第79話 バルタザールの憂鬱

 二日後――

 その日は、北方高原から吹き付ける寒風かんぷうが強く肌を刺して来る厳しい寒さであった。


 しかし、冷たい風が吹きすさぶ中でも、新皇帝エンディーとなったバルタザールは、綿を沢山入れた厚手の稽古着を来て、屋外の射場にいた。


 だが、合成弓の弦に指をかけ、前方の的を見るその顔は浮かない表情であった。

 狙いを絞って弦を弾いた。

 風を切ってはしって行った矢は、的の中心を大きく外れた。


 いつの日かと同じく、これで珍しく三連続で的を外したこととなる。

 しかし、あの日とは違い、今日は伴を連れていなかった。

 バルタザールが、伴はいらないと言って拒否したのだ。

 それでも、部下は当然強く同行を進み出る。


「すでに皇太子エンタイーズではないのです。もはやローヤン帝国の皇帝エンディーです。宮城内とは言え、何があるかはわかりません。陛下に身に万一のことがあったらどうなさいますか」


 しかし、バルタザールは皮肉そうに笑い、


「私が今死んだってローヤン帝国は困らないだろう? 来るな」


 そう言って部下を無視し、一人で射場へと向かったのだった。


 ――そうなんだ。僕が死んだところで国も誰も困らない。今だってそうだ。僕はいてもいなくてもどっちでもいい存在。


 バルタザールは、合成弓を後ろに放り投げると、鉛色の空を見上げた。


 ――歴史は学んで来た。傀儡かいらいってこういうことなんだな。まさか自分がそうなるとは……。


 バルタザールの胸に、空虚な無力感と寂寥せきりょう感が吹き抜けて行った。


 その時、背後から、はきはきとした女性の声がした。


「駄目でしょう、そんな風に放り投げちゃ。愛用の弓でしょう? バルタザール陛下」


 女性は合成弓を拾い上げて、歩いて来た。


 その声と、跳ねるような独特の足取りの音で、彼女が誰なのかはすぐにわかった。


「カティア……」


 バルタザールは、ちらりと宰相マクシムの娘を振り返ると、すぐにまた天へ視線を戻した。


「そんなもの、いくら稽古したって何の役にも立たないよ」

「そんなことないでしょう。バルタは、いや、陛下は弓の名手です。いざと言う時に身を守る術になりますし、戦場でも強力な武器となりますわ」


 カティアは、にやけながら、わざとすましたような口調で言う。


「はは、未だに戦場に行ったことのない僕が?」


 バルタザールは、空虚な笑い声を響かせた。

 数々の輝かしい武勲を挙げているリューシスに対して、自分は未だに戦場に出たことがない。これはバルタザールの密かな劣等感であった。


「いえ、そんな。陛下は……」


 と、カティアは言いかけた後、「ああ~、もうっ」と小さく叫んで、


「バルタに対して今更こんな言葉使いできないわ。今まで通りでいいわよね?」

「もちろん。僕は玉座ユーゾにあるけど、所詮お飾りの皇帝。敬う必要なんてないからね」

「…………」


 カティアの顔に複雑そうな色が走った。


「僕は君の父の……マクシムの傀儡かいらいだ。いつの間にか人事権を奪われていたどころか、何を決裁するにもマクシムの許可が必要になってしまった」


 イジャスラフは、突然にして世を去った。


 そして、バルタザールは国政についてまだ勉強中なのに、何の力もない若干十七歳にして皇帝に即位した。


 その隙と混乱の中をうまくつき、宰相マクシムは、「陛下はまだ年少であるが故に私の補佐が必要である」として、政務の全ての決裁は最終的にマクシムの許可を得なければならないと言う法を強引に成立させ、バルタザールからほとんどの権力を奪ってしまったのである。


