第118話 遠い日の青い花
「うっ……」
微かな胸の苦しさを感じながら、リューシスは目を覚ました。
ぼんやりとした視界に、薄茶色の天井が映った。と、思うと、香しさと共に金色の髪がふわりと頬に触れてエレーナの顔がのぞいた。
「ああ、良かった」
エレーナの白い顔に安堵の色が浮かんだ。
「どこだここ」
リューシスは上半身を起こした。その瞬間、胃の不快感で顔を歪めた。頭がふらつく感じもある。
「あ、気をつけて。まだ毒は体内に残ってるんだから」
「まだ……? で、ここはどこだ?」
リューシスは頭を押さえながら見回した。隅に棚と小机があるだけの小さな木造の部屋であった。
「ここはね……」
エレーナが答えようとした時、
「あら、良かった。目が覚めましたか」
と、扉の無い入口から、若い女性が白髪の初老の男性と共に入って来た。
女性はメイファであった。上半身を起こしたリューシスを見るとにこやかに笑みを見せた。
「先生……? ここはメイファ先生の家か」
「そうです」
メイファが答えると、隣の白髪の男性が静かにリューシスの側まで歩いて来た。
「ふむ。とりあえずは問題なさそうですな」
白髪の男性は観察するようにリューシスの顔を見つめた。
「この方はヤンサン村のお医者さま。急遽来てもらって殿下を診てもらいました。他にバーレンどのや兵士の方々も治療してもらいました」
メイファが言うと、リューシスは丸めていた背を伸ばした。
「そうだ! バーレンは? 兵士たちはどうだ?」
「バーレンどのは怪我が酷かったけど、先生の治療のおかげで無事よ。今は別の部屋で寝ているわ。生き残った兵士たちも無事で、幕舎の中よ」
エレーナが答えると、リューシスはほっと息をついて、
「そうでしたか。先生、お手間かけました」
「とんでもございません。むしろ、私のような田舎医者では力不足で申し訳なく思っております。肝心の殿下の毒の正体がいまいちわからず、症状悪化を食い止める応急処置しかできなかったのです。首をはねられても仕方ないと思っております」
白髪の医者は、きまり悪そうに肩をすくめた。
「そうか……いや、命をつないでくれただけでもありがたい。感謝いたします。診療代は後日ルード・シェン山より届けさせますので」
「いえいえ、そのような物は結構でございます。それよりも、無理はせずに早くお戻りになって、もっと良い医者に毒を見てもらってくださいませ」
「そうは行かない。必ず届けさせる」
「はは……ま、とりあえず私はこれで失礼いたします」
医者は恐縮しながら下がると、今度はメイファに向かって、
「メイファさん、あなたも無理はしないようにね。特に夜はなるべく休むように。見る限り症状は悪くなっているようだから」
と、厳しい顔つきで忠告して、部屋を出て行った。
その言葉を聞いて、リューシスは眉を曇らせてメイファの顔を見つめた。
彼の記憶に残っている以前の姿よりも、今のメイファの顔は白く、唇は赤みを失い、頬はこけて痩せていた。
そのメイファは、リューシスの顔をどこか切なそうな目で見返した。
傍らのエレーナは、そんな二人の視線に特別なものを感じていた。
「先生、まだ心臓の病が?」
リューシスが床から身を乗り出した。
メイファは困ったような笑みで、
「まあ、ね……。アンラードの医者が皆、匙を投げた病ですから」
「えっ……」
それを聞いて、驚いたエレーナが手を口に当てた。
「メイファ先生は、俺を教えてくれている時に心臓を悪くしてな」
リューシスが言うと、メイファはエレーナに微笑みかけながら、
「エレーナ様、あなた様も天法術の使い手。ならばご存知でしょうが、自然界の気を体内に取り込んで操る天法術を使い続けるといつか身体のどこかを悪くします。気をつけてくださいね」
「はい……」
神妙そうに頷いたエレーナに、リューシスが言った。
「エレーナ、悪いが先生と二人にしてくれないか?」
「え? うん」
エレーナは、気になる素振りながら、部屋を出て行った。
リューシスは、エレーナの足音が聞こえなくなってから、メイファに言った。
「先生がアンラードを去ってから五年です。ずっとここにいたのですか?」
「そうですよ」
メイファは言いながら、傍にあった木の丸椅子に座った。
「この辺りは温暖で、空気も水も良い。薬草も豊富に採れて、療養には適してますから」
「で、お身体はどうなのですか?」
「さっき言った通りです。リョウエンどのを始め、アンラードの医者が皆、不治だと言った病ですから。悪くなることはあっても良くなることはありません」
それを聞いて、リューシスは辛そうな顔で下を向いた。
「天法術を学び始めてから、いつかこうなるかも知れないとは思っていましたから、落ち込んではいませんよ」
「でも……ほとんどは命に関わるほどのことはないのに、不治の病だなんて……」
「私は強い天法術を使いすぎたからでしょう。仕方ありません。でも、リョウエンどのには三年と言われた命、ここにいるおかげか、もう五年も生きています。案外、もっと長生きできるかも知れません、ふふ」
メイファは口を隠しながら笑った。
雪のように白い肌、やや吊り気味の切れ長の目、しかし優しい瞳の光……その顔を見つめながら、リューシスの胸の底に、封じ込めていた五年前の感情が浮き上がって来た。凍結させられていた炎が、自らの熱で氷を溶かして再び小さな火を上げたようだった。
――何を話しているのかしら。
居間に入って長椅子に座ったエレーナだが、気はリューシスとメイファのいる部屋に引かれていた。
何故だか、二人が何を話しているのかが気になって落ち着かない。
「殿下が目覚められましたか」
そこへ、バーレンがやって来た。
服の隙間から血の滲んだ包帯が見えて痛々しかった。
