第4話 ハンウェイ人

 リューシスがユエフー楼に入ると、すでに飲んでいた客たちが歓声を上げて迎え入れた。


「殿下が来たぜ」

「殿下、今夜もありがとうございます」


 喜びと謝意を口にして杯を掲げるその客たちは、皆リューシスの親衛隊の兵士らであった。


 リューシスは、一つ戦が終ってアンラードに帰って来ると、慰労の為に必ずこうして親衛隊の者らを大き目の店に集め、貸し切りの宴会を開く。しかも、費用は全てリューシスが出している。


 親衛隊は総数約三百人もおり、毎回宴会を開いても、負傷している者や妻子を持っている者、その他諸々の事情があってその全員が来られるわけではない。毎回来るのはおよそ半数強ほどである。だが、来られなかった者たちにも、リューシスは後日になって必ず葡萄酒プータージュ馬乳酒マールージュなどを届けさせた。


 それだけではない。リューシス直属の親衛隊以外にも、従軍した兵士らには全て、自腹を切って果物や菓子など、ささやかではあるが何かしらの差し入れをしていた。


「殿下、ご無事でようございました」

「我々は皆、心配しておりましたぞ」


 皆、すでに赤くなり始めている顔に安堵の表情を浮かべていた。

 リューシスは先にシャオミンを遣わし、皆に謀反の容疑が晴れたことを伝えさせていた。


「リューシス、こっちだ」


 一階の中央の大きな丸いテーブルで、ネイマンが立ち上がって手を振った。

 そのテーブルには、バーレンとネイマン、その他彼らが不良少年集団であった時の仲間たち数人がついていた。

 だが、親衛隊隊長であるイェダー・ロウの姿が無い。

 どうした? と聞くと、バーレンが答えた。


「最初はいたんですが、二杯ほど麦酒ピージュを飲んだら、『ちょっとすまん』などと言って帰ってしまいました」

「嫁さんと赤子に会いたいんだろう」


 ネイマンが豪放に笑った。


「酒も程々にすぐに帰るなんて、あいつもすっかり親父だな」


 リューシスは笑いながら、彼の為に開けられていた席に座った。

 それを見ると、店の少女が陶器の杯を持って来た。中には微発砲の褐色の麦酒ピージュがなみなみと注がれている。


 テーブルの上には、細切りにした干し豆腐ガンドーフ、豚肉の塊を酒と醤油と砂糖で煮込んだもの、ニラとひき肉の饅頭、空芯菜コンシンツァイの唐辛子炒め、牡蠣の卵焼き、羊の干し肉、子羊の肉と根菜のシチュー、などなど、庶民的なハンウェイ料理を中心に、伝統的なローヤン料理が少し並ぶと言ったメニューであった。


「今日はハンウェイ料理が多いな。最近流行っているって言う南方渡来の橄欖オリーブ料理とか食べたかったんだけどな」


 テーブルの上を見回してリューシスが言った。


「ここはハンウェイ料理が中心の店だからな」


 ネイマンが答える。


 ハンウェイ――それはかつてこの大陸を統治していた民族の名前である。


 遥かな昔、この大陸は、ハンウェイ人と言う民族が高度な文明と共に統一王朝を築いて絶対的支配をしていた。

 今のローヤン帝国領も、西の隣国ガルシャワ帝国領も、南方のザンドゥーア王国領も皆、ハンウェイ人の統治するところだったのである。


 しかし、今からおよそ五百五十年前、最後のハンウェイ人王朝が政治の腐敗によって滅亡すると、ローヤンやガルシャワ、南のザンドゥーアなど、東西南北の周辺諸民族が大挙して侵入、また、元々大陸にいた非ハンウェイ人の少数民族たちも立ち上がり、各地にそれぞれの国を興した。

 たちまちこの大陸は言語も人種も違う様々な民族が入り乱れて戦う、大分裂時代となったのである。


 それから今に至るまでの約五百五十年間、非常に戦闘が強いことで有名であったトゥオーバー族のビルシャ帝国が一時的に大陸統一を果たしたことがあるが、それも短期間で滅んでおり、実質的に安定した統一王朝が築かれたことはない。

 その間、ハンウェイ人たちももちろん、自分達の支配を取り戻そうとしていたのだが、それは果たせなかったどころか、国を興してもすぐに滅んでしまうことが続き、ローヤンやガルシャワなどの異民族に支配される側であり続けた。


 しかしそれでも、元々この大陸に長らく君臨していた民族であるので、人口で言えばその総数は他の民族を圧倒しており、この大陸の総人口のうち、約半数以上がハンウェイ人である。

 ハンウェイ人が比較的多い南方の国では、支配する側の民族とハンウェイ人の比率が一対九と言う極端な構成もある。

 その為、侵入して来た各国家は、自分達が支配する方のハンウェイ人の言語を使用した。支配する側が、支配される側の言語を使用すると言う不思議な現象が起きたのである。


 それにはいくつか理由がある。


 まず、大乱世にのんびりとしたことはしていられないので、少数である自分達の言語をハンウェイ人たちに強いるより、大多数を占めるハンウェイ人の言語を使用する方が支配に手っ取り早く、便利だったこと。

