第一六章

「雨、か」


 研究所内にて、コクトは廊下の窓の外を見て呟いていた。

 彼の言葉通り、外では曇っていた空からポツポツッと降り始め、次第に雨脚は強くなり始めた。パーク内では雨天警報がなり、営業中で有りながらも、雨脚を避けようと観光客が近くにあった屋根に逃げ込む事だろう。


 研究所は随時稼働状態なので特段行動を起こすような事は無く、雨が降っても尚研究は続いていた。


 コクトは廊下を歩き、一室に着く。

 そこは研究部の研究室で、中に入ればいつも通り研究やチームでのミーティングが行われている。

「――で、あるので、少々こういう形で」

「――それであれば、あの器材を使って」

「少なくともそれであれば――」


 討論の先を見ると、そこではカコの所属するチームの研究内容についての論議中だった。議論には熱が入り、提案と改善の連続だった。


「……、」

 其れをコクトは遠目に見る。

(変わったな)

 本当に、カコは変わった。

 多くの事を経験して、最近では言葉に張りも出て、威厳が出てきたようにも見える。


 少し眺めた後、コクトは進捗報告書の箱に溜まった書類に目を通し始める。矢張りと言うべきか、研究員達の考え方も次第に変わり始めていた。

 カコ投入後の多角化的視点により、研究の対象や研究方法が格段に変わっている。平の研究員にしておくには、勿体ない程に。


「失礼します。所長はいらっしゃいますでしょうか?」

 研究室に一人の事務員が入ってくる。スーツ姿の肩が少し濡れている。どうやら事務所から駆けつけたらしい。

 その一言で皆が、入り口の方へと向く。

 コクトが視線の方向に「ああ、此所に居るが」と返事をすれば、皆々が「いつの間に!?」と言う顔で此方側に目線を移した。

「仕事中済みません。コクトさんに来客が来ております」

「解った、今向かうよ」

 処理中の資料の途中分を箱に戻し、コクトは部屋を出る。

 傘を使って事務所へと駆け、中に入り、応接間へと向かって行くと、見知らぬ男性が待っていた。


 いや、知らぬ訳では無いが、初対面だった。


「貴方は……」

「アア、ハジメマシテ、コクトサン」

『英語で良いですよ。ウィルソン教授』

 エドワードオズリード・ウィルソン。

 ハーバード大学教授にして、世界的に有名な多生物学の研究者だった。


 生物学にも種類は有り、昆虫学や、島嶼生物学、社会生物学、保全生態学の権威でもある。因みに、嘗ての同胞に当たるCecilセシルClarkクラークは、ウィルソン教授の教え子でもある(セシルは地質学も学んでおり、もう一人の師に当たる人物もいる)。


 そんな人物がこの研究機関に何のようか?

 実は、多国籍的な生物貿易協定を結んだ際に、関心を抱き新聞等のメディアで関心を示していた。今回はその件だろうと、コクトも踏んで彼の前に座る。


『今回は何の用で? ウィルソン教授』

『何、私の教え子が此所で働いていたの知っているからね。だが、最近じゃこの場で取り仕切るはずの博士が居ないようでは無いか』

『お恥ずかしい限りです。何分、幾点か私の不慮でもございます』

『本当にそうかね? 私としては、こんな秘密の多い場所で、何事も無かったとは思えないのだがね』

 鋭い。

 そう言う職柄か、それとも一人としての見解か、目の前の男は研ぎ澄まされた言葉を発してきた。

 コクトの表情は終始真顔で、変動一つ表さない。


『何も、ありませんでしたよ。何でしたら、一見して行きましょうか? 貴方の言うような不慮など、我々は持ち合わせておりませんので』

『いやいや、疑って悪かったよ、余り怒らんでくれ。そう言う意味できたんじゃ無いんだ』

『はぁ……』


 コクトは少し警戒を解くが、ゼロでは無い。

 こう言う相手こそ、一歩間違える事は許されない。

 それとは別に、少々私情を挟めば、相手の教え子であれ同胞を莫迦にされているようで余り良い気では無かった。


『今回来た本題は、先程言った通りこの場所には博士が居ないことだ』

『そうですね。まあ、急な事ではありますが、次期に引き入れようと……』

『それも善いかも知れない。だが、それでは遅かろう。コクト君』


 何が言いたいのか。

 その点に関して、コクトは詮索を続けていた。


 無論、次発する言葉がその通りに受け取れる物か、それ以外か。


『君は若くして医師の地位に立っている。以前その報告を別の大学病院から聞いてね、その頭脳に博士という称号を付けてはみないかね?』


「……は?」


 心理学的判断。

 嘘では無い。


 企み。

 無し。


 本心。

 Yes。


 その全てを承認した上で出た言葉が、それだった。

 だが、次の瞬間、別のベクトルから考え抜いた脳が、ある一つの点にたどり着く。


『生物博士会による、情報共有ですか』

『如何にも』

『成る程、此方に博士号の所持者が亡くなった今、博士同士の連携が取れなくなっている。現状、ジャパリパークの敷いている世界共通の協定上、情報の秘匿を可能としている。結果貴方たちは最も新鮮な情報源である我々の情報網が欲しいという訳ですか』

