第四節
「はぁ!?」
コクトの声は、突拍子もなく裏返っていた。
それは、とある日の昼頃の話だった。
事務所内にある事務所長室。
その個室で、コクトはデスクの反対側に立つガイド長に向かって声を上げていた。
「だから、もう一度言うわよ?」
「いや、言わなくても言いたい事は理解してるつもりだよ」
「あら、そうだったの」
「……ったく」
コクトは頭を抱えていた。
そう、問題は彼女が彼に語ったある一言が原因であったのだ。
「いきなりすぎないか?」
「良いじゃない。別に減るもんじゃないし」
「いや、それにしても未だ浅すぎる。もう少し念入りにと言うかだな……」
「それこそ素の力が高い訳だし、構わないでしょ?」
「あ~……」
目に見えてコクトは悩ませるようにして椅子にもたれ掛かる。
彼が此処まで動揺するのは早々多くは無いが、今回に限っては予想外……いや、予想していたよりも早い要件だったのだ。
それは……。
「だが、ミライを昇進させるとは言え、未だ一年も満たない新人には違いないんだぞ?」
そう、ミライの昇進。
それがガイド長の要求だった。
「未だ入社して二ヶ月だ。流石に早過ぎる」
「そうでも無いでしょ。彼女は遊園客にも人気だし、同じガイド達から見ても申し分ない実力よ? 彼女の友達だって言うカコちゃんだってスピード昇進だったじゃない」
「区別で言う訳じゃ無いが、接客と研究では倫理が違う。実力か経験の違いだろう」
「其処は彼女の知識でカバー出来るはずよ」
「んー……」
頭を悩ませるコクト。
彼自身彼女に対しての評価はかなり高い。それこそ直に見ただけに、その技量は本物だ。
だが、それでも彼女は入社して二ヶ月を過ぎた程度だ。どれだけ技量が高くても、昇進というのは人の上に立つ事を意味する。技量で上り詰める事は良くある話だが、人の上に立つ事になるとかなり勝手が変わってくる。
それは、コクトが一番によく知っている事でもあった。
「因みに、昇進とは言ったが、要は新人研修から正式なガイドにするつもりか?」
「いや、私が考えてるのはガイドの副長にって考えてるわ。アレほどの人材だと、私の後任を考えれば当然でしょ?」
「それは早過ぎるだろ」
「今から経験を積ませれば良いのよ」
「そうは言うが、それは社員のストレスにも直結する事だろう。重労働による社員不全は現代でも此処でも場違いな話ではない」
「あの子に限ってはそう言う考えは無いと思うけどね」
「そう、言われれば……うーん」
悩ましい。
彼女の昇進は本当に突飛な提案だ。
それもガイド副長とは事実上のガイドのナンバー2だ。ベテランガイドなら多く入るが、それを差し置いてとなると周りの目もある。
(社内に微妙な空気は持たせたくは無いのだがな……)
「あー……解った。ただ、本人の意向を尊重する物にする」
「あら、丸投げね」
「素直に言えば、確かに技量は新人の中でも突飛してる物だ。だが、昇進はリスクが無い訳では無い。君がその提案を持ってきた時点で、最早それは本人の意向に任せるしか無いのだろう」
「まあ、貴方が認めてるんだしね」
「……まあな」
譲歩と言うべきか。
その件に限っては多くは言えないコクトだった。
カコのような研究員の昇級は、実力主義の現場だからこそあり得る話だが、同僚や世間、そういった目線のある接客業では訳が違う。
完全に否定しきれない自分が居る手前、最早委ねるしか彼には無かった。
*
「えっ? 良いですよ」
「軽っ!?」
「でしょ?」
一言だった。
淡々と彼女は了承した。
それは、コクトの心配が馬鹿らしくなるほどに簡単に答えられていた。
「ち、因みに、どうして良いんだ?」
「え、だって、昇進って名誉な事じゃないですか! それに、今までよりもいっぱい触れ合えたり、いっぱい知る事が出来るんですよね? だったら、それ程楽しい事はありませんって!!」
「……、」
開いた口が塞がらないというのは、こういうことなのだろうか?
