第115話 闇の襲撃
「いかがされた」
バーレンは不審に思い、そっと槍を握り直した。すると、頭巾の女性は、今度はバーレンの顔をじっと見た後に、再びリューシスに目を落として、
「……このお方ですか」
「そうだ。どうだろうか」
頭巾の女性はリューシスの顔をよく観察した後、ため息をついて首を横に振った。
「申し訳ございません。このお方の毒には私が今持っている薬は効かないでしょう」
「そうか……では医者がいると言うそのヤンサン村に急ぐしかないな」
バーレンは失望の色で答えると、頭巾の者に礼を言い、先を急ごうとした。
だがその時、突如として喚声が響き渡った。同時に、左手の樹林より一団の兵士らが飛び出してこちらへ殺到して来た。
「こんなところにも伏兵?」
エレーナは、咄嗟にリューシスを守るように荷台の隣についた。
バーレンは素早く鞍上に飛び移り、
「エレーナ様、殿下を頼みます。できれば先にお逃げください」
と、すぐに迎撃に向かおうとしたが、はっとして鋭い目を頭巾の女性に向けた。
その疑いの視線に、女性は頭巾の下から落ち着いて見返した。
「私は関係ございませんよ」
「悪いが、この状況では信じられん。アンロン、イーウェイ、その者を捕らえておけ!」
バーレンは大声で指示を下すと、馬腹を蹴って駆け出した。
頭巾の者は溜息をつくと、「まあ、仕方ありませんね。どうぞ」と、自ら両手を差し出しておとなしく縛られた。
伏兵は皆歩兵であったが、数は多かった。次から次へと飛び出して来るその数は、ざっと見ても三百人以上はいるかと見えた。
対して、こちらはわずか二百騎の上、皆傷ついている。兵士らはバーレンの後について駆けて来ているが、
ーー俺一人で食い止める覚悟でかからねば。
バーレンは、悲壮の覚悟を固め、身体に闘志を燃え立たせた。
しかしその瞬間、前方が赤く光ったかと思うと、いくつもの火炎の玉が飛んで来た。
――
目を見張ったバーレンは咄嗟に馬上で身を捻って躱したが、馬にはいくつか当たってしまった。馬は悲鳴を上げて転び、バーレンは大地に投げ出された。また、後ろに続いて来ていた兵士らも次々に火炎を食らって倒れた。
バーレンは上手く受け身を取ってすぐに立ち上がったが、槍を構え直して駆け出そうとしたところへ、またしても
突然、あちこちの足元の地面が爆発して吹き上がった。直撃はしなかったが、吹き上がった土砂と爆風に巻き込まれ、バーレンは後方へ吹き飛ばされた。
その時、エレーナはリューシスを乗せた荷車と共に別の場所へ避難しようとしていたのだが、その
「私のと同じ
エレーナほどの威力はなかったが、間違いなく同じ
そこへ、「今が好機だ、敵は混乱しているぞ!」と、敵勢が一斉に突進して来た。
「おのれ……」
バーレンは、全身の激しい痛みを堪えながら必死の形相で立ち上がり、
「相手が
エレーナもまた、荷台の上のリューシスの顔をちらっと見てから、恐怖を押し殺して駆け出した。
しかしその時である。
急激に空気が冷え込んだかと思うと、重苦しい不気味な気が辺りに立ち込めた。
バーレンも背筋に強烈な戦慄を感じた。次の瞬間、バーレンの方へ殺到していた敵兵らが、一斉に悲鳴を上げて吹き飛んだ。それに驚き、後続の敵兵らが足を止める。
バーレンも思わず立ち止まり、駆け出していたエレーナも足を止めた。
バーレンの前方と、向かって来る敵兵の一団との間に、どこから現れたのか一人の男が背を向けて立っていた。今しがたラングイフォン兵らが吹き飛ばされたのは、どうやらこの男が
男は、夜闇が人と化したかのような漆黒の頭巾法衣に身を包んでいた。顔にも黒い覆面をしており、目だけをのぞかせていた。
その異形の佇まいに加え、手足を絡め取って来るかのように発する重い気の圧力に、ラングイフォンの兵士や天法士たちは立ち竦んでしまった。
すると、彼らを統率していた武将が前に出て来て、大声で怒鳴った。
「何をしている!
