第58話 五歳のリューシス
その夜更け、午前一時を過ぎた頃であった。
ルード・シェン山の東側を、一軍が松明の火もつけずに密かに行軍していた。
マクシムの命を受けた、
彼らは、一切の声を上げぬように厳命されていた。誰一人言葉を発さず、粛々とユエン河とウールン河を渡って行った。
そして彼ら夜襲部隊は、ルード・シェン山の北側まで回り込むと、断崖絶壁でも比較的傾斜があり、草や樹木が生えていて登りやすそうなところを見つけた。
ルスランは、兵士らにそこから登って行くように命じた。
夜目の効く者らを選んでいる。深夜の暗闇の中でも、皆、順調に崖を登って行く。リューシス軍の妨害は無かった。気付かれている気配も無い。作戦は成功した、と誰もが確信した。
一番先頭を行く兵士が、あとわずか五メイリ(メートル)ほどで山頂に到達する、と言うところで、用意していた鉤縄を上に投げつけた。鉤がしっかりと岩に刺さった感触を確かめると、兵士は会心の笑みを浮かべて、縄を伝って一気に駆け上がって行った。
だが、その先の崖上に、突然として十数人のリューシス軍兵士らが薄笑いの顔を出した。
登り切ろうとしていた兵士の顔に絶望の色が走った。その瞬間、大量の石が落とされた。
兵士が無念の悲鳴と共に岩肌から落ち、それに巻き込まれて後続の兵士らも落下した。また、他の登攀していた兵士らも、投石の直撃に遭って闇の底へ転げ落ちて行った。
それをウールン河の向う側から目撃したルスランは、さっと顔色を変えた。
側近の部下も青くなって叫んだ。
「しまった、気付かれていたか!」
だがルスランは、普段は明るい瞳を鋭く光らせると、
「いや、あれは、気付かれていたと言うより、見抜かれていたと言うのが正しい」
と冷静に言って、四方の夜闇を見回した後、
「そして、見抜かれていたならば、リューシス殿下のことだ。きっとそれ以上の用意があるはずだ。これ以上の作戦続行は無用! 急ぎ撤退だ! 急げ急げ!」
と、大声を響かせて、まだ崖に向かっていない兵士らをまとめて撤退しようとした。
ルスランの判断は速かった。だが皮肉にも、実に的確であった。
残っていた兵士らが口々に喚きながら駆け出した時、夜空から翼の羽ばたく音が大きく響いた。
その瞬間、咆哮と共に夜闇を斬り裂きながら左右上空から飛んで来る
「
右側の先頭を飛ぶ
闇の中でも目立つ紅衣銀甲の武将、それはリューシスであった。
リューシス率いる
少数であるが、夜闇の中での不意を突いた射撃である。十分な効果であった。
更に続いて、
「
と、リューシスの命令が響き渡った。
ルード・シェン山の
夜襲をかけるつもりが、逆にこの強烈な奇襲を受け、ルスランの夜襲部隊は完全に士気を挫かれて戦意を喪失した。
夜のウールン河の岸辺に流血が舞い、阿鼻叫喚の中、兵士らは次々と倒れて行った。
「見ればわずか五十騎程度ではないか。流石は殿下だわ」
ルスランは悔しげに言ったが、顔は笑っていた。
持前の陽気さを伴った大声を暗闇に響かせた。
「皆、逃げろ逃げろ! 抗戦は無用だ! この状況で逃げても罰は無い! 皆逃げろ!」
こうして、マクシムの夜襲作戦は完全に失敗に終わった。
翌朝、首都アンラード。
皇帝イジャスラフの寝室には、払暁の光が窓を通して注ぎ込み、部屋には青い光がまどろんでいた。
その中央、天蓋の垂れるベッドの中で眠るイジャスラフに、五歳の時のリューシスが口を尖らせて反発していた。
「私は剣術なんてやりたくありません!」
そこは、皇宮の中庭であった。イジャスラフはいつの間にかそこにおり、長椅子に座っていた。隣には、小柄な女性も共に座っている。
文句を言って来る幼いリューシスの後ろには、今まで剣術を指導していた武芸師範役のビーウェン・ワンが立っている。彼もまだ若く、顔の皺も少なければ髪も黒々としている。
その若きビーウェンが、困り切った顔でリューシスに優しく言った。
「しかしリューシス様、戦の基本はまずは剣術を身に着けることですぞ」
だがリューシスは、生意気な顔でビーウェンを振り返った。
「基本だろうが、何だよ。剣術なんてできても、所詮一人や二人しか相手にはできないじゃないか。しかも俺に才能がなかったら、稽古するだけ時間の無駄だ。違うか?」
屁理屈のように聞こえて、鋭く真実をついているようにも聞こえる。しかも使う言葉が子供らしくない。
