第48話 元仮面夫婦の距離

 その夜、リューシスはなかなか寝付くことができなかった。


 ランファンに到着したばかりで行軍の疲労はあるし、それ故に祭であまり飲まなかったとは言え、酔いが回るぐらいに酒は飲んでいる。

 しかし、自分の寝室のベッドに入っても眠りは訪れず、燭の小さな火にぼうっと浮かぶ、天井を見つめていた。


 ――どこかから見張られている。


 そういう気を感じていた為であった。


 自分の寝室である。しかし、どこかから、何者かが自分の動向を窺っているような気を感じていた。それは、ファーラオ豊饒祭の最中からずっと感じていたことでもある。

 その為、ベッドの中の自分の身体の脇には長剣ロンカーザを置いていたし、扉の外にはバーレン、ネイマン、イェダー、ヴァレリーが交代で見張りをしていた。


 ――しかし不思議なことに殺気は感じない……だが、何者かが、何かを企んでいる。



 城の敷地内にある兵営には、元々ランファンに駐屯している兵士らが詰めている為、同行して来た八百人の兵士ら、親衛隊の者らは、城外に簡易な野営地を作り、そこに寝泊まりしている。


 ランファン城は政庁と防衛施設、それと居館に分かれており、リューシスの寝室や居室がある居館は、三階建ての建物である。

 リューシスの部屋は全て三階にあり、バーレンやネイマンらは、二階の客室を使っていた。




 その頃、その二階の一室にいるエレーナも、ベッドの上で眠れぬ時間を過ごしていた。


 目を閉じていると、ホウロー山で仲間たちと過ごした日々、かつてリューシスの宮殿内で過ごした日々、クージン城外での戦の光景などが、時系列に関係なく次々と浮かんで来る。

 そして、不意に、クージン城外の戦で、ジューハイの森でガルシャワ騎兵隊を撃破した後、思わずリューシスに抱きついて喜んだ時のことが思い出された。


 仮の夫婦でいた時代、当然、リューシスとエレーナは肌を触れ合せたことはない。

 結婚式の時に、誓いのキスはしたし、手を繋いだこともある。

 しかし、その一度きりだし、当時はフェイリン滅亡と言う悲劇の後だったのであまり記憶もない。


 あのジューハイの森で抱きついた時が、二人が初めて最もお互いに触れ合った時であった。

 

 エレーナは目を開けた。

 あの時は胸甲の上からではあるが、リューシスの身体の感触、体温が思い出されていた。

 何故だか、急に心臓の鼓動が速くなった。


 だが次の瞬間、エレーナの目がはっと大きくなった。


 故国フェイリン滅亡、首都レアンドール陥落の時の情景が浮かんだのである。

 そして、レアンドール城の大広間で、自分の兄弟たち、重臣たちが次々と首を刎ねられて行った時のこと……。


 エレーナの顔に冷たい汗が噴いた。半身を起こすと、ベッドから下りた。

 窓に歩き、星々が瞬く夜空を見上げた。


 その後、憂鬱そうな顔となったエレーナは、自身の荷物の中から、懐剣を取り出し、椅子に座った。

 窓から注ぎ込む月光の淡い光の中で、懐剣をじっと見つめた。

 どれぐらいの時を、そうしていただろう。

 やがて、何か思いつめたような表情となったエレーナは、懐剣を懐にしまって、靴を履いて部屋を出た。


 物音を立てぬよう、静かな足取りで、三階に上がった。

 ゆっくりと、リューシスの寝室に向かって行った。

 だが、その寝室の扉の前に、人影が立っているのを見て、はっとして足を止めた。

 人影はゆっくり動いて、エレーナに話しかけた。


「これはエレーナ様。如何されました?」


 それは、見張りの番についていたバーレンであった。

 エレーナは慌てて笑顔を取り繕って、


「う、うん。なんかちょっと眠れなくて……歩いていたの。バーレンどのは何をしているの?」

「殿下の部屋の護衛ですよ。何者かに見張られている気がする、と言われるので」

「そうなの……リューシスは寝てるの?」

「いや、時々物音がするので、まだ眠ってはいないようですね」

「そう」

「疲れすぎていると、眠れないことはよくあります。エレーナ様も、外の空気でも吸って来たら如何でしょうか?」


 バーレンは微笑んで言った。


「そうね」

「良ければ、ネイマンに護衛させましょう」

「それはいいわ。悪いし……自分一人の方が落ち着くから」

「ではお気をつけて」

「うん」


 エレーナは、そのまま三階から下りた。

 そして、言った通り、自分の部屋には戻らず、気晴らしに居館を出た。


 居館を出ると、中庭があり、それを隔てた向こうに、武具倉庫が一つある。

 真夜中である。だが、何故かその武具倉庫の窓から薄明りが漏れていた。


 ――何でこんな時間に?


