第3話 帰途

 そして、翌朝。


「じゃあね、しのりん。僕ら、先に戻ってるけど。ちゃんと帰ってくるんだよ? 待ってるからね」

「二学期、ちゃんと出てこいよ、てめえ。出てこなかったら承知しねえかんな――」

「ほんと。承知しないからね」

「わかった、わかったよ……。二人とも、怖いなあ」


 困ったように、でもかなり嬉しそうに苦笑しながらそう言ったベッドの上のしのりんに別れを告げて、僕と茅野はご家族にもごあいさつし、地元に戻ることにした。

 来た道を戻りつつ、駅前で買ったお弁当なんかを食べながら、茅野は電車の中で例の写真を回した人物についての話をした。

 車内には、ざあざあと窓を叩く雨の音がいっぱいに響いている。とうとう、例の低気圧が頭上にやってきたわけだ。しのりんが昨日のうちに救出されてよかったと、僕は心底そう思った。それと同時に、この雨の中での捜索になっていたら、しのりんがどうなってしまっていたかと考えずにはいられなくて、少しぞっともするのだった。


「どうせ、シノのことを知ってる奴なんざ限られてんだ。学校なんて狭い世界なんだしよ。誰から回ってきたもんか、虱潰しらみつぶしにあたってやる」


 ががが、と音をたてるようにして、茅野が弁当をかきこみながら言う。

 食べながらしゃべるなよ、と僕は思ったが黙っていた。


「そんで、心の底から後悔させる」


 えーと。目つきが怖いです。

 要するに、茅野は相手のあぶり出しに掛かるつもりらしい。


「まあ、あんまり無理はしないでね? それでまた逆恨みされて、しのりんに被害が及ぶと困るんだから。ああいう手合いは、いちばん弱い人に目星をつけて集中攻撃することだけは天才的なんだからさ。そこだけは気をつけてよ?」

「んなこたあ分かってる」


 茅野はあっというまに弁当を完食して――それも、軽く三人前をだ――ペットボトルの緑茶をぐびぐび飲み干した。男子の飲み食いって、豪快だよなあ。見ていてほんと、気持ちがいいよ。

 とは言え、あの父親や弟どもを見ていてもこんな気持ちにはならないけどね。

 そうか、こういう奴のためにだったら、料理の作りがいもあるのかもしれないなあ。




 ともかくも、そんなこんなで、僕らは無事に自分たちの街に戻った。


 母の則子は思った通り、帰宅した僕に向かって「あ〜あ、ほんといいご身分ですこと」とかなんとかと何度か嫌味を言うことを忘れなかった。そして、溜まってしまった家事のあれこれを当然のごとく僕に押し付けて涼しい顔をしていた。

 さも「あんたが居ない間、お母さんがひとりでどんなに大変だったか」と激しくアピールする様子だったが、その頭に「代わりに夫や息子たちに手伝わせよう」という考えがひと筋も浮かばないのは、やっぱり相変わらずのようだった。


 この母に言わせると、「家の中が綺麗にならないのはあんたのせい」「家事がうまく回らないのもあんたのせい」「なにもかもあんたのせい」ということになる。一事が万事、この調子だ。

 自分が自分の夫と息子たちを何年もかけてそういうふうにしてしまっておきながら、「だれも手伝ってくれないんだから、長女のあんたぐらいはちゃんとやってくれなきゃ困るでしょ」という、相変わらす意味不明な論理を当然のように押し付けてくる。

 どうやらこの人にとって、この世で最も不幸で可哀想なのは自分、ということになるらしい。

 客観的に考えてそんなことはありえないのに、それにひと言でも反論するような言葉を発したら、それこそ怒り狂って「あんたは本当に心の冷たい子だ」「なんて思いやりのない子なのかしら」とヒステリーを起こして叫びだすのは目に見えている。だから僕は、もはや黙って聞き流すしかないのだ。


 対する父の勇治はと言えば、やっぱり例の意味不明な「オヤジ風」をふかすことは忘れずに、「女が勝手に外泊なんてするな」とえらそうに説教をしてきた。

 僕に気づかれていないと思えばこそだとは分かっているが、自分がこそこそ隠れて僕に何をしてきたかをここまで綺麗に棚にあげられる、そのあまりに低劣な人間性に笑ってしまう。というかもう、笑うしかない。

 けれども、そんなことを真正面から言ったところで、どうせまたこいつも逆ぎれして怒り狂うだけだ。それでまた物を壊されたり暴力を振るわれたりするのも馬鹿らしいので、僕はただ、神妙なふりをしてそのごとの数々を聞いていた。


 父にしろ母にしろ、大事なのは外聞だけだ。

 母は息子たちを溺愛しているけれども、厳密なことを言えばそれは「愛」には程遠い。父も母も、結局のところ、自分がかわいいだけの人なのだ。

 そして、娘が勝手に外泊をするような人間になったことを、誰より近所の人たちや職場の人間に知られたくないだけ。

 さらには、そういう底意が当の僕にすけて丸見えになっていることにも気づかない。

 そんな、愚かで哀れな生き物たちだ。


 これは完全な茶番だと思った。

 思ったけれど、やっぱり僕は黙っていた。

 こいつらに何を言ってももう無駄だということは、重々骨身にしみていたから。


 僕はただ、今は黙っていずれこいつらの元から無事に逃げ去ることだけを考えていればいいのだ。

 茅野の言ったとおりだと思う。

 僕は僕で、自分が幸せになることを諦める必要なんかないんだ。

 父に何をされたから、母に何をされたから、またはされなかったからと理由をつけて、自分で自分の人生を投げるいわれなんてない。だって投げようが投げまいが、人生は一回きりなんだ。

 輪廻転生をうたう宗教はいろいろあるけど、僕は別にそれらのいずれの宗徒でもない。


 だから、僕の人生は一回きり。

 泣いて生きようが笑って生きようが、たった一回しかないことなんだ。


 こいつらがどんなに愚かで、僕のことをただ利用することしか頭にないような親であったとしても、それでも僕は僕でいいんだ。この身体の中に、あの愚かしい両親の血が流れていることだけはどうしたって嫌悪せざるを得ないけれども。

 でも、そんなことを言っていたら犯罪者の子は必ず犯罪者になることになってしまうじゃないか。理性的に考えれば、そんなことはありえない。

 だから、厳密にはそれとこれとは関係ない。

 あんな親から生まれて、育てられてしまったからって、自分の価値を見失う必要なんかないんだ。


 僕は僕で、ちゃんと幸せになればいい。

 そう、しのりんに対して願うのと同じように――。



 夕食の後片付けを手早く済ませて、僕は回しておいた洗濯機の中身を取り出し、山盛りになったかごを抱えて二階にあがった。階段をあがる僕の背中に、リビングでテレビのお笑い番組なんかを見て楽しげに笑っている両親と弟どもの声が聞こえよがしに投げつけられてくるような気がした。

 二階のベランダで大量の洗濯物を干しながら――部活なんかやっている男子が家の中に二人もいたら、その毎日の量たるや半端ないのだ――僕はただ、ひたすらにここから逃れ出る未来のことを考えていた。


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