第72話 再びアンラードへ

 リューシスは、長剣の柄に手をかけながら、静かに言った。


「父上の病は、リョウエンの新しい治療法で劇的に回復をしていた。ここ数ヶ月は、親政を再開し、毎日精力的に政務をこなしていた。先日来た手紙でも、体調はすこぶる良好だと……」

「はっ。しかし……」

「イェダー。お前は部下に当たるが、俺の親友だとも思っている。だが、そんなふざけた冗談を言うなら、叩き斬るぞ」


 リューシスは青白い顔で言うと、長剣を鞘から抜いた。


「ちょっとリューシス。やめなさいよ。落ち着いて」


 誰も進み出られない緊張感の中、エレーナが駆け寄ってリューシスの腕を掴んだ。


 その時、別の方角から、一人の兵士が馬に乗って駈け付けて来た。

 兵士は転げ落ちるように慌てて馬から飛び降りると、リューシスの下に跪いて早口に言った。


「も、申し上げます。只今、ビーウェン・ワン将軍からの早龍と直筆の手紙が参りました。こ、皇帝陛下が崩御されたそうです」

 

 そう報告した兵士も、声と身体が震えていた。


 リューシスはそれを聞くと、握っていた長剣を取り落した。


「嘘だろ? 嘘じゃないのか? お前たち。俺を驚かそうとしているんじゃないのか?」


 リューシスは、顔をひきつらせながら、イェダーと兵士の二人に訊いた。


「いえ。誠でございます。陛下は昨日の未明、突然容体が急変し、息を引き取ったと……」


 兵士も涙ぐんでいた。彼は、言葉を詰まらせながら言うと、ビーウェンの直筆の手紙を差し出した。


 リューシスは震える手で受け取ると、開いて中身を見た。


 そこには、ビーウェン自身も未だ信じられない想いだが、確かにイジャスラフが急逝したことと、それによって今アンラード宮中は慌ただしい大混乱の中にあり、丞相マクシムがその混乱を鎮めようと徹夜であらゆる指示を出していること、などが記されている上、リューシスがこの報により心に深い傷を負うであろうことを想い、リューシスを気遣う言葉が真情でもって連ねられていた。


「ほ、本当なのか……ち、父上……」


 リューシスが両手で持つ手紙の上に、涙が落ちてしみが広がった。

 やがて、リューシスは全身から力が抜けたように膝から崩れ落ちた。

 そして泣いた。


「回復して来ていたんじゃなかったのか……何でだ……!」


 口調は静かであったが、激情のような悲痛な響きであった。


「お、俺は……」


 リューシスは涙をぼろぼろと流しながら何か言いかけたが、すぐに苦しそうに胸を抑えて呼吸を乱すと、そのまま気を失って横に倒れた。


「リューシス!」

「殿下! お気を確かに!」


 エレーナ、イェダーらが慌てて駆け寄った。



 リューシスが自身の寝室で目を覚ました時は、すでに夕刻に近かった。

 ベッドの上で上半身を起こしたリューシスの横顔を、窓から漏れ入る冬の黄昏色が黄色く染めた。


「良かった、目を覚ましたのね」


 傍らの木の椅子に、白い法衣姿のエレーナが座っていた。彼女は安堵の吐息をついて言った。

 リューシスは、何故自分がここに寝ていたのかわからずに混乱したが、すぐに記憶を取り戻すと、ゆっくりとエレーナを見た。


「ずっとそこにいてくれたのか」


 エレーナは、悲しそうな笑みで首を横に振った。


「ううん。ワンティンと交代で」


 その時、ちょうどワンティンが扉を開けて入って来た。


「ああっ、殿下! 良かった、目を覚まされたんですね」


 ワンティンは小走りで駆け寄って来た。


「気を失っていたんだな。悪い、情けないところを見せてしまった」


 リューシスは目を伏せ、力無く笑った。


「そんなことないよ……突然あんな知らせを受けたら、誰だって……」


 エレーナが、慎重に言葉を選びながら言うと、


「ビーウェンからの手紙はどこだ? もう一度見たい」


 リューシスは四方を見回した。


「ここです」


 ワンティンが、部屋の隅の机の上に置いていた手紙を持って来て、リューシスに差し出した。

 リューシスは受け取ると、ふうっと小さい溜息をついた後、手紙を開いて中の文面を眺めた。

 虚ろな瞳で、読むでもなくずっと見ていた。


 その横顔を見て、エレーナは切なそうな顔でリューシスに言った。


「あのね。イェダーさんとヴァレリーさんが色々と伝手を使って情報を集めているんだけど、やっぱりその知らせは本当みたいよ」


 リューシスは無言で頷くと、


「だろうな。もしかしたらマクシムか誰かの陰謀か? と思ったが、マクシムだったら偽手紙にビーウェンの名前は使わないし、陰謀に皇帝崩御なんてネタは自らの危険が大きすぎる」


