【0】堕ちた女神

「私は……この子とともに地に堕ちます」

 周囲にいる神々に衝撃が走った。

 天界の均衡を強制的に保てる精霊体、十干が誰ともなく口々に囁く。神々に聞こえないように、とても早口で。

「『愛と美の神』と『義憤の神』はいわば共同体」

「その片方だけが堕ちれば」

「天界の均衡を崩すことになる」

「均衡が崩れた天界は危険だ」

「水平を保てない」

「天界が傾いてしまう」

 そう、例えば──水平の定規を片方に傾けるように。

「傾斜と時間が大きければ大きいほど、危険度は増す」

「地上に神々が堕ちてしまう危険が」

 精霊体は無意識に己の持ち場を目視する。

 場が固まる中、土を司るツチノトがぽつりと言う。

「我らが持ち場に着かなくても、回避できる方法がふたつある」

 その言葉に、ツチノト以外の十干はハッとし、再び口々に呟く。

「ひとつは『義憤の神』が『愛と美の神』から受け取った繋がりを切り離すこと」

「共同体の神同士が天界にいる間に切り離せば、共同体ではなくなる」

「『愛と美の神』に与えた『義憤の神』元来の力も戻る」

「ただしそれは『愛と美の神』は地上に堕ちた瞬間に『神』の称号を失うということ」

「地上に堕ちたが最後」

「『憤りの神』から譲り受けた力は消え、自らの意思によって天界に還って来られなくなる」

「それだけではない」

「『愛と美の神』は悪魔の子とともに堕ちると言った」

「悪魔とともに行く場所は、ひとつしかない」

 早口で紡がれた言葉は消え、十干の誰もがその辿り着いた恐ろしい結末を口にしない。


 ──地獄の果て。

 天界に生まれ、天界で神になる修業を積む精霊体である十干にとっては消滅よりも恐ろしいこと。その恐怖を振り払うかのように、十干は再び口を開く。

「もうひとつは『義憤の神』が『愛と美の神』とともに堕ちること」

「『義憤の神』は元来の力を『愛と美の神』に託している」

「自らの意思によって天界に還ることができる能力が『義憤の神』元来の力」

「今のままでは、自らの意思で天界へ還ることができない」

「元来の力なくして地上に堕ちれば、『義憤の神』が天界に還って来られる可能性は極めて低い」

「元来の力なく地上に堕ちれば、生命は人間となる」

「苦しい魂の修業が始まる」

「転生を繰り返し、魂の修業が終われば神上がりができる」

「つまり、天界へと昇ることができる」

 木を司るキノトの言葉にホッとしかけた瞬間、火を司るヒノエが言う。

「それは、通常の生命であればという話しだ」

 十干はそうだとばかりに顔を見合す。

「『義憤の神』は『愛と美の神』と生命を共有したまま」

「地に堕ち人間となっても、魂の『神』という称号は失わない」

「つまり、神上がりはできない」

 ──いくら転生を繰り返そうとも。

 それを誰も言葉にしないまま、大神と『愛と美の神』、『義憤の神』を十干は見つめる。

「『義憤の神』が元来の力を持たないまま地に堕ちれば、天界に還る方法はないに等しい」

「いや、正確に言えば方法はふたつある」

「どちらも叶わないに等しいだけだ」

 声は悲しみに包まれている。

『愛と美の神』はやさしい神だ。愛あふれる神だ。皆に平等な愛を注いでくれる。それは、神ではないこの精霊体の十干にさえもずっと向けられていた。

「『義憤の神』が元来の力を持たないまま地に堕ちても」

「『愛と美の神』の意思を得れば、ともに天界に還れる」

「けれど、自ら地に堕ちると言った者が還る意思を持つだろうか」

「もうひとつは『義憤の神』が繋がりを切り離すこと」

「繋がりを切り離しても、地上にいる状態であれば『義憤の神』に元来の力は戻ってこない」

「ともに『神』の称号を消失するだけ」

「『神』の称号を失った場合、人間として魂の修業が終われば、神上がりできるようになる」

「道のりは長くなるが、天界に戻れる可能性が生じる」

「ただし、神上がりできる保証はない」

「切り離された方の行く末は」

「悪魔との繋がりを断ち切れない限り、行く先はひとつだけ」

「それを理解していて『義憤の神』は」

「繋がりを、切り離すだろうか」

『義憤の神』は元来、孤独な神。地上の再生のために働く、破壊する神。『愛と美の神』が皆に向ける愛は、『義憤の神』にも差し伸べられ、それは、唯一の愛だったはずだ。

 騒がしかった十干は、嘘のように静まる。固唾を飲み、行く末を見守る。


「私を切り離しなさい」

 歩き始めた『愛と美の神』は、振り向くことなく『義憤の神』に告げた。小さな声にも関わらず、厳しい声で。

 長く美しい髪がなびく。

『義憤の神』は、天界の端へと歩く『愛と美の神』の後ろ姿を見ながら、動かない。立ち止るのではないかと思っていたのか。いや、それを願っていたのかもしれない。

 だが、足は止まらず、悪魔の幼女を抱えたまま『愛と美の神』は端へ近づいていく。

 天界の端まで辿り着いても、迷わずに足は前に出る。その足は今まさに、天界から堕ちていきそうで。

「そんなこと……できるか!」

『憤りの神』は走り出す。

「行ってはならん!」

 大神は叫んだ。

 十干の悲鳴に似た高速の声が上がる。

「『愛と美の神』の行く末は、堕ちてしまえば変えられない」

「堕ちる前に『愛と美の神』が悪魔の子を手離そうとしないのは明白」

「その後も手離すことは、考えにくい」

「当然これから先、悪魔から『愛と美の神』を手離すことなど」

「『義憤の神』も、ともに堕ちたが最後」

「繋がりを切れないままであれば、天界へ還る意思を『愛と美の神』から得る必要がある」

「その意思を得られなければ、行く末は『愛と美の神』とともにするしかない」

 堕ちた行く末を『義憤の神』は理解しているはずだ。それでも、大神の叫びを聞いても、『義憤の神』は足を止めない。


「お前を失うくらいなら、消滅した方がマシだ」


 その声は、大神や『愛と美の神』に聞こえていたかは、わからない。だが、十干はしっかりと聞いていた。

『愛と美の神』の姿は、すでに天界になく。


 天界は大きく揺れ、ゆっくりと傾いていく。

『義憤の神』は、ためらわずに天界から飛び降りた。

 十干が慌てて持ち場についても、天界の傾きはすぐには止まらない。十干が必死に力を酷使する中、巨大な力を持ち、大神を守る『四神シシン』と呼ばれる四人の女神は、天界から滑るように堕ちていった。




『愛と美の神』が幼女を抱え落ちていく姿に、『義憤の神』は手を伸ばし続けた。


 しかし、距離は縮まらなかった。

 重さに比例するように、次第に距離は離れていった。

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