第一五節

 コクトとバーバリライオンは衝突した。

 だが本来、生身の人間が、仮にも剣の達人をも倒したという逸話を持つ動物に挑みかかるとすれば、その勝敗は誰もがバーバリライオンに軍配が上がると予測するだろう。


 コクトとて、その思考を出来ない人間では無い。

 それがこうなった理由。


 それは、結果からしてみれば、実に単純かつ不可解な解答が出てくるのだ。


「……、」

「うぉぉぉぉぉっっ!!」

 大きく吠え挑みかかるバリー。

 コクトは一寸も動かずに、その様子を見ているだけだった。


 振り上げられた拳が、コクトへと向かう。


 だが。

「……、」

「なぁッッ!?」

 直ぐにコクトはバリーの振り上げられた腕を掴むと、明後日の方向に切り替えして投げた。


 投げ飛ばされた彼女は、地面に受け身を取りつつ体制を取り戻そうとする。


 が。

「遅い」

 顔を上げた瞬間、目の前には脚が迫っていた。

 彼女は避けきることが敵わず、彼の脚が顔面に直撃する。


 ガッッッ!!


 再び身体は後ろへと飛び、何度も地面を跳ね飛ぶ。


「う、うぅ……」

 痛みに耐えながら、彼女は立ち上がる。

 眼前の敵は、追撃もせずにそこに居た。


「……どうした?」

「グ、グォォォォォォァァァァァアッッッ!!!!」

 吠える。

 咆哮する。


 我を忘れたかのように、地面を踏み抜き、コクトへとまっしぐらに走り出す。


 拳を握り、思い切り後ろへ回し、助走を付ける。

 彼女なりの最大火力。

 その力を彼目掛けて、一気に爆発させる。


「ガァァァァァァァァァッッッ!!」

 振るわれた拳は、コクト目掛けて放たれた。

 助走付きの一発。


 これが当たれば、仕留められる。

 彼女はそう思って仕方なかった。


 ドォンッッッ!!

 かつて無い轟音が響く。

 拳は確かにコクトに接触した。


 が。


 その拳は、コクトの掌で止まっていた。

「……その程度か?」

 止まった拳を、コクトは握り彼女の身体を引き寄せる。

 瞬間、もう片方の拳が、バリーの腹部に直撃した。


「ぐっ……うぷっ!?」

 攻撃は休まらない。

 苦しんでいるバリーを余所に、未だ握られた彼女の拳ごと、力一杯に振り回し、投げ飛ばした。


 投げ飛ばされた身体は、木々を抜け、草原に飛び出す。


 ドサッッザザーーーーーッ!!


 草原を滑り転げ回る。

 やっと止まったものの、痛みによって掻き乱された意識のまま、彼女は何とか立ち上がろうとしている。


 圧倒的だった。

 彼女の渾身の一撃をも受け止め、瞬時に弱点に対して一撃を加えられた。


(最ッ悪だ……。私の全てが、悉く、踏みにじられて行く!!!!)