 エレーナは不審に思った。

 と、黒い人影が、辺りを警戒するようにきょろきょろしながら、その武具倉庫に歩いて行くのが見えた。

 ちょうど、エレーナは居館の入り口の樹の下にいる。咄嗟に樹の陰に隠れた。

 向うの人影は、エレーナには全く気付かず、そのまま武具倉庫に入った。


 悪い予感を感じ取ったエレーナは、時折天法術ティエンファーでそよ風を起こして自分の足音を誤魔化しながら、武具倉庫に向かった。

 そして、薄明りの漏れる窓の下に身を屈めた。


 すると、中から二人の人間の会話が聞こえてくる。


 一人は、聞いたことのない若い男の声である。穏やかで冷静そうな話し方である。

 しかし、もう一人の声は聞き覚えがある。


「心配はご無用。殿下はまだ警戒しているようであるが、何と言っても自身の国と言う意識がある。三日もすれば慣れて自然と警戒心も薄れて来るでしょう」


 と言ったその声の主は、城主代理のジョサン・ウェンであった。


「その時には、必ずや殿下の首を取れよう。安心していただきたい」


 続けて言ったジョサンの言葉を聞いたエレーナは、思わず声を出しそうになるのを手で押さえた。

 もう一人の、若い男の声が続けて聞こえる。


「だが、あの殿下のことです。くれぐれもお気をつけを」

「万に一つも抜かりはない。安心していただきたい」

「頼みますぞ。見事リューシス殿下の首を挙げられた暁には、丞相はジョサンどのに正式にランファンの城主を任せると言われている」

「うむ、うむ。お任せあれ」


 ジョサンは、上機嫌な口調で答えた。


「で、策は?」


 もう一人の男が訊き、ジョサンがそれに何か答えたが、自然と警戒したのか、その言葉は小声となり、エレーナにも聞き取れなかった。


 エレーナは、緊張した顔でその場をそっと離れた。

 そして、元の居館に戻ると、リューシスの寝室に走った。


「エレーナ様、またどうされました?」


 まだバーレンがいた。


「リューシスまだ起きてる? 通して。大変なのよ」


 そのエレーナの様子にただ事ではないことを感じ取ったバーレンは、中のリューシスに訊いてから、扉を開けてエレーナを通した。


 ベッドの上に半身を起こしたリューシスは、薄闇の中でエレーナを見て笑った。


「どうしたエレーナ。ついに俺の命を狙いに来たか? それとも俺に抱かれたくなったか?」

「何を馬鹿なこと言っているのよ。それどころじゃないのよ」


 と言うエレーナに、リューシスは顔色を変えて人差し指を口の前で立て「しっ」と、言った後、そのまま無言で自分のところに来るように手招きした。

 エレーナは言われる通りに黙ったままリューシスに近付いた。

 すると、リューシスはいきなりエレーナを抱き寄せた。


 思わず叫び声を上げそうになるエレーナの口を手で塞ぎ、リューシスは小声でエレーナに囁いた。


「どこにいるかはわからないが、見張られている。恐らく天法士ティエンファードだろう」

「え……」

「今からちょっとした芝居をする。それに合わせてくれ。いいな?」


 リューシスは言うと、エレーナが答える前に、エレーナをベッドの上に倒した。


「四年ぶりだからな。俺はもう我慢できないよ。エレーナもそうだろう?」

「え、ええ……その……」


 突然、ベッドの上でリューシスとこんな近い距離となり、エレーナの顔は真っ赤になり、心臓は爆発しそうになった。

 リューシスは、優しい声を出して、


「いいね?」


 と言ってエレーナの服の襟元に手をかけたが、その瞬間、恐ろしいほどに真面目な顔に一変し、エレーナの耳元に小声で訊いた。


「何があった?」

「う、うん」


 エレーナは、小さく吐息をついて自身を落ち着かせると、先程武具倉庫のところで聞いた会話を、小声で話した。

 リューシスはそれを聞くと、


「やっぱりマクシムの手が回っていたか。エレーナ、よくやってくれた」


 と、頷いてエレーナの髪を撫でた。

 その後、リューシスは、わざとらしい恋人同士のような言葉をエレーナと交わした後で、


「ごめん、エレーナ。俺は今日はちょっと疲れすぎた上に飲み過ぎたみたいだ。また明日にしよう」


 と言って、エレーナをベッドから下ろした。


「うん、そうね。私も疲れてて何だか気分が乗らないわ」


 エレーナも、硬いながらもようやく合わせられるようになった。

 ぎこちなくそう言うと、静かにベッドから離れた。

 扉を開けて出て行く前に、リューシスの方を振り向いた。リューシスはエレーナの顔を見て、無言で頷いた。

 

 リューシスの寝室を出たエレーナは、再び動悸が速まるのを感じた。

 全身が緊張して、足元がふわふわする感じがした。それが、リューシスとベッドの上で触れ合ったからなのか、ジョサンの密謀を知った為なのか、彼女にはよく判別できぬまま、自室へと戻った。


 そして、寝室に一人残ったリューシス。


「ああ、飲み過ぎたかな。水でも飲むか」


 と、わざとらしく背伸びをして言った後、窓辺に向かって、


「シャオミン、どこにいる? ちょっと水を持って来て欲しいんだけどな」


 と、外の夜闇に向かって神猫シンマーオンを呼んだ。

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