『何も悪意ある話では無かろう。博士号とて無償で渡すような物では無い。裏口のような形では無く、正式に学位審査会に通す権利。謂わば試験を受けられるよう此方から手筈しようという事だ』


 つまり、ジャパリパークに博士号をもつ人間が居なくなった今、海外の生物学者はツテという強力な力を失いつつあった。ジャパリパークの情報は、動物とのコミュニケーションに置いて最も新鮮な情報源でもある。だが、それが無くなった今、ジャパリパークは情報を吐き出す意味が無くなり、完全的な秘匿企業となっていた。

 そこで博士者達によるグループは、此方から博士号を継承する正当な理由を設け、再びツテを結ぼうと考えたのだ。

 無論、この話には見えない裏の見解がある。何せ、その審査に不合格した場合は完全に見下され、外からの博士の在籍を圧力によって容認しなければならなくなる。


 成功しても失敗しても博士グループに損は無い。

 寧ろ名誉という意味で打撃を受けるのは此方側だからだ。


(まあ、悪い考えみたいだけど、ある意味相手側だって善者には変わりないんだよな。絶滅危惧種の保護名目がある以上、コッチの情報が消えるのは何にせよ止したいはずだ)


 どちらが悪巧みをしているという訳ではない。

 ただ、そう見せられる程に、ジャパリパークの存在価値は肥大化していたのだ。


『……条件があります』

『何だね? 悪いが、不正はできんぞ』

『余り莫迦にしないで頂きたい。我々の要求は、受験者を二名にまで枠を空けて頂きたいという事です』

『何?』

『そのままの意味です。我々ジャパリパークから、私と、後、もう一人を推薦させて頂きたい』

『それは、誰かね』


 息を飲んで、彼は聞く。

 その者は、コクトという人間が推薦するのは何者か。


『ジャパリパーク研究所の研究員にして、次期副所長。名を、カコと言います』


 カコだった。

 そもそも、カコはコクトの推薦枠で入社した際、彼女は研究者では無く医者見習いだった。研究チームには参加しているが、事実上研究所に来る前の彼女は生物学について、大学などで習った訳では無い。

 そして、彼にとってもこの機会は、彼女の副所長としての最終試験として考えていた。


 ただ、そもそも学位審査会での試験とは、学と論文の世界。大学院まで通って一つ一つ積み重ねても取ることが中々に難しい上に、簡単という言葉など欠片も無い。

 難問中の難問。


 このような審査方法は確かにあるが、それでも大学院で課程を修了した人々とは違って難易度は格段に跳ね上がる。

 独学にしても、千人万人受けたとして、一人がのし上がるのがやっとと言いたくなる程に絶望的なのだ。


『ふむ……大人数は無理だろうが、その程度なら大丈夫だろう。掛け合ってみる』

『ええ、よろしくお願い致します』

『日程は後日伝達する。場所は此方の大学になるだろう。異存は無いな』

『ええ、構いませんよ』

『そうか、それでは失礼する』


 互いの会議が終わると、ウィルソンは部屋を出て雨脚鳴る外に出て行った。

 応接間で、コクトは彼が出て行くのを見届けると、ぐはぁ~っと力が抜けたようにソファーに寄りかかる。


 そして、次に発した言葉は、ある種彼の本心だっただろう。


「面倒臭い」


 どんな世界でも、矢張り頭上の人間と話すのは面倒臭い物だ。


   *


「と、言う訳だ」

「と言う訳じゃ無いですよ! 何故説明してくれなかったんですか!!」

「まあ、元々最終試験は同じような物を用意しようと思ってたからな。それに、良い機会じゃ無いか」

「良い機会じゃ無いですよ!! どうするんです!? い、今から学び直さないと!?」

「落ち着け。お前の試験は論文だけだ」

「嫌々々!! そう言う事じゃ無いんですって!! 論文でも十分難解ですけど、そもそもの前提として英語じゃ無いですか!!」

「そこは考慮してある。君が書いた日本文の論文は私が英訳することになっている。だが、不正の無いように君の自筆の日本語版の論文も必要だ。自筆了承印さえあれば、二種国語の提出は可能だ」

