第四章
第1話 暗雲
『ゆの。変な写真が回ってる。気にする必要はないけど、一応気をつけて』
クラスメートの「ののちん」こと橘ののかからそんな電話が入ったのは、イベントの数日後のことだった。
夏のイベントはお盆の少し前に行なわれることが多いため、そのメールが同じ学校の生徒たちの間に回り始めたのはちょうど、世間がお盆休みに突入した時期だった。
僕はいやな胸騒ぎを覚えながらも、自分の部屋で一人になってから改めて、ののちんが「見なくていいけど、一応送っとくね」と添付してくれたその画像を恐る恐る開いてみた。
(これって――)
いきなり獣に心臓をつかまれたみたいな、痛撃にも似た不快な感覚があった。
目の前に見えているものが急に遠くなったようになって、耳の奥でごうごうと音がし始める。
その写真は、僕としのりんのものだった。
明らかに隠し撮りしたらしい画像でやや不鮮明だったけど、確かに僕としのりんだということは分かる程度の画質である。
二ヶ月ほど前に街なかで一緒に勉強していたときの制服姿、ツーショットのものと、まぎれもなく先日のイベント会場でのもの。もちろんそちらのしのりんは女の子の格好だ。
百歩譲ってここまでのことなら、なんとか大したことはない。
僕が友達の「女の子」と例の「ヲタクなイベント」に出かけ、サークルスペースで売り子をしていましたっていう、ただそれだけの話だ。かなり苦しいとは思うけど、そうシラを切り通せないこともない。隣に座った女の子が実はしのりんだなんて、遠目で分かる人は少ないだろうから。
でも。
問題は、その後こちらへもどってきて、しのりんがまた着替えて男の子の格好に戻るその前後がばっちり撮られてしまっていることだった。
あのときは僕も周囲の見張りも兼ねてショッピングモールの化粧室前でしのりんを待っていたので、どちらの画像にも同じ服装のままの僕が写りこんでしまっている。同じ日の、同じ時刻だということが明確に分かるものだった。
ののちんは、そこに添えられていた明瞭な悪意のにじんだ表現は敢えて送らず、僕には写真だけを送って、そこにあった言葉については口頭で大意だけを教えてくれた。
要するに、僕らがいわゆる「ヲタク」で、BL好きな「腐」と呼ばれる人種であること。
僕と一緒にいる「女の子」は、実は男の子として別の高校に通っていること。
もちろん、僕らの名前と学校名も晒されている。
発信者はわからなくしてあった。
『まったく。ここまでするかしら。くだらない――』
ののちんは最後に、吐き捨てるようにしてそう言った。
彼女の声からは、隠しようのない嫌悪と侮蔑の色が聞き取れた。
ちなみにののちんは、僕の腐った趣味については知っている。それでも、別にそれを蔑んだり、差別するようなことはまったくない。
以前、そのことを告げた時にも、彼女は言下にこう言ったものだった。
「だってそれは、あくまでも個人の趣味、好みの問題でしょう。ゆのがだれに迷惑を掛けてるわけでもないなら、文句を言う筋合いはないことよ」
僕がびっくりして「なんでそこまで言い切れるの」と尋ねたら、笑いながら返ってきた答えがまた
「わざわざそんなことをあげつらって蔑むなんて、頭の悪いことはしたくないだけ」
聡明かつリベラルな友達って、ありがたい。
いやそれにしても、高校生でなかなかここまで言い切れる人っていないだろう。
僕はまだぐるぐる回って混乱している自分の脳内を敢えて叱咤し、ののちんにお礼を言って電話を切った。すぐに、他に連絡しなくてはならなかったからだ。
もちろん、最初に電話したのはしのりんだ。
でも、残念ながら何度かけても彼女は電話に出なかった。
僕の両親の田舎はそれぞれ遠いところにあるし、祖父母もすでに亡くなっている。最近では親が共働きで忙しいという事情もあって、わざわざ毎年そちらに戻って盆休みを過ごすということもなくなっているのだ。