だが、それでも兵士らと
「ならば、まずはお前が来たらどうだ?」
黒衣の男が言った。感情のないような冷えた音だが、よく響き通る声であった。
ラングイフォンの武将は一瞬躊躇したが、ここで引けば兵士らは動かぬと思ったのか、
「ほざいたな、覚悟せい。皆、私に続け!」
と、手槍を握って土を蹴った。
しかし、黒衣の男が手を斜めに振ると、そこから一筋の黒い波動が夜闇を疾った。次の瞬間、将は叫び声を上げて馬から落ちていた。鎧が紙を裂いたかの如くずたずたになり、その裂け目から血が流れていた。
それを見たラングイフォン兵士らは恐怖に震え上がり、黒衣の男がじりっと歩き出して、
「俺は無駄な殺しは好かぬ。逃げるなら見逃してやるが、手向かいするなら手加減はしない」
と、冷えた声を響かせると、ラングイフォン兵士らは皆、悲鳴を上げながら四方に逃げて行った。
ラングイフォン兵らの行く先を見もせずに、黒衣の男が振り返ってバーレンを見た。
頭巾と覆面の隙間から、左目だけが冷たく光っている。右目は潰れていた。
バーレンも、これまで感じたことのない暗黒の圧力に、身体が動けずにいた。このような体験は初めてのことである。だが、それでも槍の穂先を向け、自分から口を開けたのは流石であった。
「我らを助けてくれた……わけではなさそうだな」
「もちろん。むしろ逆だ。俺の獲物をあいつらに横取りされたくなかったのでな」
黒衣の男はゆっくりとバーレンの方へ歩いた。
「どういうことだ? 獲物……狙いは殿下か?」
「ああ」
「貴様、何者だ」
「
左目が冷たく笑った。
聞いたエレーナは「あの時の……」と、口に手を当て、バーレンは瞠目して、
「何? そうか……お前がジェムノーザか」
と、槍を構え直して殺気を放った。
バーレンは以前、リューシスらとアンラードから脱出した時、リューシスとジェムノーザが対決したのを遠目には見ていたが、間近でジェムノーザを見るのは初めてである。
「通してもらうぞ」
バーレンほどの猛者が闘気全開にして槍を構えているのにも関わらず、ジェムノーザは平然とその脇を通り過ぎようとした。
「……行かせるか!」
バーレンは眼を怒らせて豪槍一閃、水平に光を疾らせたが、そこに暗黒の影は消えて虚しく空を切った。
禍々しい気を感じてバーレンが振り返ると、後方三メイリほどにジェムノーザが立っていた。
ジェムノーザは隻眼を不気味に光らせて、
「俺はこれでも無駄な殺しはしたくない。だが、邪魔をするなら殺す」
と、左手の人差し指を突き出すと、そこから大きな黒い気の塊が飛び、唸りを上げてバーレンに襲い掛かった。
だがバーレンは気合と共に槍を振り上げ、黒い気の塊を弾き飛ばした。
「お……」
ジェムノーザは左目を見張った。
「驚いた。今までこれを防げた者はいないぞ。流石だな」
ジェムノーザは感心した。だが、どこかわざとらしかった。
その間にバーレンは槍を構えてジェムノーザに駆ける。
「これならどうだ」
ジェムノーザが右手を出して水平に輪を描くと、そこに黒い火炎の輪が出現した。ジェムノーザがそのまま右手を振ると、黒い火炎の輪は回転しながらバーレン目掛けて空を滑る。
だが、バーレンは素早く上体を伏せてそれを躱した。
「ほお、やるな」
ジェムノーザが両腕を左右に伸ばして両手を開いた。すると、左右十本の指の先から、先端が尖った黒い直線の気が飛んだ。
バーレンはそれらを躱すか、あるいは撥ね飛ばそうとする態勢を取ったが、十本の黒い直線はそれぞれ別の方向に大きく惰行した後、四方八方から目にも止まらぬ速度で一斉にバーレンを襲った。流石のバーレンもこれは防ぐことができず、黒い直線に全身を突き刺された。
それでもバーレンは槍を杖代わりにして堪え、激痛に呻きながらも反撃に出ようとしたのだが、ついには力が入らずに崩れ落ちた。
ジェムノーザは、倒れたバーレンを一瞥して冷笑すると、周囲を見回した。
兵士らはすでに、ジェムノーザの暗黒の気と圧倒的な力の前に、完全に恐怖で竦んでしまっていた。
「邪魔をしなければ殺さん」
ジェムノーザは兵士らを見回しながら言うと、リューシスが乗っている荷車と、その傍らのエレーナの方へ歩いて行った。
エレーナも、兵士らと同様に動けずにいた。彼女は自身も
ジェムノーザが使った術は、どれも見たことも聞いたこともないものであった。その驚愕と恐怖に、彼女は固まってしまっていた。
しかし、ジェムノーザがエレーナの前方五メイリほどのところまで来たところで、エレーナは勇気を振り絞り叫んだ。
「来ないで!」
ジェムノーザは素直に足を止めたが、エレーナを見て嘲笑した。
「フェイリンの王女か。お前も
「抵抗するわよ……あなたの狙いがリューシスならね」
エレーナは手を震わせながらも、
ジェムノーザは何かに気付いたように目を細めた。
「うん? お前は確か、リューシスを仇だと思っていたはずだよな。ならば俺がリューシスを殺すのには反対はしないと思うが」
「それは…………」
「まさか……憎しみがいつしか愛に変わったか?」
「…………」
「それとも、最初から惹かれていたが、フェイリン滅亡の事実との間で葛藤した末、わざと憎しみを強くして自分の気持ちを誤魔化していたとか……」
ジェムノーザが冷笑した。
エレーナはジェムノーザを睨んだ。手の震えが止まっていた。
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