「うぇぇ……そうなんですか?」

「頑張れー、カコ博士~」

「ちょ、そこ! 持ち上げないで下さい!!」

 周りから半分不真面目な声援が送られてくる。

 異例の事態にカコの口調も少し崩れている始末だ。


「とにかくだ。提出は一一月一〇日。要は約二ヶ月後。お前らしい論文を書けばそれで良い」

「適当すぎでは無いですか!? 私論文なんて経験ありませんよ!? 精々高校の小論文くらいですよ!? そもそも専攻は何ですか!?」

「動物学」

「アバウトッ!!」

「まあ、確かに動物学も詳しく別ければ一四種もあるが、言ってしまえば動物学はその統括。無論議題は『動物とは』だが、生物を限定する必要は無い。君の論文に、此処で学んできたことと、それに対しての見解を書けばそれで良い」

「ち、違う、違うんです! 圧倒的に、書き方が、あ、あれは……どう書けば……ッッッッ!?」

「わー、カコちゃんバグってる~。因みに所長、正確な生物学関連の分野って、どの程度あるんですか?」

「正確には知らないが、大体一四〇前後だったはずだ」

「ほぇぇ~……で、その内一四分野をカコちゃんが」

「数字にしないで下さい!! 凄く辛い!!!!」

 いつにも況して荒れているカコ。

 流石に急だったとは思っているが、こう言う物に待ったは無い。


「まあ、私も受けるんだ。手伝いは出来ないが、相談には乗るぞ」

「因みに、さっき所長「カコは論文だけ」って言ってましたけど、所長は筆記もあるんですか?」

「ああ、受ける科目が中々に多いから前知識の確認と論文の提出だ」

「うっへぇぇ~~。自分じゃ無くて良かったぁ」

「ホントですよね、アカツキさん。良かったら一緒に受けませんか?」

「い、いやぁぁ~~、勘弁です。そんじゃっ!」


 危機感を覚えたアカツキは逃亡した!

 まあ実際枠を空けることはもう出来ないが、それを言わずに見ておくのも面白そうだとふと思ってしまった。

(楽しそうで何より)


「まあ、確かにああは言ったが、君にとって、この場所に降り立った理由は確かに「動物好き」には他ならないのだろう。その信念も考えも、この場所では有意に使ってきた。だが、そのままでは、その場所に居ては、多くに手を伸ばせないぞ?」

「……?」

「君が今、この場所に居る。それは理解しているな? であれば、ここは動物生態研究においての最前線でもある。その場に置いて、私は最も有力な権利を持つ。汚い話、命令権だ。だがそれは、逆に言えば最も優位に立ち、その場から何かを守るも殺すも自由という事だ。そこで、君の動物好きの話だ。私とて、いつまでこの地位に入れるかも解らない。この研究機関を独占しようとする考えの輩も、世界数多に巨万と居る。そして、それがもし人の悪意で無い、不慮の事故だとしても、その対策さえも出来ない。君は最も筋が良い。発見や着眼点、直感。その君の特性をもっと生かすには、君が権利を得なくては成らない。大事な物を、無くさないようにな」

「……ッ」


 彼女の眼に、変化があった。

 それは最初に恐れだった。

 だが、それは次第に消え、次に生まれたのはその議題にたいしての挑戦心だった。


「わ、解りました! やって、みます」

「ああ、その指に持つ筆に載せるのは、君の信念で良い。解らないことがあればいつでも来給え」


「はい!」

 彼女はそう意気込むと、部屋から出て行った。

 その姿を見て、コクトは流し目で見送ると、目を瞑り、外を見た。

(悪いな、君の過去を、触発するような言葉を吐いて)


 濁った心では、あの言葉には耳を傾けない。

 純粋性のある思いを持った彼女だからこそだと、彼は知っている。


「さて」


 彼も意気込んだ。

 やるべき事を再認識し、彼もまた部屋を出た。


   *


 試験期間である二ヶ月、カコは特別休暇の名の下、論文に勤しむことになった。

 コクトも例外では無く、彼の場合はそれ以上に忙しい。


 彼も人間で、学無しで挑む程愚かでは無い。だが、彼が長々と休むのは運営としても難しい所だ。結果、コクトの出勤は午前中のみとなり、午後は論文と勉学に励むことになった。