イジャスラフは、五歳の子供がこんなことを言うのに驚きながらも、
「しかしな。まずは剣術を身に着けなければ、自分の身を守ることもできんのだぞ」
「そうですよ、リューシス。お父上の言う通りです」
と、イジャスラフの隣に座っている婦人も優しい声で言った。
小柄だが、艶のある綺麗な金髪と白い肌が印象的な美女である。しかし、その慈愛に満ちた顔立ちは、美しいと言うよりも、少女のような可愛らしい感じであった。
「しかし母上」
と、リューシスは言った。その小柄な女性が、リューシスの母親のリュディナであった。
「
リューシスの反論に、リュディナは目を丸くして言葉に詰まったが、すぐにおかしそうに笑った。
「生意気なことを言う子だ」
イジャスラフも呆れながら笑った。そこへ、小さなリューシスは木剣を投げ捨てて詰め寄った。
「父上。剣術よりも、私に戦争のやり方を教えてください」
「何だと?」
イジャスラフは眉をしかめた。
「何と言うんでしたっけ? へ、兵……」
「
「はい。私は
「ふむ。お前は本当に不思議な子だな。お前ぐらいの歳であれば、普通は剣や弓矢に興味を持つもの。しかしそれらを嫌がるどころか、
イジャスラフは、しげしげと我が子を見た後、
「しかし、何故そこまでして
と、訊くと、リューシスは母のリュディナを見ながら答えた。
「この頃、父上はいつも戦に行ってばかりです。その度に、母上は毎日父上を心配し、しかも寂しそうです」
「まあ。これ、リューシス」
リュディナは頬を染めた。
「私も、戦に行っている時の父上が心配です。だから、私が
その言葉を聞いて、イジャスラフは心の底から驚いてリューシスの顔を見つめた。
リューシスは真剣そのものの顔で、褐色の瞳を強く光らせていた。この時の彼の毛髪はまだ全て褐色で、後に目立つようになって来る赤毛は数本しか出ていない。
やがて、イジャスラフは感心したように頷いた。そして、微笑みながら言った。
「良くぞ言った。それでこそローヤン人の勇者だ。良かろう。
イジャスラフは、その点を念を押すように強く言った。
リューシスは、ぱっと幼い顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 励みます!」
「うむ。ビーウェン、明日からは剣術だけじゃなく
イジャスラフは、にこにこと笑いながら言った。
隣のリュディナも、優しい眼差しで五歳の息子を見つめていた。
そこで、イジャスラフは目を覚ました。
天蓋の隙間から、朝の爽やかな光が漏れ入っている。
半身を起こし、下半身を回してベッドの縁に座ると、隣の小卓の上にある呼び鐘を鳴らした。
すぐに、外から侍女の声が聞こえた。
「陛下、お目覚めでしょうか?」
「ああ。入れ」
イジャスラフが答えると、「失礼いたします」と言って、侍女二人が水差しを持って入って来た。
侍女二人は、木椀に水を入れてイジャスラフに差し出す。イジャスラフは、それを一口に飲み干した。
そこへ、
「
「うむ。今日は悪くないぞ」
イジャスラフは痩せた顔に笑みを見せた。
「おや、確かにそのようですね。何やら楽しそうにも見えますわ」
ナターシアが微笑しながら歩いて来ると、イジャスラフは二杯目の水を侍女に促しながら言った。
「まあ、ちょっと楽しい夢を見てな」
「あら。どのような夢でございますか?」
ナターシアは、ベッドの近くにある紫檀の椅子に座った。
「ふふ、まあ、昔の思い出よ」
「昔の……」
ナターシアは真顔になり、それ以上は訊かなかった。
イジャスラフは二杯目の水を飲み干した後、立ち上がって窓に歩み寄った。
そこから、外の庭の風景をしばし眺めた後、おもむろに振り返ってナターシアに訊いた。
「マクシムらの戦況がどうなっておるか、その後の知らせなどは届いてないか?」
「変わらず、攻めあぐねておるようですよ」
ナターシアが眉根を寄せて答えた。
「ふむ」
イジャスラフは両手を後ろで組んで、何か考えながら部屋の中を歩いた。
そして、
「馬車と一部隊を用意せよ。朝食を取ったらすぐに出る」
「お出かけになられると? どちらへ?」
「ルード・シェン山だ」
ナターシアの顔に驚きの色が広がった。
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