「今の僕は鳥籠の中の鳥……羨ましいよ、あの空を自由に飛び回れるあの鳥たちが」


 そう言ったバルタザールの碧眼に、遥かな上空を飛んで行く鳥の群れが映った。


「羨ましいよ、才能に溢れている上に、自由に生きられるリューシスの兄上が……」


 カティアの顔が曇った。

 まだ十七歳で政情には疎い彼女であるが、父マクシムがバルタザールを傀儡化したと言うのは何となく知っている。


 幼馴染であり、今も変わらず仲が良いバルタザールを苦悩させているのは、他ならぬ自分の父親なのである。

 普段は活発勝気、バルタザールが暗い顔でいても笑い飛ばすような彼女も、流石に何と声をかけていいかわからなかった。


 だが、バルタザールは優しかった。

 カティアが何も言えないでいるのに気付くと、彼女の心中を察して慌てて振り向いた。


「ああ、ごめんね。カティアは何も悪くないよ」


 バルタザールは長い金髪を揺らし、秀麗な笑顔を見せた。

 それでもカティアは伏し目がちに、


「ううん……私のお父様がいけないんだから」

「そんなことない。僕に力が無いのが悪いだけ」


 すると、カティアは顔を明るくして上げた。


「ああ、そうよ。もっと毅然としたら?」

「毅然?」

「ええ。朝堂で皆が集まる時などに、お父様を抑えてはっきりと自分の意思を示すの」

「そんなの役に立たないよ。今の重臣らは皆、元々マクシムの部下ばかり」

「ううん。そうやって若いながらも皇帝らしい威厳を見せて行けば、皆そのうちバルタの意見を重視するようになるんじゃないかな? 何て言ったって皇帝なんだから」


 未熟だが、少女なりに一生懸命考えたアドバイスであった。


「…………」


 バルタザールは、憂鬱そうな顔のまま、何か思案した。

 その時であった。


「バルタ! じゃなかった、陛下! 急報です!」


 と、一人のハンウェイ人の大男が、大声で喚きながら駈け付けて来た。


「うるさいのが来た」


 バルタザールはカティアを見ながら苦笑した。カティアもまた、悪戯っぽく笑って耳を塞ぐふりをした。


「どうした、ハイディン」


 そのハンウェイ人の大男の名はハイディン・ウーと言い、カティアと同じくバルタザールの幼少の頃からの学友で、今は武勇に長けていることからバルタザールの護衛役を務めている。

 ハイディンはバルタザールの前に立つと、


「大変だぜ」


 と言いかけたところで、慌てて跪き、


「いや、一大事でございます。陛下の兄君であるリューシス殿下が勅命を拒否しただけでなく、挙兵されました!」

「ああ……!」


 聞いた瞬間、バルタザールは悲しそうに天を仰いだ。


「兄上はそっちを選んでしまったのか」


 最初、マクシムがリューシスのルード・シェン山退去とランファン赴任の案を持って来た時、バルタザールは当然反対した。

 すぐにマクシムの狙いを察知したからだ。


 リューシスの命だ。


 何故そこまでリューシスに執着するのかはわからないが、とにかくマクシムは何としてでもリューシスをこの世から抹殺したがっている。


 ルード・シェン山からの退去。

 リューシスが簡単にその勅命を受け入れるわけがない。もしリューシスがその命に逆らった場合には、リューシスを逆臣として再び討伐の軍を起こすつもりなのだ。


 或いは、もしリューシスがおとなしく勅命に従っても、それはそれでまた良い。むしろ、こちらの方が良いであろう。

 リューシスのランファン赴任後、何か適当な罪状をでっち上げて、やはり同様にリューシス討伐軍を起こすのだ。


 ランファンは辺境の貧しい土地で、ろくな防衛施設もなければ、駐屯軍の兵力もわずかである。いくらリューシスが傑出した軍事の才を持っていたとしても、ローヤン近衛軍が全力でかかれば、ひとたまりもないだろう。


 これがマクシムの謀略であることはすぐに見抜いた。


 だがそれだけではない。ルード・シェン山と言う場所は、ずっとアンラードで窮屈な思いをしていたリューシスが、ようやく見つけた自分の居場所なのだ。

 以前、リューシスのおとしいれに加担した自分を許してくれた優しい兄から、その場所を奪いたくはなかった。

 それ故に、バルタザールは玉座を立ってまで猛反対した。


 しかしマクシムは、


「陛下の異母兄でありながら稀有けうの軍事的才能を持つリューシス殿下をルード・シェン山に置いたままにしておくのはもったいのうございます。他国との戦争に備え、いつでも戦場に行ける場所に赴任させるべきです」