 と言うのも、コクトが受けるのは論文と筆記試験。

 カコと違う理由は、彼が受ける試験は生物学全てなのだ。

 此れはできるという確証の下では無く、謂わばどれかでも受かると言う場当たりな選択だった。だが、この試験はジャパリパークの研究者としての面子も計られる。


 個人にとっても、謂わば今期最大の試練に他ならなかった。


「……、」

 事務所長室の机の上には、大量の参考書が重ね置かれている。その大量の本の内を取ってはパラパラッと内容を確認しては、更に次の書に手を伸ばすコクトの姿があった。

 速読と言うよりは、復習。

 その書物全ては一度読んだ事のある書物であった為に、彼は思い出す為に何度かその分を読み返しては近くに置かれたルーズリーフに何かを書き込んでいた。


 これ程の書物が、コクトの所有物という訳では無い。

 コクトは基本図書館に寄贈する本は全てを一読している。

 詰まる所、コクトの知識の根源はこの学習力にあったりもする。


(……此れ無しでは生きていけなかったのも事実だ。私は、無知だったからこそ……)

 記憶の片隅が蘇る。


 悪夢が。

 蹂躙される事の恐ろしさが、恐怖になって蘇る。

 それを振り払うように、彼は顔を横に振って再度書物を読み始めた。


   *


 カコはと言えば、自室で頭を悩ませていた。

 論文という物を書いた事が無い彼女にとっては、このジャパリパークに来て最大の試練となっているのは確かだろう。そう錯覚する程に、今の状況は彼女にとっての苦悶だった。

「んー……」

 パソコンの画面の前で、頭を深く悩ませる。

 画面には論文の書き方と検索し幾つも出されたウィンドウと、机の上には初めての論文の書き方という可愛らしい絵柄の表紙の本が数冊置いてある。


(論文……やっぱり、どう書くのか解らない。どう書けばいいんだろう?)

 どれだけの資料を読んでも、結論は良く解らないと言う解答だった。


 自筆など経験が無い。

 資料では計り知れない、根本的な何かが解らなかった。


「……聞きに行こう」

 彼女は、自分の悩ましいその部分の疑問に回答を得るべく、立ち上がり、ずぼらな自分を見て、取り敢えずと言った形で着替え始めた。

(自分のこの情けない生活感もわからないなぁ……)


   *


 コクトは午前出勤の為、午後になれば自分の社宅に戻る。

 彼は社宅を殆ど使用しない為に、月一の掃除と必要最低限の雑貨のみのガランとした部屋で、パソコンにタイピングを行っていた。

 時偶湯気が上がる珈琲に口を当て、再度タイピングが始まる。


 ピンポーンッ

 ふと、家のチャイムが鳴る。

 誰か来たのかとインターホンの内蔵カメラ越しに様子を見ると、そこにはカコが立っていた。


(……まあ、そろそろだとは思ったが、かなり苦戦してるようだな)

 画面越しに見える程のその窶れ感は、本人が一番盲目なのかも知れない。

 取り敢えず上げようと思い、コクトは玄関の扉を開けた。

「……大丈夫か?」

「無理です」

「即答かぁ……」

「うぅぅ……」

「まあ、少しは手解きできるかも知れないし、上がっていくと善いよ」

「はい」


 彼女は言われたとおりに中に入り、廊下を通って彼の自室に入り込む。中は簡素で、ベッド、テーブル、ソファー、そしてパソコン用のPCデスクとノートパソコン一式のみしか無い。

 ただ、それが気にならない程に疲れているのか、自然とテーブルの前に座り込み、バフンッと塞ぎ込んだ。

 追加用と持て成し用の珈琲をカップに注いできたコクトは、その彼女の落胆っぷりを見て苦笑しながら言い放った。

「どうやら、相当根が詰まってるらしいな。ま、期限前に来るよりは未だ善いか」

「うぅぅ……良く解りませんよ、論文何てぇ……」

「そこまで考え込む物じゃないと思うんだけどな」

「なんて言うんですかね、書き方の根本と言いますか、出だしとか、内容をどう別けるとか」

「文章構成か。確かに論文は余り触れられない界隈だからな。だが、あの手合いはある種の熱弁と同じ類いだがな」

 コクトはそう言いつつ、珈琲を彼女の前に置くと、部屋の棚から何かを探り出す。

「所長はまだ書かないんですか?」

「もう書き終わったぞ?」

「えっ!? は、早くないですか!! まだ一週間ですよ!?」

「此れでも私はお前達の研究員の上司だぞ? そうじゃなくても、そういうのは昔習ってるから手慣れてるんだよ。ま、折角だし、それを教えてやれる資料があるはずだからな、ちょっと待ってろ」

