ引いて、女性の近くにいた男の方を見る。

「帰るぞ」

 二人の困惑の視線を向けられた男は冷静にそう言った。

「また来るよ」

 女性にそう言って歩き去る。なんだか気持ちの悪い男だった。いわゆる今時のチャラい男って感じだけど、妙に落ち着いている。嫌な落ち着き方だ。

 男たちが見えなくなると、私も背を向けて歩き出す。

「あ、あの!」

 振り返る。からまれていた女の人が泣きながら頭を下げた。

「ありがとう」

「いいえ」

 それだけ言ってその場を後にしようとしたのだけど、女の人は一定の距離を保ちながらついてくる。

「なんですか?」

「え? いや、その、私も電車乗るから……」

「そうですか。私が気にしすぎたみたいですね」

「ごめんなさい」

「謝ることじゃないです」

「そうね。ごめんなさい」

 私たちは一定の距離を保ちながらホームへ下り、電車を待った。

「なんで絡まれてたんですか?」

「え?」

 私は少し距離をあけて立っている女の人に訊いてみた。

「お姉さん、あんなやつらと関わるタイプに見えないから」

 女の人は地味だけど、よく見るととても綺麗な人だった。全体的に野暮ったいのに、やたらと華がある。

「会ったばかりの人間にそんなこと訊かれるの嫌かもしれませんけど」

 いきなりそんなことを訊いてしまった。なんで自分から厄介なことに踏み込んだのかは分からない。気分がいいのと、この映画みたいなシチュエーションに少し毒されたのかもしれない。

「合コンがあったの」

 女の人がぽつりと言った。ギリギリかき消えないほどの声。私は女の人のすぐ隣に立った。女の人がこちらをちらりと見て微笑む。なんだか恥ずかしくて、私はごまかすようにポケットに手を突っ込んだ。

「本当は行きたくなかったんだけど、会社の先輩がどうしてもって言うから。なんて、それじゃ先輩が悪いみたいだね。断り切れなかった私が悪いのに」

 女の人の目が潤む。

「それで、合コンに行ったんだけど、できるだけおとなしくしてようと思って。でも、しつこく話しかけてくる人がいて」

「それがあの連中?」

「そう。私の近くにいた人」

 あの妙に落ち着き払った奴か。厄介なのに気に入られたものだ。

「ダメだな、私。なんか、ずっとこんな感じ」

 女の人は自嘲気味に笑う。

「別にあなたがどんな人生送ってきたかなんてわかりませんけど、少なくともあの連中のやってることは許されるもんじゃないと思います。あと、あんまり自分を卑下するの良くないですよ。せっかく……」

 そんなに綺麗なのに。と言いかけた自分に驚く。女の人はいきなり言葉を切った私を不思議そうに見ていた。

「とにかく。あんまりしつこいようでしたら警察に相談した方がいいですよ。お姉さんいつも帰りはこの時間なんですか?」

「ええ」

「じゃあ、しばらく私が一緒に帰りますよ」

「そんな、悪いよ」

「いいんです。どうせ毎日学校帰りにそのまま道場通いなんで。迎えに行きますから、会社で待っててください。連絡先教えてもらえますか?」

「でも……」

「大丈夫です。私、それなりには強いんですよ? それに、恥ずかしいですけど、私こういうシチュエーションに少し憧れたりしてるんです。お姉さんが心配だったのもあるけど、自分の欲もあるんです。だから、気にしないでください」

 電車が到着するというアナウンスが聞こえる。女の人は少し困っているようだったけど、私の提案を受け入れてくれた。

 二人で電車に乗り、連絡先を交換する。家まで送るという私に、そこまでしてもらうのは悪いと言っていたが、降りる駅は一緒だった。もしかすると、知らぬうちにすれ違っていたかもしれないなんてことを二人で話して笑い合った。

 二人でバスに乗り、私が降りる停留所よりもひとつ前の停留所で女の人は降りた。家はバス停のすぐ目の前だから大丈夫だと言うので、私はそのままバスに乗って帰ることにした。