だけど、しのりんのお宅では対照的に、一家してご家族の田舎へ戻るのが毎年の決まりごとになっているんだそうだ。
もしかしたらあちらのご親戚連中にあれやこれやとひっぱりまわされて、たまたま電話に出られない状況なのかも知れない。そうであって欲しいと思った。
僕は仕方なく、「これに気づいたら電話して」とだけ留守電に入れ、同文をメールやLINEでも送って、今度は茅野に電話した。
『あんたのとこでも回ってんのか。ったく、クソくっだらねえ――』
茅野の声は、ののちん以上に剣呑だった。
もともと低い声が、さらに殺気を含んで低音になっている。
聞けば向こうの生徒の間でも、同様の写真と文章が回っているとのことだった。
『俺もシノとは連絡がつかねえ。田舎は遠いって聞いてる。たまたまメールを見てねえだけならいいんだが』
茅野の声が、多少、不穏なものを感じさせるような色を帯びて、僕は思わず背筋が寒くなるのを覚えた。
「なに、それ……。どういうことだよ」
が、茅野はそこからわずかに黙って、敢えて静かな声に戻って言いなおした。
『……いや、なんでもねえ。何か分かる前から一番悪い事だけ考えとけば、あとあと楽かもしんねえって、そんだけだ。あんたは気にしなくていい』
「ちょっと。……勘弁してよ」
ますますものの言いようが不穏だ。
茅野は明らかに、僕を落ち着かせようとしたようだった。だけど、それはむしろ逆効果だった。
いやな予感と想像ばかりが、どんどん僕の中でふくらんでゆく。
「どう思う? しのりんはもう、このことに気づいてると思う?」
『そんなの分かるか。とにかくあんたは、あいつからの連絡を待て』
「って、茅野はどうすんのさ」
ここで「あんたは」と言う以上、彼は何か他の行動をとるつもりがあるに違いなかった。
『俺は……まあ、あっちこっち、心当たりをあたってみっから。情報元のことも、もしかして誰かが知ってっかもしんねえし。シノになんかあれば、あっちの親から俺にも連絡くるだろうしな』
「そうか。なにか僕に手伝えること、ある?」
『ん〜。今んとこは、ねえな。ターゲットにされてるあんたは、ガタガタ騒がねえほうがいい。あんたはシノからの連絡を待ってろ。なんかわかれば、すぐ連絡する』
その話はそこまでで、茅野はいったん電話を切った。
僕はじりじりしながら、また何度かしのりんに連絡を入れた。
でも、そこから何時間待っても返事は来ず、LINEにもまったく「既読」がつかなかった。
ののちんの話だと、すでにうちの学校の生徒たちの間ではこの写真がすっかり広まっているらしい。
僕のことはまあ、それこそののちんが揶揄したような「頭の悪い」連中がくだらない噂話のたねにしたり、聞こえよがしに嫌味やあてこすりを言ってくるぐらいのことで済むのではないかと思ったけれど、問題はしのりんの方だった。
彼女の場合、単なるからかいだとかで済まない可能性が非常に高い。いくらあの茅野がそばにいてくれても、今後、陰湿ないじめやいやがらせがしのりんを襲わないという保証はどこにもないのだ。そう思うと、僕は
もし、このことをしのりんが田舎に居てすでに知ってしまっているなら、今、彼女はいったいどんな気持ちでいることだろう。
それを思うと、僕は夕食の準備をしながらも気もそぞろで、気がつけば何度も食材を刻む手が止まっているのだった。当然、食欲なんてほとんど湧かなかった。
食事が終わってからまた急いで自分の部屋に戻って閉じこもり、スマホでしのりんに連絡してみる。
でも、結果はずっと同じだった。
蒸し暑い、夏の夜。
エアコンの効いた部屋の中で、僕はひとりベッドの上で、じっとりと嫌な汗をかいて膝を抱え、呆然と壁を眺めているしかできなかった。
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