 引き出しのかから、ファイリングされた一つの資料を取り出す。

 かなり古いようで、要所要所ヨレヨレのそのファイルには、何重にも膨らんだ原稿用紙の束が保存されていた。

「ほら、此れ読んでみな」

「これは……?」

 コクトが彼女に渡したのは、一つの論文だった。

 内容は「動物とのコミュニケーションに対する見解」と題名で書かれており、下の方には著者の名前が記されている。

「蓮野、玲子?」

「お前の前任者だよ。聞いてるだろ、初代研究員の事は」

「え、じゃあ此れって」

「そ、他にもあるぞ……あー、セシルはダメか。アイツは英文だ。カイロは……初心者向けじゃ無いな。ミタニ辺りは堅実だから、この二人のは参考になるだろう」

 コクトは、そう言いながら膨らんだクリアファイルを彼女に渡す。

 中身を取り、パラパラッと読み進め、中身を確認する。


「……、」

(やっぱ、そうなるよなぁ)

 熱中。

 その資料を読み始め、彼女は黙々と読み進め始める。疲れなど何処かに吹っ飛んでしまったかのように、その大量の資料を苦無く読み始めているのだ。


(さて、読み終わるまで私は資料作成の続きをしなければ……夕食も作っておくか。何か残ってたか?)


 ……。


「ふぅ……」

 論文を何往復しただろうか。

 その内容に入浸り、気付けば等に外は夕焼け色に染まっていた。

「あっ!? 済みません長々と!!」

「構わないよ。ほら、夕食も作ったからテーブル綺麗にしておいて」

「え、あ、そんな! 悪いですし!!」

「善いんだよ。それに、ちゃんと腹ごしらえしなきゃ、それを超えるような作品は書き出せないでしょ」

「で、ですが――」

 グゥゥゥゥーー……。


「……、」

「……、」

「……うぅぅ」

「どうやら、身体は正直らしいね」

「な、何かその言い方辞めて下さい!」

「はいはい」

 大きく鳴った腹の音。

 そんなお腹を押さえつけるようにして恥じらう彼女を余所に、コクトは自身の作った手料理をテーブルの上に置いて行く。

「オムライス……ですか」

「嫌いか?」

「いえ!! ただ、ちょっと意外だなって」

「そうかもね。でも、舌に合う料理程栄養が取れやすい物は無いでしょ」

「……はい」


 テーブルには大皿に乗ったオムライスに、スプーンが置かれる。コップには水が入り、準備は整った。


 二人で両手を合わせ、静かな部屋の中でお互いにこう言った。


「「いただきます」」


 そのかけ声と共に、手に取ったスプーンでオムライスに刺し込む。すくい上げたライスと卵の重層は、卵の蕩けによって次第にライスを包み込んでいく。口に頬張れば、フワフワとした感触に味付けられたライスの仄かな酸味が口の中を通り抜ける。

「……っ!」

「美味しいだろ?」

「……なんか、女性として負けているような」

「そこはまぁ、得意料理なんだ、許してくれよ」

「でも、意外です。所長はこういう所はズボラかと」

「君は意外と毒舌な所在るよね」

「あ、いえ!! 別にそう言う意味で言った訳じゃ!!」

「でも、最初の頃は私が給仕だったんだよ」

「え、そうなんですか?」

「まー、当時は小さなコンテナの中でひっそりと研究してたからね。あの頃は研究者ばかりで食事管理なんて確かにズボラだった。でも、私がご飯を作ってみるとさ、意外と皆楽しんで食べてくれてさ。ある意味、それが料理の原動力にも成ってるのかな?」

「へぇ~」

「その中でもオムライスは結構私の中では一番の得意料理だったなぁ~……」

「昔の所長ですか。ちょっと、気になります」

「ふふっ。ま、それは又今度な?」

「むー」

「膨れない膨れない」


 語れるような物では無い。

 現に、過去の事件は口に出すのが億劫になるような物ばかりだ。

 だからこそ、後世には伝えない。


(……なあ、櫻。お前と一緒に初めて食べたオムライスは、どんな味だったかな。不器用で、フワフワして無くて、型崩れして、酷い味だった。なのに君は「美味しい」と言ってくれたよな。だから、だから此れは、俺の得意料理になったんだよ)

「所長って、本当に美味しそうに食べますよね?」

「そうか? 気にした事は無いけど」

「本当に美味しそう、ですよ? でも……」

「でも?」

「いえ、何でも無いです」


(言えません。だって、その笑顔が、嬉しそうじゃ無くて、いつも笑う顔は、哀しそうで、泣き出しそうな、子供に、見えるなんて)


「ま、いいさ。で、何か作れそうか?」

「はい、一応は。イメージは掴めてきました」

「そっか。先に言うけど、盗作や映し、オマージュは厳禁だぞ」

「そこは承知してます」

「……話せるようになったな」

「そう、ですか?」

「ああ、昔みたいに驚驚としなくなった。今の君なら、最高の出来が期待できそうだ」

「も、持ち上げないで下さい!」

「はいはい」

 今の彼の言葉は、きっと比喩では無い。

 彼にとってカコとは、この先を担うジャパリパークの心臓部として、有意義に動いてくれる。そんな期待感が、今彼女には有り、それ故に、心配で、どこか、そう。

(これが、父さんの気分なのかな?)