 ICカードをタッチしてバスを降りる時、女の人は軽く手を振った。バスが発車したあと、私は携帯の電話帳を開く。

 柳瀬芳乃。

 なんだか名前まで綺麗な人だ。私は携帯の画面を見ながら笑ってしまった。



 出会いから三日目の夜。稽古を終えた私は急ぎ足で柳瀬さんの会社まで行き、合流した。

「いつもごめんね」

「いえ。道場から近いので問題ないです」

 二人で並んで歩きながら、あれこれと話をした。

「遥ちゃんはどうして拳法を始めたの?」

 柳瀬さんは私を下の名前で呼ぶ。恥ずかしいから苗字で呼んでくれないかと頼んだのだけど、かわいい名前なんだからいいじゃないと返され、結局下の名前で呼ばれ続けている。変な所で年上感を出してくる人だなと思った。普段はおどおどしてるくせに。

「今さらですか?」

「なんかいきなり訊くのってどうなんだろうって思ったから、このタイミングになっちゃった」

「別にそんなこと気にすることないのに。まあいいです。初めて会った時にも言いましたけど、私、映画が好きなんです。特にカンフー映画。小さい頃にみたジャッキー・チェンに憧れて、拳法を始めたんです」

「へえ。かっこいいね」

「かっこいいですか?」

「うん。遥ちゃん可愛いからギャップ萌え? って感じ」

「なんですかそれ」

 柳瀬さんは見た目通りの人で、良く言えば優しくて柔らかい印象。悪く言えば危なっかしくて迂闊な人という感じだった。一歩引いてしまう所に目をつけて、あわよくば、なんてよこしまなことを考える奴がいてもおかしくないだろうと思う。

「今度遥ちゃんのお気に入りの映画教えてよ。観てみたい」

「格闘シーン多めのやつばっかですよ」

「今までカンフー映画ってほとんど観たことなかったから気になるんだ。それに、遥ちゃんの好きなものをもっと知りたいな、なんて」

 自分で言っておいて照れるのはやめてほしい。こっちまで恥ずかしくなってしまう。

「わかりました。今度一緒にレンタルショップに行きましょう」

「ほんと? やった」

 そんな時間を積み上げながら、気が付けば柳瀬さんと出会ってから一か月ほどたった。今では当初の目的なんてものはおまけみたいなもので、単純に私は柳瀬さんと一緒に帰るのが楽しみになっていた。

「倉田、お前ここ最近やたらと調子いいな」

 先輩にそんなことを言われたりもした。浮ついた気分でいるのは良くないけれど、モチベーションがあがっているのも間違いない。身体を動かすたび、拳を突き出すたび、蹴りを放つ度、熱いものが身体を駆け抜けていく。

 自分でもこの気持ちを自覚している。けれど、それを言葉にすることに少し恐れを抱いてもいた。



 今日はレンタルショップで直接待ち合わせをした。私に合わせてくれているだけかもしれないけれど、柳瀬さんは私がすすめた映画をどれも面白いと言ってくれた。会社に迎えに行って、帰るという流れを変えたことはなかったが、今日は先に見て回りたいという柳瀬さんの希望をきいたのだ。