 また、他の国も同じような状況であったので、外交交渉などに自然とハンウェイ語を使うようになったこと。そして、ハンウェイ人たちの高度で優れた文化の習得に、どうしてもハンウェイ語が必要であったこと、などが挙げられる。


 こうして、この大陸は様々な民族の国家が割拠し、治乱興亡の歴史を繰り広げて来たが、常に人種構成では被支配者のハンウェイ人が大多数であり、ハンウェイ語が共通語として話されるようになった。


 以上が、この大陸の簡単な歴史と、人種と言語についてである。


「まあ、俺はハンウェイ料理が好きだからいいけどさ」


 リューシスは言いながら、ニラとひき肉の饅頭を手に取った。


「お前はローヤンの皇族なのに変わってるな」


 ネイマンが呆れたように笑った。


「食の好みに人種なんて関係ないだろう」


 ローヤンの皇子であるリューシスはもちろんローヤン人で、宰相のマクシムも生粋のローヤン人である。

 対して、バーレン、ネイマン、イェダーは遠い先祖に多少の混血はあるものの、血統としてはハンウェイ人であり、リューシスの親衛隊もそのほとんどがハンウェイ人であった。ちなみに七龍将チーロンジャンは一人を除いて皆、純粋ローヤン人であるのだが、その唯一の例外がリューシスの武芸の師匠でもあるビーウェン・ワンであった。彼はハンウェイ人である。


「殿下、まずはお言葉を」


 饅頭を食べようとするリューシスに、バーレンが言った。


「おっと、そうだな」


 リューシスは苦笑しながら立ち上がった。

 ネイマンが、店中に響き渡る雷のような大声を上げた。


「皆、静かにしてくれ」


 すると、一階も二階も喧噪が静まった。二階から慌ただしく音がし、何十人もが階段を下りて来た。


「楽しく飲んでいるところ邪魔したくないので手短かに行くぞ。皆、まずは今回の戦、ご苦労だった。いつものことではあるが、残念ながらこのアンラードに帰りつくことができなかった者が何人かいる。今回の勝利は、彼らのおかげでもある。今こうして楽しく飲めるのは、彼らのおかげでもあることと思って欲しい」


 店中がしんと静まり返った。犠牲者に友人がいたのだろうか、すすり泣く者がいた。


「しかし、湿っぽい顔で飲んでたら、天へ還って行った彼らも悲しむだろう。だから今夜は、彼らに感謝しながら、楽しく痛快に飲むぞ。そして次の戦に全力で勝つ。それが彼らへの弔いとなる。わかったか」