 懐かしい物が有った。


   *


 そこからは、時間は平行に辿っていった。


 カコは、論文を書いては訂正、書いては訂正の繰り返しで、その度にあの読んだ先代者の論文を見返しては、その熱の根源を探し、模索の手を緩める事無く挑み続けた。


 コクトと言えば、午前出勤の平常運転に、午後には学習という+αの体制で要領良く動き続けた。元の学習能力が高い為か、覚えるに至っては難なく進み、時偶自分の論文に訂正を加えるなど、完璧を遠のけ続け進化を体現し続けた。


 日は過ぎ、努力の日々は確かに形となって募り、そして、約束の日は迫っていった。


   *


 アメリカ合衆国、北東部ニューイングランド六州の一つ、マサチューセッツ州。

 更に東には大西洋が見え、州のケンブリッジに目的の場所がある。


 ハーバード大学。

 アメリカ合衆国の研究型私立大学にしてイギリス植民地時代である一六三六年に設置されたアメリカ最古の高等教育機関である。

 名を知らぬ者は居ない程にその有名性は高く、学術、研究における人間であれば一度は来たいと思う、有名校だ。


「しかし、確かに広い」

 黒斗。アメリカ合衆国のハーバード大学のキャンパス内にて、目的の場所まで歩んでいた。服装は矢張りスーツで有り、大学生のラフな服装とは変わって逆に目立つ。

「正装じゃ無い訳には行かないが、矢張り目立つよなぁ……。新しい教員かって聞かれた時は、君たちと同年代なんて言える空気でも無いし……そっか、普通に生きてきたら私は今大学生か……」

 なんとも言えない空気に、ふつふつと言葉を漏らしてしまう黒斗。


 年代的に言えば、中学卒業と同時に就職した人間と同年代になってしまう彼の経歴。更に言えば彼は義務教育自体受けておらず、明確に言えば彼にとって学校は程々に縁遠い場所なのだ。

「学校なんて、ジャパリパークの公開講義で位しか言ってないし、海外なんて言うて初めてだからな……何処に行けば良いんだ? ……いや、本当にどこだ!?」

 アメリカと日本ではその種族的な感覚は矢張り違う。日本の狭く多角的にとは違って、アメリカは広く多様性を秘めている。そういうのは大抵、人の認識を覆し、ぶっちゃけた話、片道十五分の駅が、片道一時間の駅になるのと比例値が同じような物だ。


 端的に言おう、スケールがでかい。


「ま、とりあえず地図通りに進んでみるか。こういうのは在って嬉しいが、手合いによっては場所を間違えるだけで一時間単位のロスが発生しそうだ」


 学校の掲示板を探し、そこへと足を進め地図を見る。

 デカい。


「えっと……いや、見やすいのは解るがなぁ……あ、そっちか」


 足を進め、目的地まで歩み出す。

 軽く散歩の気分で、直ぐに着く訳じゃ無い分風景が楽しめるのは良い物だ。古い建物だけ在って、味もある。


「……ここか」

 一つの大きな建物にたどり着く。

 どうやら生物学科関連の場所がそこらしいが、日本とスケールを比べてしまう癖か、大きい。


 中に入れば、又違った空気が漂う。

 鼻に纏う匂いは、大理石で作った建築物のような、特有の香りで、別の場所に来ているのを錯覚するには十分な場所だった。

 コンコンッ

 黒斗は部屋をノックし、目的の場所にたどり着く。

『入り給え』

 中から英語で返答が返ってくると、黒斗は扉を開けて中に入る。中はどうやら教室の一つらしく、周りでは少数の生徒が己の実験に没頭している最中だった。

『時間きっかり五分前。矢張り日本人は時間に厳しいようだ』

『私はそこまで気にしたつもりはありませんよ。職員だって遅刻しても、支障が無いなら不問です』

『自分に厳しいという奴かね?』

『近しいようで遠からず』

『ま、良しとしよう。で、持ってきたかね?』

『ええ、カコの文は訳してあります。ただ、できたら日本語を読める方に参照して頂きたいですね』

『ほう、面白いかね』

『私が保証する程に』

『そりゃあ楽しみだ。君自身のはどうかね?』

『自身の評価は……まあ、過大は無いですね』

『その謙遜性は日本人の悪い所だ。自信を持つと良い』

『脅しに来た人が何を言いますか』

『あー、あの頃は、まあ、済まんな』

『まあ、私設ける立場なので多くは言いません』

『助かる。では、試験の開始は三〇分後だ。復習は済ませたかね?』

『ぼちぼち』

「ボチボチデンガナ?」

「ちゃいまんがな」

『ハッハッハッ』

(どこが面白いんだ?)