 稽古を終え、足早に待ち合わせ場所に向かう。だが、柳瀬さんはまだ来ていなかった。十分ほど待っても現れない。残業でもしているのだろうか。

 嫌な予感がした。携帯を取り出し、コールしてみるが、出ない。

 店を出て、駆けだす。駅を抜け、会社方面へ。

 そこに柳瀬さんはいた。あの時の男たちと一緒に。迂闊だった。浮ついた気分でいるからこうなる。なんて馬鹿なんだ私は。

「お? カンフーの嬢ちゃん」

 男の一人が下卑た顔で言う。

「もうその人と関わらないで」

「そんなの俺たちの勝手だろ」

「力任せじゃないと女ひとり口説けないんだ。最高にかっこ悪いね」

 男たちの表情が変わる。

「前にも言ったけど、今度は反撃するよ」

 喧嘩に拳法を使うのはよろしくない。でも、ここで引けない。私が柳瀬さんを守らないと。

「遥ちゃん」

 心配そうに柳瀬さんが言う。

「大丈夫です。どのみちしばらくすれば警察がきます」

 二人の男たちは警察という言葉に少しびくついた。だが、あの冷静な男だけは違った。ニヤニヤと笑いながら、前に出る。

「二度目はないってよく言うよな。今回はこっちも引くつもりはないんだよ」

 男が上着を脱ぎ、構える。

「ボクシング?」

「そう。正確にはキックボクシングだけどな。お前を軽くやっちまえばさ、芳乃ちゃんも素直になるんじゃないかな」

「警察がくるよ」

「十秒で終わらせればいい話だろ」

「最低。典型的な悪役。それもとびっきりのクズ」

 男の目の色が変わる。来る。

 空気を切る音。思ったよりも早い。口だけじゃないらしい。ワンツー。かわしきれない。少し後退し、直撃を避けることはできたけど、鼻血が出た。続けて蹴り。これも早い。容赦のないミドルキック。防いだものの、やはり重い。息が詰まる。鼻はジンジンと痛み、溢れた血が制服に垂れる。洗濯が面倒だ。蹴りを防いだ腕も痛い。力を逃がしたからよかったけれど、まともに受ければ折れていたかもしれない。

「そんなもんか。女がカンフーなんかやってても所詮はその程度ってな」

「十秒」

「あ?」

「十秒たったけど、まだ私は立ってる」

「あっそ。じゃあ次で終わりにしてやるよ」

 男が前に出る。突き出される拳。やはり早い。

 だけど、あの人に比べれば……。

「遅い」

 突き出された拳を払う。力は強いけど、それだけのパンチだ。少し軌道をずらしてやれば簡単にかわせる。

 がら空きになった身体に、鋭く拳を突き刺していく。力じゃ負けるかもしれない。でも、打撃というのは力だけがすべてじゃない。

 男の苦悶が大きな息となって吐き出される。私は一歩引き、渾身の力を込めて蹴りを放つ。蹴りは男の顎を打ち、男は倒れた。

「そんな動き、ベニー・ユキーデに比べればスローすぎる」

 騒ぎをききつけ、警察がやってきた。残された男二人は逃げ出していく。

「遥ちゃん!」

 柳瀬さんが私に駆け寄る。

「大丈夫?」

 ハンカチで私の鼻血を拭う。ボロボロと涙も流していた。

「すいません。迂闊でした。私がちゃんと迎えにいってればよかったのに」

「私が言いだしたことなんだから私のせいだよ」

「いいえ。浮ついた気分でいた私が悪いんです」

 私はハンカチを持つ柳瀬さんの手を握る。

「もうこんなへまはしません。何があっても私が柳瀬さんを守ります」

「遥ちゃん」

 そうだ。浮ついた気分でいるのがいけない。思いを抱えたままなのがいけない。

「柳瀬さん」

 だから、きちんと言葉にしよう。

「好きです」



 出会ってから半年がたった。だけど、私たちはあまり変わらない。ただ、関係は変わった。矛盾してるようだけど、そういう感じなのだ。

 今日は二人で映画を観に来た。ドニー・イェンが出演しているアクション映画だ。女二人で観る映画ではないのではと言ったのだけど、それがいいと聞かないので、結局その映画を観ることにした。

「お待たせ遥」

 合流するなり、手を繋いでくる。

「恥ずかしいです」

「どうして? 恋人なら普通だよ?」

「はっきりいいますね」

「先に好きだって言ってくれたのは遥じゃない」

「いや、そうなんですけど、なんというか、年の差もあるじゃないですか」

「嫌?」

「嫌じゃないですけど、いいんですかね。こう、格闘をやっている者としてはなんだかあまりにも甘々な感じというか」

「いいじゃない甘々な拳法使いがいたって」

 私の手を引きながら、芳乃は笑う。

「芳乃にはかないません」

 売店でポップコーンとコーラを買い、劇場に入る。

「そういえば、ベニー・ユキーデって誰? あの時言ってたでしょ? ベニー・ユキーデに比べればって」

「元キックボクサーですよ。スパルタンXっていう映画でジャッキーと対決したんです。私が拳法を習いたいと思うようになったきっかけの映画です」

「へえ。じゃあ、その映画があったから私たちは出会えたってこと?」

「なんでそうなるんですか」

 本当に、甘すぎる。なんとも軟弱な関係だ。

 でも、私は嫌になるくらい芳乃に惹かれている。少し手を強く握ってみる。芳乃が嬉しそうに私の手を握り返す。

 私たちは微笑みあい、並んで腰かける。

 もっと強くなろう。憧れに近づくために。そして、私の手を握ってくれる大切な人を守るために。

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