「……もう、ギブアップか?」

「――ッッ!?」


 木々の中から、コクトが出てくる。

 未だ傷一つ……、彼を貶める程の一撃さえも与えられていないバリー。


「ふざけるな……」

 彼女は、声を絞り出した。


 蹌踉けながらも立ち上がり、己の敵を睨み付けようと、コクトに視線を定める。


「私は、まだ負けていない!!」


 彼女の言葉を聞いたコクト。

 だが、やはり眉も、表情さえも動かない。

 さも当たり前だと言わんばかりのその表情の内に、一体何を考えているのか、彼女にとっては不気味でしか無かった。


「言っただろう。私だって、このパークの全てを背負ってる身だ」

「だからどうした!!」

「……ハァ」

 小さく溜息を吐き捨てるコクト。

 呆れたと声に出さなくとも、わかってしまうその顔に、更に大きく苛立つバリー。


「……別に。ただ、今の君だったら、手加減しててでも勝てると、そう思っただけさ」

「……何?」


 更に苛つかせる。


「ふざけるな……ふざけるなッッ!!」


 叫んだ。

 大きく、鼓膜が破れそうなほどに。

「戦士ならば、戦うのならば、本気でかかってこい!!」

「……だからだよ」

 またもや彼は、呆れた表情で語る。


「戦士? 馬鹿馬鹿しい。そんな快楽殺人者を讃える狂った信仰者共と一緒にしないでくれ」


「……何だと?」

 苛立つ。

 苛立つ。

 苛立つ。


 歯軋りするほどに、逆撫でるほどに。


 バリーは、目の前の男に、怒りを最早隠さないでいた。


「あー、しまった。少々自分の根が出てしまったな。だが、良いよ。逆撫でしてしまった例だ。少しだけ、本気を出そう」


 大きく息を吐き捨てる。

 コクトの表情が変わる。


 刹那。


 距離があったはずだ。

 まだ遠かったはずだ。


 唯会話が届くだけの距離だったはずだ。


 彼女の、そんな考えさえ吹っ飛ばすほどの衝撃だった。


 既に、攻撃は始まっていた。


「……っ」

 声が出ない。

 何が起きたのかもわからない。


 だが、彼は、コクトは。


 バリーの脇腹を蹴り、彼女の身体ごと吹き飛ばしていた。


 轟ッッ!!


「――ッ――ッッッ!!?!?!」

 先程までとは比べものにならない、重い蹴り。

 吹き飛ばされた身体は、空中を低空飛行する戦闘機のように、勢いよく吹き飛び、地面に接着したと思えば、大きくバウンドし、地面に叩きつけられる。

「……ッッッ!!!!」

 やっとの思いで止まった身体が、地面の上で苦しんでいた。

 呼吸もままならず、涙と嗚咽が何度も出てくる。


 喉に指を突っ込み、呼吸を確保しようとすると、むせかえるようにして喉の奥から何かを吐き出した。

 ベットリと赤黒い粘着質のそれは、緑生い茂る草原の上に相反するように飛び散った。


「はぁ……はぁ……ッッはぁッ……!!」

 何とか整えられた呼吸口。

 苦しみを和らげようと何度も何度も荒く呼吸する。


 涙、汗、息。

 止まらない。

 止まらない。


 何故自分がここまで荒れてしまっているのかも、わからない。


「どうした?」

 その声を聞いて、小さく身体に寒気が走る。

 顔を上げてみれば、彼がゆっくりと此方に歩み寄ってくる。


 汗が止まらない。息が荒くなる。だが、声が出ない。

 その正体さえも、わからないまま、身体が硬直していた。


「……、ここまで、か」

 歩きながら、吐き捨てた言葉。

 連なるようにして、彼は言い放ってきた。


「惨めな奴だ。自分を戦士と自惚れ、その力を測る為に動けぬ身のような者達を悉く虐殺し、挙げ句の果てには慢心が故に溺れ、地に落ちた」


 言葉を聞いて、彼を見ていて、自分の中の何かが壊れそうになっていた。

 反論したくとも、声が出ない。

 動きたくとも、膝をついたまま身体が言うことを聞かない。

 徐々に近づいてくる彼が、余りにも大きく見える。


「言っただろう、此所はジャパリパークだ。この地に来る人らは、楽しみを求めて来る。メジャーに多く知られている物。人々が見たことの無い希少的な物。それ故に、人々は期待以上の物を想像し、ここに来る。だが、君はとんだ見当違いだった。嘗ては達人の剣士を倒し、百獣の王にして最大の物として知られたようだが、これでは、最早人に見せるには余りにも悲惨すぎる」


 冷酷に。

 無慈悲に。

 無感情に。

 彼は語り、近づいてくる。


 彼が目の前まで近づくにつれて、その思いは彼女の中で一層大きく膨らませ、爆発寸前となっていた。


 そして、

「バーバリライオン。君に最早商品価値はない。その悉くを持って、君に死を与えよう」


 たどり着いた。

 目の前まで。


 余りにも、余りにも悲惨すぎる決定。

 余りにも、非情すぎるその言葉に、糸が切れかかる。


「さらばだ。死を持って、償いたまへ」


 無情の決定が、下された。


   *


 奥底で湧き上がるこの感情を、私は知らない。

 だけど、知らない感情が、何よりも優先させたい事だった。


 戦士として生きたい。

 強い者として生きたい。


 こんな呆気ない最後は嫌だ。


 嫌だ。

 死ぬのは嫌だ。


 嫌だ。

 嫌だ。

 嫌だ。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ。


 私は、まだ……、


 ――死にたくないッ!!

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