『では別室にて待機を願う。場所は……エミール君、案内してくれた給え』

『あ、はーい』

 教授の言葉に軽口で返事をするエミールという男性。在校生の一人らしく金色短髪に野生児と言わんばかりラフな服装。言い方は悪いかも知れないが、短パン半袖に白衣はどこかカイロ感を感じる。


『此方です』

(あ、意外に礼儀正しい)


   *


 彼に連れられ、教室まで歩く。

 時偶、キャンパスを案内してくれて、彼の言葉からはそれなりにこの場所を敬愛しているような口調が伝わってくる。意味合い深く思えば、彼も同じ生物学の同胞には違いないのだろう。言葉の節々に動物の例が挙げられる。


『えっと……、アッチが食堂ですね。あちらは第二研究室です』

『矢張り大きいな、この場所も』

『日本が小さすぎると思うんですけど』

『善いんだよ。要は手に届く物が周りにあるんだから』

『成る程……』

『あ、感心しないで、少し恥ずかしいわ』

『……?』


 時偶冗談を挟むが、日本式は何分冗談に含まれないらしい。彼等の冗談は偶にブラックジョークが多く、セシルを思い出させる。

 更には現学者と学者見習いとしての、互いの解釈を語らったりもする。

 こう言う場所に来るだけ在って、黒斗の目にも有望に見えて仕方が無い。

(ま、正直私も親馬鹿なのか、ウチの研究員は凄いって言いたくなるな)


『あ、着きました、此処が試験の教室ですよ』

 中に入ると、誰もいない教室に、黒板には『予約済』と書いてある。前もって取り置いてくれたのだろうが、部屋の真ん中にポツンと置かれた机と椅子に悪意を感じるが、これは自分の心の狭さだろうか。

『ありがとうね、エミール君』

『いえ。そうだ! 黒斗さんはこの後お時間ありますか?』

『ん? どうしてだい?』

『実は、午後に同じ学科の人を集めた討論会があるんです。そこの特別ゲストに貴方をお呼びしたいなって!』

 目が熱く輝いてる。

 どうやら気に入られたらしく、黒斗の見解を聞きたいそうだ。

(見学なら未だしも議論に参加するのか……)

『私は一地方の研究員であって、そこまで有名でも無いし、居ても邪魔じゃ無いか?』

『何言ってるんですか。正直ジャパリパークは生物学研究者にとっては最も職に就きたい場所ナンバーワンですよ! そんな場所の長の言葉が聞けるのは、またとない機会です!!』

『ま、まぁ……別件で少し滞在する訳だし、構わないけど……』

『ッシャァ!!』

 ガッツポーズ。

 そこまでか。


『じゃ、此れ僕の連絡先です! それでは!!』

『え、あ、うん』

(癖の強い子だなぁ……)