「バーレンどの、起きては行けませんよ」
エレーナは慌てて立ち上がった。
「ふふ。私の身体は人よりも頑丈にできています。これぐらい平気です」
「でも……」
「少し喉が渇いたのです」
「では、水を持ってきましょう」
「そんな、エレーナ様に持ってこさせるなど恐れ多い。自分でやります」
今度はバーレンが慌てたが、
「それぐらい構いませんよ」
エレーナはバーレンを制して台所に行くと、水がめから茶碗に水を汲んで持って来てバーレンに渡した。
「ありがとうございます」
バーレンは深く頭を下げると、円卓の椅子に座って水を飲んだ。
「それで、殿下のお加減は?」
バーレンは茶碗を円卓に置いて訊いた。
「毒が完全に抜けたわけじゃないけど、とりあえず今は大丈夫そう。顔色も悪くないわ」
「そうですか。では、様子を見に行くかな」
バーレンは立ち上がろうとしたが、エレーナが止めた。
「あ、待ってください。今はメイファさんと何か話をしているみたい。二人にしてくれって言われて、私も出て来たの」
バーレンは眉をぴくりと動かして、
「メイファ先生か……なるほど、久しぶりですからね、色々と話もあるでしょう」
「うん」
エレーナは頷くと、リューシスとメイファのいる部屋の方をちらりと見て、黙りこくった。
しばしの沈黙が流れてから、エレーナがバーレンに訊いた。
「バーレンどの。もしかして、リューシスとメイファさんはただの師弟関係じゃないんじゃ……?」
バーレンはエレーナをちらりと見ると、空になった茶碗を弄びながら、
「流石に鋭いですね。その通りです」
と、困ったような顔をした。
「やっぱり……」
「詳しいところまでは知りませんが、あの二人は一時、師弟関係を超えて男女の仲になったことがありました」
「え……?」
男女の仲――
この言葉は、何故かエレーナの胸をひどくざわつかせた。
「でも、本当に一時だけです。ローヤンの皇子とハンウェイ人の平民、しかも師匠と弟子。反対する者ばかりで、皇宮中を揺るがせた大騒動になったんですよ」
「え…………」
「それでも殿下は想いを貫こうとしたのですが、ちょうどその時メイファ先生が重い心臓の病を発したことがわかったらしく、この先、皇族でもあるが故にローヤン軍の柱石になるであろう殿下の負担になりたくないと、メイファ先生の方から何も言わずにアンラードを去って姿を消したそうです」
「そんな……」
「その後のことは知りません。殿下も、メイファ先生のことはほとんど口にしませんでした」
バーレンは、再び茶碗に口をつけながら、リューシスらがいる部屋の方を見た。
「先生。俺たちのところへ来ませんか?」
リューシスが突然言った。
「え?」
メイファは困惑の顔で見返した。
「知っているかも知れませんが、今、俺たちはルード・シェン山を本拠地としています。ルード・シェン山には珍しい薬草が多く、薬効のある温泉もあります。今はあの宮廷侍医だったリョウエンもいるんです。先生、ルード・シェン山に来て療養しませんか?」
リューシスは真剣な顔で進み出たが、メイファは憂いの含んだ眼差しで答えた。
「やめておいた方がよろしいかと」
「……先生、心配は無用です」
リューシスは、メイファの瞳に宿っている憂いの意味を理解した。
「俺はもう二十二歳。それなりに、様々な経験もしました。今では一勢力を率いる身でもある。あの頃に時間を戻すつもりはありません」
リューシスは迷いの無い目できっぱりと言った。
「俺はただ、先生の治療に少しでも力になりたいだけなんです。ルード・シェン山にはワンティンやシャオミンがいる。先生の親友だったダリアもいます。みんな、先生に会えたら喜びます」
リューシスが熱心に言うと、メイファは寂しそうな微笑みを見せた後に、部屋の入口の向こうを見てから言った。
「あのフェイリンのエレーナ様。噂ではわずか一ヶ月で離縁したと言う元の奥方様ですね?」
「あ、はい……」
リューシスはやや気まずそうに肩をすぼめた。
「再婚されたのですか?」
「いいえ。ですが、ちょっとした事情と成り行きで、今は俺の軍の中にいます」
「そう……でも、二人はとても似合っているように見えます」
「そうですかね」
「あのエレーナ様は、見る限り殿下のことが気になっているようですね。殿下はどうなのですか?」
「ああ~……いや……どうだろう。今では大切な人にはなりましたが、そういうのとは……」
「ふふ……私は、とても良いと思いますよ」
「…………」
「殿下はローヤン人で、私はハンウェイ人。そして皇子と平民であり、師匠と弟子。元より結ばれてよい二人ではありません。何よりも、私は病で未来がない。殿下は、私よりも先にあのエレーナ様に出会うべきでした」
「メイファ先生、そんなことは言わないでください。先生に出会えたことは、様々な面で俺にとって意味がありました。俺の人生の中で大切な時間であったことは間違いありません」
「ふふ、ありがとう」
メイファは優しく微笑み、くだけた口調で答えると、
「私も、殿下に出会えたことは意味がありました」
と、言ったが、その表情には影が差していた。リューシスはその影を敏感に感じ取った。
「どういう意味が?」
「恐らく、私が殿下に出会ったことは私の天命でしょう」
「天命? どんな?」
リューシスは目を瞠った。
「さて……うまくは言えませんが」
メイファは困ったような顔で微笑すると、
「昨晩現れたあのジェムノーザと言う闇の天法士」
「ジェムノーザ……」
リューシスは顔を曇らせた。
――俺とお前は双子の兄弟だからな。
ジェムノーザの言葉が耳の奥を往復し、リューシスは頭痛を覚えた。
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