 リューシスが言うと、全員が「おう」と大声で答えた。約百七十人の力強い返事は、店の周囲に響き渡り、通りがかった人たちを驚かせた。


「では乾杯!」


 宴会が正式に始まった。

 彼らの宴会は大抵、店を何度も変えながら朝まで続く。リューシスらの宴会はアンラードでも有名であった。




 それから五日後、アンラードの皇宮内、離れのリューシスの宮殿――


 とても広い十メイリ(メートル)四方ほどの石造りの浴場内に、猫の悲痛な泣き声がこだましていた。


「いやだいやだ、お風呂はいやだ!」


 神猫シンマーオンのシャオミンが、湯気の立ち込める中を逃げ回っていた。


「駄目だ! お前はさっき泥水の中に落ちたんだぞ!」


 それを追いかけるのは半裸のリューシス。

 しばらく浴場内で追いかけっこが続いたが、業を煮やしたリューシスが、


「仕方ない」


 両手を左右に伸ばし、天精ティエンジンと言われる、一種の"気"を込めた。

 両手の周囲に沢山の光の粒がパチパチと音を立てながら浮かんだかと思うと、開いた手の平の上に集まって直径十セーツ(センチメートル)ほどの雷気を纏った光の塊になった。

 そしてリューシスは気合いと共に両手を振った。

 二つの光の塊が、うねるような乱軌道を描いてシャオミンに向かって飛んだ。


「ええっ?」


 迫り来る二つの雷光。

 シャオミンは仰天してそれを避けた。

 だが、逃げたその先に、リューシスの手が待ち構えていた。


光砲グアンパオは囮だ」


 リューシスはにやりとして、シャオミンを両手で掴まえた。


「放せ。僕はマーオンだぞ。猫は水に濡れるのが苦手なの知ってるだろ!」

「うるせえ、こんな時だけ猫と言いやがって。てめえは神猫シンマーオンじゃなかったのか?」


 リューシスは無理矢理シャオミンを浴槽に突っ込んだ。

 再び、シャオミンの悲痛な鳴き声が宮殿中に響き渡った。


 それよりおよそ三十分の後。


 全身の水を拭き取られ、丁寧に毛を乾かされたシャオミンは、まるで何事もなかったかのように居間の絨毯の上でくつろぎ、大皿の上に積まれた梨を皮ごと食べていた。


 ついでに湯浴みをしたリューシスも身体を拭いて浴衣を着ると、絨毯の上の虎皮の敷物の上に座った。

 そこへ、侍女のワンティンが盆に載せて麦酒を持って来た。


「どうぞ」

「ありがとう。お、よく冷えてるな、どうしたんだ?」

「地下室で水につけて冷やしたんですよ」


 ワンティンは得意気に言った。ワンティンはまだ十四歳、稚気の残る黒髪のハンウェイ人の少女である。


「へえ、そうか、ご苦労さん」


 リューシスは、一口目をごくりと美味そうに飲んだ。

 しかし、その後で盆の上を見てみれば、杯の他に何もない。


「ワンティン、何かこう……つまみはないか? 羊の火腿ハムとかチーズとか」


 リューシスが言うと、ワンティンは先程の得意気な顔とは対照的に、童顔に冷やかな表情を浮かべて主君を睨んだ。


「ありません」


 少女ながら圧迫して来るようなその眼光に、リューシスは少したじろいだ。


「ありませんって……何で?」


 するとワンティンは声を荒げた。


「あるわけないじゃないですか! この前も宴会で派手にお金使って、その上、他の兵士さんたちにも差し入れして……今月はもう三回目ですよ。うちの金庫はもう空っぽです!」

「あ、そうか……すまん……」


 リューシスは気まずそうに小さくなった。


「お酒があるだけマシだと思ってください。今月の残りは、お食事の量も減りますからね! 当然外へ飲みにも行けないですからね! もう……少しは考えてお金を使ってください」


 リューシスは長所も多ければ短所も多い人間であるが、その短所の一つに、金銭感覚が無いと言うことがある。浪費癖があるわけでも買い物依存と言うわけでもないのだが、お金があればあるだけどんどんと使ってしまうのだ。


 その為に、以前は合計十人いた侍女や使用人たちの給与が段々と出せなくなり、仕方なく次々と解雇して行った。

 最後にワンティンだけが残ったのは、彼女が年齢の割りに賢い上に真面目でよく働くことに加え、最年少であるが故に給与が安く済むからであった。


「そうか……それは困ったなあ」


 リューシスはまだ濡れている頭を掻いたが、突然はっとした顔となり、


「あ、そうだ。俺、この前確かお前の給与を出したばかりだよな? 悪いんだがそれで……」


 ワンティンの表情が見る見る変わり、怒気強く大声を上げた。


「呆れた、最低! どこの国に侍女に出した給与を使う主君がいるんですか! それに、私が故郷の両親に仕送りしているのを知ってるでしょう? 絶対に出せません!」


 そこで、リューシスも自らの発言の酷さに気付いた。慌てて謝った。


「すまん、つい……今の発言は許してくれ」

「殿下、酷過ぎるよ」


 シャオミンも白い眼でリューシスを見上げた。


「つい口が滑ったんだよ」


 リューシスは必死に弁解するが、ワンティンは怒ったまま居間を出て行ってしまった。


 しかしその後、リューシスは図々しくも二杯目の麦酒をおかわりした。

 飲み終えて傍らの卓の上に杯を置いた時、改めてシャオミンが美味そうにかじっている梨に気付いた。


「おい、そう言えばその梨はどうした? 俺の梨嫌いは知っているだろうに」


 すると、すでに怒りをおさめつつあり、部屋から部屋へと歩き回りながら雑事をしていたワンティンが答えた。


「今朝、殿下が狩りに行った後に、皇后エンホウ陛下の侍女のシンイーさんが持って来てくれたんです。皇后陛下からの言伝と共に」

継母上ははうえが? 何だ?」

「"ドーファン産の美味しい梨が手に入りましたから、お見舞いにお父上に差し上げて、色々とお話しをしたらどうでしょう? 疑いが晴れたとは言え、まだお互いに気まずいでしょうから"って」


 リューシスは梨が嫌いだが、イジャスラフにとっては好物であった。


「そうか……継母上はいつも変わらずお優しい。ありがたい」


 リューシスは思わず胸が熱くなった。

 ナターシアは、実子であるバルタザールを溺愛しているが、バルタザール誕生後も、皇太子交代の後も、リューシスに対して実の子のように接して来ていた。

 そのおかげで、複雑で微妙な状況が続いていたにも関わらず、リューシスはずっと異母弟バルタザールと仲が良いのである。


「よし、折角の継母上の計らいだ」


 リューシスは梨の大皿を持って立ち上がった。


「あ、何するの?」


 シャオミンが驚いて見上げる。


「父上に差し上げて来る。容疑は晴れたが、これまでのいきさつから何となく気まずいしな。最近はまた具合が良くないようだし、見舞いがてら色々な話をしてくるよ」


 リューシスは大皿から梨を一個掴んでシャオミンの前に投げると、着替えて部屋を出て行った。


 しかしこれが、リューシスが自分の宮殿でくつろげた最後の時間となった。

 この後、彼が自分の宮殿に戻ることはなかったのである。

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