 試験会場にて開始の時間を待つ黒斗。

 彼との話によって復習の時間はとっくに飛び消えたが、悪い気はしなかった。

 自分の身内が褒められるときほど、これ程嬉しい日は無い。


「うん、頑張ろうかな」

 少しして、試験官が入ってくる。

 黒板の文字を消し、外には使用中の立て札が貼り付けられた。

『準備は宜しいですか?』

『大丈夫だよ』

『それでは、試験開始致します』


 黒斗に用紙が手渡される。

 中には数々の問題が記されており、かなりの量がある。

 だが、怯む必要はどこにも無い。

 どうしても、今の彼には引けを取る理由が無かったのだ。


 そして、時間は過ぎていく。


 その日の試験が終わると、黒斗は約束通りに討論会に出席し、彼の言葉を放った。


 討論の方は高評価で終われ、試験の結果は後日郵送らしい。


   *


 日本、ジャパリパーク。

 試験が終わり、一週間の滞在から帰国して、早三週間後。

 コクトとカコは、日常生活に戻っていた。


 と言っても、カコの方は結果が心配らしく、内心焦る気持ちで一杯らしい。


「うぅぅ……うぅぅ……うぅぅ~~ん」

「そこまで考え込む程か? あの時より頭悩ませてるぞ」

「結果が直ぐ出ないってのが一番もどかしいんですよ。それに、もしかしたら、もしかしたらぁ……」

「私が見た分にはそれなりに良かったと思うけどな。ま、結果が輸送されるのも今日だろうし、そこまで切羽詰まると仕事にまで支障しかねないぞ?」

「わかってます。わかってますけどぉぉ……」

 焦るのも、解るだろう。

 挑戦した物がした物なだけに、楽観的になれないのだ。こう言う提出して安心しきった今だからこそ、自分の書いた物に修正値を見出してしまう自分がもどかしいのだろう。

 実際に先代達は慣れと熱弁と呼称しているが、ある種それに違いない。


「コクトさーん。郵送届いてますよ~」

「お、きた――」

「は、はいはいはいはいはーい!!」

「落ち着けよ……」

 カコが我先にと乗り出す。

 受け取った書類の中には確かに海外郵送の大きな封筒が二つ有った。

「コッチがカコのだな」

「お、結果どうでしたか?」

「私もみたーい」

「見せて下さい」

「や、やめて下さい!! 恥ずかしいです!!」

 野次馬がゴロゴロと集まってくる。

 カコも半ば緊張しながら両手に封筒を持っているが、汗ばんでガチガチに震えた手によって握られた封筒が今にも悲鳴を上げ出しそうだ。


「で、では、開封致します!」

 恐る恐る封筒にハサミを入れ込む。

 ザクッザクッと切断音が成るにつれて、心臓の鼓動音が妙に五月蠅くも感じる。


 開封された資料をゆっくりと取り出し、文面を出す。

 が。


「……英語読めません」

「あ、そうだったね」

 緊張感が一気に消え去り、半ば大きな溜息を吐き捨ててコクトがその書類を代わりに読み上げる。

「えーっと……、学位審査会より、この度博士号認定試験としての論文を提出いただきありがとうございました。内容を拝見させていただき、今回の結果を報告させていただきます」


 ドクンッ……ドクンッ……。


 心臓の音がまたもやうるさく鼓動する。

 張り裂けそうな思いの中、コクトは文面の下まで読み進めて行く。


「この度、貴方の提出していただいた論文を確認しまして、高評価を収め、つきましては、貴方には博士号を認定させていただきます…」


 空虚な時間があった。

 発する言葉を迷いながらも手探りに探す余裕は無かった。


 ただ、その数秒の間の最後に、彼女は叫んだ。


「や、やったぁぁぁぁぁッッッ!!!!」

 叫ぶカコ。

 文面には確かに称号授与の旨が書かれている。嘘では無い。今ココに、新しい卵が孵化したのだ。


「おー、おめでとう」

「おめでとー」

「おめでたー」

「ありがとうございま……おめでたっ?!」


 少々の冗談交じり気の祝いの言葉、だが、その中に彼女を祝福していない者は居ない。


「やったね、カコ」

「はい、はい、……はいッッ!!」

 カコは、その嬉しさの余りか、ポツポツと涙を流し始める。ただ、糾弾する者は居ない。誰もがそのうれし涙を優しさを込めて見守っていた。


「あ、所長。少々宜しいですか?」

 部屋の入り口から、コクトを呼ぶ声が聞こえる。

 事務所の人間らしく、入ったら入ったでカコが泣いてるのに多少驚きながら、事情を察したのか話を戻す。

「ああ、今行く。ま、嬉しいからって浮かれるなよ?」


 そう言ってコクトは部屋を出て行った。


「あれ? そういえば、所長はどうだったんだろ? 結果」


   *


 所長室。

 コクトは室内で自分の封筒を開ける。

 中の文面、それは、以下の物だった。


『今回の生物学科全般の試験において、貴方は全ての科目で満点を納め、論文自体も高評価でありましたので、此処に博士号を認定させていただきます』

 ただ、それだけでは無い。

『つきましては、生物学科の全ての博士号となります。名誉階級と致しまして、博士会にもご検討をお願い致します』


 コクトは、その資料を雑多に机に投げ出す。

 それは、コクトにはまるで要らない物だと表現するかのように。


(孰れ消える人間に称号などきっと意味の無い物だろう)

 棚から取り出したのは、カイロが書いた『未来の書』。その本を手に持ち、又振り返るように本書を読み出す。


(そうだ、消えるのだ。だから、せめて祝福はあの娘だけの物にしよう)


 夕陽が部屋に差し込む。

 その光景を見つめ、彼は言い放った。


 優しく、切なく。

 そして、本心を込めて。


「――おめでとう。カコ」

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