第3話 怨恨

 高杉あやは、殴られた頬に手をやってしばらく呆然としていた。が、すぐまたぎりっと僕のほうをにらみつけた。

「な……に、すんのよっ! この、男女おとこおんな……!」

 そうして鞄を地面に放り出すと、猛然とこちらへ向かってきた。乱れた髪の間から見える目は、爛々らんらんと燃えさかっている。

 その手のひらが僕がしたのと同様にこちらに振り下ろされる寸前、その手首は茅野によってがっちりと掴まれてしまっていた。


「きゃっ! いたっ……痛いじゃない! はなしてよおっ!」

 気が狂ったようにしてつかまれた腕を振りほどこうとするが、茅野の手はびくともしないようだった。

「いいんだよ、茅野。殴りたいなら、殴らせてあげればいい。それでおあいこなんだから」

 そう言ったら、茅野は心底めんどうくさそうな顔でじろりとこちらを睨んだ。

「とりあえず、シノが泣きそうだから止とめた。そんだけだ。どうしてもやりたきゃ、お前らだけでほかでやれ」

 彼が顎でしめした先に立ち尽くしているしのりんは、彼の言ったとおり、その場で松葉杖をついたまま震えていた。今にも泣きそうな顔だった。

 茅野はむっつりした顔で、あらためてあやを見下ろした。


「人のことをそんだけ『ガキだ、ガキだ』って叫ぶんなら、あんたは『オトナ』になれるんだよな? そうやってキャンキャン吼えたててねえで、ちゃんと筋道たてて説明してみろ。やったことはやったって認めた上で、非があるって思うんなら、ちゃんとシノに謝れや。あんたが大人だってんなら、落ち着いてそのぐれえのことはできるよな? ああ?」


 茅野のもともと低い声が、さらに低くなって凄まじい威圧感を放っている。

 さすがの高杉あやも、彼にだけは強く出る方法がないらしく、憎々しげな目はそのままに、それでも言葉に詰まって黙り込んだ。





「ゆのは、知ってるよね。あたしのお姉ちゃんのこと。部活、いっしょだったんだし」


 そんなふうに、唐突にあやが話を始めて、僕らは顔を見合わせた。

 この子はどうも、そうやって話があっちこっちへ飛びやすい子のようだ。そういえば昔からそうだったなと僕はいまさらのように思い出した。


「あ、……ああ。高杉先輩だね。もちろんだけど」


 高杉あやの姉は、名前を桃花ももかさんという。僕らより二つ年上の先輩であり、おっとりした和風の美人さんで、成績もよく、先生からの受けもいい人だった。

 男子からもてるのは勿論のこと、そういう人にはありがちな同性からは嫌われるという側面がなく、誰からも好かれる女の子だった。本人がどう思っていたかまでは分からないけど、僕みたいな奴から見ても、あそこまでパーフェクトな人はなかなかいるもんじゃないだろうと思われた。

 当時の僕は放送部に所属していたのだったが、桃花さんは先輩としてもとてもよく出来た人で、後輩の面倒見もよく、ヒステリックになって取り乱したり、怒ったりしたところなんて一度も見たことはなかった。


 対する妹のあやのほうは中学に入学した頃から見ての通りのこんな調子で、さっぱり仲のいい友達のできない子だった。別にクラスのみんなは彼女をつまはじきにしたわけではなかったけれど、普通に会話はしていてもそれ以上は決して仲よくなってくれる相手ができなかったのだ。

 僕自身、クラスの中で「おなじ親から生まれた姉妹でも、こんなに違うもんなんだね」と、こっそり話している放送部の部員の声を何度もきいた。そのぐらい、この姉妹の印象は違っていたのだ。もちろんあやは、放送部には入ってこなかった。


「……で? そのお姉さんがどうしたの」


 それとこれと、いったい何の関係があるのだろう。

 話のつながりが見えないまま、僕はあやにそう訊いた。

 あやは今、公園のベンチに座って、つまらなさそうに足元の砂をちょっと蹴るようなそぶりを見せている。僕は同じベンチに少し離れて座っていた。

 茅野は近くの木のそばに立っており、しのりんはその脇の別のベンチに座ってこちらの話を聞いている。


「だから、あんたなんかにはわかんないって言ってるのよ。出来のいい姉なんかもった、妹の気持ちなんて」

 ふくれっ面のまま、忌々しげにあやがそう言ってまたこちらを睨むようにした。僕は少し困って、指先でかるく頬を掻いた。

「うーん。そう言われちゃうと確かにそうだけど。僕もまあ、一応うちでは長女だからなあ。上に兄貴も姉貴もいないし」


 長女には長女の苦労があるんだよ、なんて言うことは簡単だ。でも、この場ではやっぱり控えておくことにした。それを今この場で言っても、ひとつもあやの耳に入るはずがなかったからだ。

 しかし、僕のそんな我慢など、彼女には当然ながら一顧だにされなかった。あやは至極不満げな顔のまま、じっとこちらをねめつけた。


「あんたも、同じよ。綺麗で、すらっと背が高くってさ。成績だっていいし、人づきあいだって器用でさ……。女の子たちがみんな、あんたのこと、なんて呼んでたか知ってる? 『ゆの様』とか、『王子』とかだよ? まったくほんと、笑っちゃうわよ」


 ぶっ、と背後で吹き出したのは、恐らく茅野だろうと思われた。

 あいつ、あとで蹴りのひとつも食らわしてやる。

 そう心に決めてから、僕はまたあやに向き直り、ごく静かにこう言った。


「まあ、分かるか分からないかは、今はなんともいえないけど。でもまあ、話はしてみたら? 話もしないで、最初から『お前には分からない』って決め付けててもどうにもならないことでしょう。それに、僕らには聞く権利があるよね? 今回、なんで君からこんな目に遭わされなきゃならなかったか、知る権利があるはずだ」


 あやはまたぐっと言葉に詰まったようだったけれど、自分の膝小僧をじっと見つめて唇をひきむすび、しばらく黙り込んだ。

 そうして、やっと顔を上げると、訥々とつとつと話を始めたのだった。

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