 などと、もっともらしく説いた上で、背後に引き連れた重臣一同を見回しながら、


「これは文武の重臣、皆の意見が一致したところです」


 と言って、彼らの署名が入った上書を提出したのだ。


 こうなると、まだ若く未熟な上に、権力のほとんどを奪われてしまったバルタザールにはどうすることもできず、力なく玉座に座った。


 ――兄上、どうかここはこらえて、勅命に従いランファンに赴任してください。


 リューシスにはとりあえずランファンに赴任してもらい、時間稼ぎをする間に何か対策を考える。或いは、北方高原に逃れるか、他国に亡命してもらっても良い。

 バルタザールはそう考えていた。


 だが、リューシスはその勅命を拒否した上で、更に挙兵したと言う。


 バルタザールは苦衷に目を閉じた後、見開いて力強く呟いた。


「兄上を逆賊にするわけには行かない。今からでも何とかしてその勅命を取り消そう、私の命に代えても」


 だが、そこでハイディンが、丸めた一枚の紙をバルタザールに差し出した。


「陛下、これを。リューシス殿下の挙兵は、勅命が理由ではないようです」


 バルタザールはその紙を受け取ると、中を開いて目を通した瞬間、顔色が変わった。


「何だこれは……マクシムと母上が共謀して父上を毒殺したって……?」


 その紙は、リューシスが使者を追い払い、事実上の宣戦布告をした後、彼の名でもってローヤン各地に飛ばした檄文であった。


 中身は、勅命のことには触れておらず、「マクシムとナターシアが先帝イジャスラフを毒殺した。その罪は許し難い。それ故に逆臣マクシムと奸婦ナターシアを討つべく兵を挙げる。正義を重んずる者はわれもとつどえ」と言う内容が、激しい調子で書かれていた。


 バルタザールの横からその檄文を覗き込んだカティアもまた、驚いて口を押えた。


「お父様が……皇太后様と共に毒殺……? 嘘でしょう?」


 気の強い彼女も、流石に顔色が青くなった。

 ハイディンが、続けて言った。


「これはリューシス殿下が挙兵に際してローヤン全土に発した檄文のようです。今、アンラードの街でも何枚か出回っており、住民たちが騒いでおります」


 バルタザールはしばらく呆然としてその檄文を見つめていたが、やがてキッと目を開くと、ハイディンに命じた。


「母上、いや、マクシムはどこにいる? 悪いがマクシムを大広間に呼んでくれないか」



 バルタザールが、大広間の紅い煌びやかな玉座ユーゾの上で待っていると、すぐにマクシムがやって来た。


 しかし一人ではなかった。マクシムの背後から他の重臣たちも沢山続いてやって来た。

 軍部の重臣である七龍将のビーウェン・ワン、ダルコ・カザンキナ、十四紅将軍のウィルバー・パンなども混じっている。

 共通しているのは、ビーウェンなどほんの一部を除いて、皆ほとんどがマクシムの息がかかっている者達と言うことである。


「陛下、お呼びでございますか?」


 マクシムはうやうやしく頭を下げた。


「うむ。すでに知らせは聞いているな? リューシスの兄上が兵を挙げたらしい」


 バルタザールは、落ち着きながらも、睨むようにマクシムを見た。


「はい。一大事でございます。私もすぐに陛下の御前ごぜんで会議をせねば、と思っていたところでございます」

「そうだ。すぐに会議をしなければいけない。まずはそなたのことについてだ」

「私の? 何故でございますか?」


 マクシムは、わざとらしいような驚いた顔を見せた。


「何を言っている。これだ」


 バルタザールは、檄文を取り出して虚空で広げて見せた。


「これは、兄上が挙兵に際して各地に飛ばした檄文。そなたのもとにも届いていよう。内容は、そなたと我が母が共謀して先帝を毒殺したことがわかった、それ故に兄上は兵を挙げる、と書かれている」

「なるほど」


 マクシムは驚くこともなく冷静に言ってから、きざはしに歩み寄り、


「陛下、その檄文を見せていただいてもようございますか?」

「ああ、よく見ろ」


 バルタザールは玉座ユーゾから降りて行き、自らマクシムに檄文を手渡した。

 受け取ったマクシムは、ざっと目を通した後に、顔をしかめた。


「なるほど。陛下のもとにはこちらが届きましたか」

「うん?」

「私にも何枚かの檄文が届けられましたが、それらとは文面が違っております」

「どういうことか」

「はっ」


 マクシムは、懐から三枚の紙を取り出し、バルタザールに差し出した。

 三枚とも、リューシスの署名がある檄文であった。しかし、中の文面は違っていた。

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