リューシスの逆襲
第45話 皇宮の毒の花園
時を少し遡ること、クージン城外の戦いより三日前のことである。
ローヤン帝国の首都アンラードでは――
その時、宰相マクシムは一人で机に向かって雑務を処理していたが、その顔はいかにも不機嫌そうであった。
ダルコの訪いに、顔も上げずにそっけなく答えた。
「どうした?」
ダルコは少し苦笑いしながら、答えた。
「申し上げます。リューシス殿下らしき人間を見たと言う報告が届きました」
すると、マクシムは途端に態度を一変させ、羽根ペンを置いて顔を上げた。この大陸の筆記具には筆と羽根ペンがあるが、マクシムは羽根ペンを愛用している。
「何? どこだ?」
「クージン城近辺でそれらしき人物を見たと、複数からの報告です」
「クージンだと? ベン・ハーベンの馬鹿が無血開城したあそこか」
マクシムは、語気に思わず怒りをにじませていた。
「はい。どういうわけか、殿下はそこに滞在しているようです」
「ちょうど午後、クージンの問題をどうするか、陛下の御前で軍議を開く予定になっているが……まさかリューシス殿下がそのクージンにいるとは」
「私も驚きました」
「散り散りになって逃げた殿下たちは、てっきりランファンを目指すものと予想していたが、何故クージンなどに……」
マクシムは顎に手を当ててぶつぶつと考え込んだ。
「時々、予想もつかぬことをなさるお方です」
「まあな。だから私もあのお方を恐れるのだ」
マクシムが言うと、ダルコは両手を胸の前で組んだ。
「丞相、私に
「待て。午後、ちょうどクージン奪還の軍議だぞ」
「しかし、殿下が今はガルシャワ支配下のクージンにいるとなれば、きっと兵や護衛はほとんど連れておらぬでしょう。捕らえる絶好の機会です。この機を逃してはなりませぬ」
「だが、お前が騎兵を連れて向かえば、ガルシャワ軍が攻撃してくるだろう」
「それ故、軽装騎兵の二千人のみです。迅速かつ極秘に動きます。クージンのその周辺の偵察を目的に行き、機を見てリューシス殿下を捕らえます」
「待て待て、そう逸るな……」
マクシムはダルコの気勢をなだめると、
「クージンにいるガルシャワ軍を率いているのは、シーザー・ラヴァンだと言う。偵察とリューシス殿下の捕縛のみを目的とは言え、たった二千の軽装騎兵では危険だろう」
「しかし……」
マクシムは、指を机の上に突いて考え込むと、
「元々私の考えでは、メイロン城主の
「では、その指揮は是非私に」
ダルコは目をぎらつかせて詰め寄った。
マクシムはふっと笑い、
「午後の軍議で陛下の承諾を得なければならんが……まあ、いいだろう、私が推そう」
「ありがとうございます」
「しかしお前……」
マクシムは、両肘を机の上につき、顎の前で両手を組むと、ダルコの顔をじっと見つめながら言った。
「何故そこまでリューシス殿下を嫌う? まあ、私も好きではないが、と言うより私は恐れているのだが……お前のリューシス殿下への嫌悪は少し常軌を逸しているように見えるぞ?」
ダルコは皮肉そうに笑い、即座に言った。
「
ダルコは、ローヤンの最大部族カザンキナ部の中でも、カザンキナの姓を持つ最高貴族の出自故か、ローヤン人至上主義者とも言える思想を持ち、ハンウェイ人を密かに見下していた。それ故、日常会話の中でも時折ローヤン語を使う。
「私は、ローヤンの
「そうか……まあ、お前はカザンキナ族の人間だからな……」
「ええ、そういうことです。では、失礼します」
ダルコはそう言うと、背を返してマクシムの執務室を出て行った。
その背を、マクシムは冷静な目で見送った後、意味深に薄笑いを浮かべて呟いた。
「ふっ……薄々感付いているぞ」
そして午後、
そして、ダルコの希望通り、その軍を率いて行く総大将はダルコと決まった。
この日、イジャスラフはやはり体調が優れぬ為、軍議は
軍議が終わり、総大将を任じられたダルコは、会議室を出ると足早に回廊を歩いて行った。
すると、その背を呼び止めた美しい響きの声があった。
「ダルコ」
ダルコは足を止めて振り返り、その声の主を認めると、すぐに跪いた。
そこには、二人の侍女を従えた、もう四十も半ばになると言うのに若々しく美しい貴婦人がいた。
「どうしたのです、そのように急いで。御前会議で何か決まったのですか?」
ナターシアは機嫌よく、たおやかな笑みを見せた。
「はっ。ガルシャワに奪われたクージン城、その奪還の為の軍が派遣されることが決定しました。そして、私がその総大将に任じられましたので」
ダルコが顔を伏せたまま言うと、ナターシアは驚いて見せた。
「まあ、随分と早いこと」
「ええ。実は、クージンにはリューシス殿下が潜伏していると言う情報も上がって来ております。今回の戦は、リューシス殿下を捕らえる目的もあるのです」
すると、ナターシアは顔をひきつらせた。
「リューシスが……」
「ええ。ですが、
「そうですか。頼みましたよ。しかし、
ナターシアが言うと、ダルコは顔を上げてナターシアの顔を見た。
「ありがたきお言葉。ローヤンの為に必ずクージンを奪還し、
ダルコの言葉が、やや過激さを帯びた。リューシスから敬称が消え、逆賊と言う言葉さえついた。ナターシアは少々複雑そうな顔になったが、すぐに美しい微笑を戻し、ダルコを激励した。