 そして、リューシスは悲しそうに力なく笑った。


「父上は、本当にいなくなってしまったんだ……」


 そう言って涙ぐんだリューシスに、エレーナもワンティンも、何もかけられる言葉が見つからなかった。



 翌朝、アンラードの朝廷から、イジャスラフの葬儀についての連絡があった。

 ローヤン皇家の歴代皇帝の遺体は、アンラードの北東にあるシュリン山と言う小山に埋葬されることになっている。


 今日は葬礼の儀式を行い、明日には納棺した後、シュリン山に埋葬すると言う。


 葬礼の儀式には、原則として朝廷に仕える直臣は皆、参列しなければならない。

 しかし、今回のような突然の場合には、例え皇族、重臣であっても、アンラード付近におらずに参列が困難な場合には、葬礼や埋葬には来なくても良いことになっている。


 だが、リューシスは何と言ってもイジャスラフの長男であり、第一皇子と言う身分である。

 また、それだけではなく、彼個人の感情としても、イジャスラフと最後の別れをしたかった。


 しかし、ルード・シェン山からアンラードまでの距離は約150コーリー(km)である。

 通常であれば、陸路ではとても今日中にアンラードに辿り着ける距離ではない。障害物に邪魔されない飛龍であっても無理である。

 だが、ルード・シェン山にいる飛龍たちの能力は常識を超えている。


 リューシスは、長身の女性飛龍学者に訊いてみた。


「ダリア。うちにいる飛龍たちなら、今日中にはアンラードに行くことは可能か?」


 その時ダリアは、あの湖の畔にいた。

 長い金髪を後ろで一つに束ね、眼鏡をかけて、昨日産まれたばかりのスチャースティの子龍の状態を注意深く観察していた。

 しかし、リューシスの言葉に驚いて立ち上がった。


「まさか殿下。ここの飛龍たちに乗ってアンラードに行き、葬礼に参列するおつもりですか?」

「ああ。可能ならな」


 リューシスは、ダリアを見上げて言った。

 ダリアは困惑しながらも、周囲で自由に戯れている飛龍たちを見回した。


 通常の飛龍は、その能力を全開にして全速力で飛行すると、時速六十~七十コーリー(km)もの速度が出る。

 しかし、これは十分程が限界で、しかも一度これをやってしまうと、もうその日は疲労の限界に達してしまい、飛ぶことはおろか、ほとんど動くこともできなくなってしまう。


 人で言うところの徒歩――身体に負担のかからない無理の無い速度で飛べば、長時間の飛行は可能である。

 しかし、その速度は時速6~8コーリーほどであり、馬よりわずかに速い程度である。


 しかも、飛龍たちにも人馬同様に体力の限界はあるので、連続飛行は二時間が限界で、二時間飛んだら、二十分~三十分は休息を取らなければならない。

 そしてもちろん、最低六時間ほどの睡眠時間も取らなければならないので、一日に可能な移動距離は最大でも80~90コーリーである。


 150コーリーの距離があるアンラードに辿り着くのは、到底不可能である。


 しかし――


「ここにいる飛龍たちは、速度も体力も他の飛龍たちの能力を大きく超えており、私にもまだまだわからないことだらけです。もしかしたら、すぐに出発すれば、今日の真夜中には着けるかも知れません。しかし、実験したことがないのでそれは何とも言えません」

「可能かも知れない、か。じゃあ、必ずしも無理と言うわけではないな」

「ええ。ですが……」

「よし、じゃあ行こう」


 リューシスは躊躇うことなく言い切った。

 ダリアは溜息をついた。


「おやめください、と言っても殿下はやめないでしょうね」


 ダリアは現在二十八歳。飛龍学者である為、龍士ロンドでもあるリューシスとは昔から交流があり、リューシスの性格は熟知している。


「わかりました。しかし、連れて行くのは二十頭までにしてください。乗り潰してしまう可能性がありますので。そうなれば、ここにとってもローヤン帝国にとっても大きな痛手になります」

「そうだな。わかった」

「それと、二時間に一回は必ず龍たちに休息を取らせ、充分な食と水を与えてください」

「わかったよ。ありがとう」


 リューシスは笑顔で答えると、


「じゃあダリア。状態の良い龍を二十頭選んでくれ。すぐに出発する。食料と水などは、途中の県城で補給すればいいだろう」


 と言い、背を返して駆け出して行った。

 小さくなって行くその背を見送ったダリアは、寂しそうな影のある笑みで呟いた。


「普段はだらしないけど、いざここぞ、と言う時は居ても経ってもいられない。あの時と同じね、メイファ……」




 そして出発の準備が整った。

 リューシスと、二十頭の飛龍に乗る龍士たちの他に同行するのは、イェダーとヴァレリーの二人である。

 彼ら二人は、アンラードの士官学校を卒業しているローヤンの正規武官であるからだ。


「じゃあ、バーレン、ネイマン、それとエレーナ、皆。留守を頼んだぞ」


 リューシスは、白銀の甲冑の上に更に厚手の毛皮の外套を纏っていた。そして、「よし、じゃあ皆、強行軍になってすまないが、行くぞ」と言ったが、その瞬間、彼の頭に電撃的に閃いたものがあった。


 リューシスはバイランの背に乗っていたのだが、手綱を握る手も身体も固まったまま、前方の虚空を睨んで何か考え込んだ。


「殿下、如何なされましたか?」


 すぐ後ろにいたヴァレリーを始め、集まって来ていた他の皆も訝しがると、リューシスはおもむろにバイランから降り、皆を見回した。


「バーレン、ネイマン、エレーナ、それと各隊の隊長たち、ちょっと来てくれ。話がある」


 と、三人の他に、軍中の隊長格の者らを呼び、何か言い渡した。

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