彼女の言葉にコクトは唖然とするしか出来なかった。
「あ、それではこれからツアーがあるので、失礼します」
「……、」
「うん、頑張ってね」
ただそれだけを残して、ミライは去って行く。
思考が取り残されていたコクトは、追いついた脳に頭を悩ませていた。
「解っているのか? あの子は……」
「解っていないのは貴方じゃ無いの?」
「……私?」
「社員の保身に走りすぎて、信頼出来てないのよ。もうちょっとはあの子達を信じて上げなさいよ」
「い、いや……」
「良いのよ、それくらい期待を持っても。上司に期待されるって言うのは、間違ってなければ正しい事なんだから」
「……う~ん。そう言う物なのか?」
「ええ、そうよ」
これからの事など解らない。
コクトにとっては、その一歩を大事にして欲しいと思い、慎重になりすぎてしまっているのかも知れない。そんなに弱くなっているのか、それとも思い過ごしか。それを確証に至らしめる材料は無いのだが、それでも、今彼にとってその選択が正しいかどうかは、悩ましい所だ。
「……、」
ただ、今自分が保身に走っているのかという疑問は、確かにあった。
*
「……はぁ」
その後、コクトは研究所に来ていた。
定期的な立ち入りをしては、高積みされた資料を確認する。隔離研究所とは違い、此方の資料はそこまでネガティブでは無いのが何かと救いになっていた。
「失礼しま……あ、お疲れ様です」
「ん? あぁ、カコか」
所長室には行ってきたのは、資料を持ってきたカコだった。彼女はコクトに気がつくと小さく一礼を為る。思えば、昔の堅苦しさは消えて、どことなく落ち着いているようにも見えた。
「……どうかしましたか?」
「あー……なぁ、カコ。ミライって、どんな人物だ?」
「どんな、ですか……そうですね、明るく、自分の欲望に真っ直ぐで」
「まあ、何となく解るな」
「でも、悪い子じゃ無いですよ。人当たりは良いですし、優しさは人一倍あります。行動力もやっぱり高いし、減り張りが付いているって言うんでしょうか」
そこも、解らなくは無い。
裏表が無いと言うよりは、ハッキリしている。
「それと、常に前を向いているって言うんでしょうか。安心するんです」
「安心?」
「はい、昔から動物は好きだったんですけど、行ってたのは近場の動物園ばかりだったんです。ですけど、彼女と会ってから、遠出する事も多くなりました。いっつも手を引かれて、色んな所に連れて行ってくれて、何というか、彼女に引っ張られると、真っ直ぐに目的地に付けるような、そんな感覚なんです」
「……、」
もし、ミライに秘密があるなら、きっとそれは秘めた才能という物なのかも知れない。
引っ張っていく、先導していく。前を行き、突き進む姿はまるで一軍隊のリーダーのように、道を示す。
そんな才能。
「……君は、彼女の近くにいたから気がつけたんだろうね」
「えっ、あ、えっと……ま、まぁ、あはは……」
少々照れ気味に頬を擦る。
「……はぁ、全く。人の成長というのは、どうしてこうも見えないのだろうな。全く、常に呆気に取られてしまうよ」
「あはは、そうですね」
でも、見えない事など当たり前なのだろう。
そして、その見えない才能に気がつく彼女もまた……。
(成る程、大切な原石だ。綺麗に磨かないとな)
「……所長ッ!?」
「ん?」
「いや、手、手から血がッッ!!」
指摘された場所を見ると、どうやら手の小指球をザックリと何かで切ったように血がダラダラと出ていた。
「……、紙で切ってた様だな」
「い、いや、直ぐに救急箱持ってきますね」
「ああ、頼む」
焦るカコに対して、コクトは呑気に答える。
ドタドタと去って行ったカコを余所に、コクトは手の部分を見つめる。
かなりザックリと切っており、血がダラダラと止まらなかった要で、床に血溜りが出来ていた。
「……、」
そんな手を、特に痛むような仕草も無く見つめている。
「そうか……」
吐き捨てた。
物悲しそうな眼で、彼は淡々と次の言葉も続けて吐き出していた。
「もう、痛覚が……」
その後救急セットを持ってきたカコによって応急処置と包帯を巻かれて血は止まったが、その間、彼が痛がるような仕草をする事は無かった。
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