「
「はっ。では、急ぎますのでこれで」
ダルコは立ち上がり、ナターシアの顔をじっと見つめると、一礼して背を返した。
「お待ちなさい」
ナターシアが、再びその背を呼び止めた。
ダルコが振り返ると、
「ダルコ、あなたは何歳になりました?」
「恥ずかしながら、無駄に歳ばかり重ねております。今年三十五になりました」
「三十五……貴方はまだ、妻を娶る気はないのですか?」
ダルコは、ふっと微笑んだ。
「ご存知でございましょう。私は女性には興味がないのです」
「しかし、あなたはカザンキナ部の中でも最も尊いカザンキナの姓を受け継ぐ貴族です。戦場でいつ何があるとも限りません。できれば妻を持ち、カザンキナの血を受け継ぐ子を成す方がよいと思いますが」
「興味を持てぬものは仕方ありますまい」
「しかし……では屋敷の中でも不便ではありませぬか?」
「いえ、身の回りの世話をさせる者は何人もおりますので」
ダルコは笑った。彼の言うその者たちは皆、十代の美少年たちである。
ダルコは、美しい金髪と深い色の碧眼の持ち主で、シーザーとまではいかぬが、顔立ちも整っている美男であった。ローヤンの一般女性からの人気も高い。
だが、彼は女性に興味が無い男色家と公言しており、事実、屋敷には女性がおらず、何人もの美童が働いていた。
「では、失礼いたします」
ダルコは再び一礼すると、靴音を響かせて歩き去って行った。
ナターシアは、憂いの混じった複雑そうな瞳でその背を見送った。
その頃、皇宮内の一画にある射場では、バルタザールが弓矢の稽古をしていた。
バルタザールは、どちらかと言えば武芸は不得手である。
リューシスにしても、武芸はそれほど得意なわけではないが、リューシスは武芸自体は嫌いではなく、時間がある時には定期的に稽古をしていた。
だが、バルタザールは武芸そのものがあまり好きではなかった。穏やかで優しい彼は、剣や槍を取って敵と戦うと言うことが、性格的に向かないのであった。
しかし、弓矢だけは別であった。弓術には面白さを感じており、時間があれば積極的に稽古をしていた。
また、生来の天稟にも恵まれていた。かなり遠くの的でも、正確に中心を射抜くことができた。また、細身の身体であるにも関わらず、その矢には速度と威力が備わっていた。
その技術の高さには
だが、この日、バルタザールは、いつもならば外すことのないであろう距離の的を、三回連続して外していた。
バルタザールは大きく溜息を吐くと、愛用の合成弓を下ろした。
背後に控えていた一人の部下が、そっと言った。
「ご調子が悪いようですな」
「うん、何だろうね……今日はもうやめようと思う」
バルタザールは浮かない顔で
「悪いんだけど、これを持って帰っておいてくれないか? 私はこのまま少し散歩してから帰るよ」
「はっ」
部下は合成弓と
バルタザールは逆の方向へ歩く。
広い中庭に向かった。
中庭には花園がある。黄色や赤、紫など、色とりどりの花に彩られ、その間を蝶がひらひらと舞っていた。
長椅子が置いてある場所があり、バルタザールはそこに腰かけて、花を眺めていた。
ふと、ある想念が心をよぎった。
――あの日の夜、兄上はこの庭を走って逃げたと言う。
バルタザールの顔が暗くなった。彼は両手で拳を組むと、皺を寄せた額に当てて、目を閉じた。
リューシス追放は、母である
あの日、バルタザールはナターシアの前でそれに気付いて震えたが、突然のことで気が動転していたのもあり、リューシスに恐ろしさを感じて思わずその陰謀に加担してしまった。
結果として、リューシスにはアンラードから逃亡されてしまったが、今でも
あの日、母ナターシアがバルタザールに囁いた言葉が、耳の奥に響いた。
「あなたの言うように、リューシスが再び
「…………」
「私は以前、リューシスが自分の宮殿に仲間たちを呼んで酒宴をしていた時、酔ったリューシスが『自分が帝位についたらまずバルタを殺し、ナターシアを殺す。それが俺の母への仇討ちだ』と言ったのを聞いたことがあります」
バルタザールは目を開けた。瞳に虚ろな色が浮いていた。
ふと、地面がぐらりと揺れた気がして、バルタザールは周囲を見回した。
しかし、大地も草花も揺れていない。地震かと思ったが気のせいのようである。
バルタザールは、両手で組んだ拳を額に当てたまま、呟いた。
「……もうこのまま行くしかないんだ」
そこへ、背後から綺麗な声がかかった。
「何を行くしかないの?」
同時に、バルタザールの両肩に、柔らかい手が置かれた。
暗い色に満ちていたバルタザールの顔が、ゆっくりと明るさを取り戻して行った。
振り返り、背後の美少女に笑顔を見せた。
「カティア、来てたの?」
カティアと言う名の少女は、にっこりと花のような微笑を見せると、「ええ」と、バルタザールの隣に座った。
「どうしても読みたい本があってさ。お父様に許しをもらって、皇宮の書庫に行くところなのよ」
この、カティアの父と言うのは、宰相マクシム・ワルーエフである。カティアはマクシムの次女で、今年バルタザールと同じ十七歳である。
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