◆ターニングポイント
*友達
それから一年後、十歳となったベリルを一人の男が怪訝な表情で見下ろした。
「こんな子供に?」
少ない自由時間を過ごす部屋に案内された男は、三十代後半と思われる精悍な顔立ちに色あせた金色の髪、深い海の瞳をベリルに向けて眉間のしわを深く刻む。
「よろしくお願いします」
歳不相応の感情の見あたらない表情に丁寧な物言いは男の違和感を誘う。そんな少年に促されるように向かったのはトレーニングルーム、数々のマシンや格闘するための畳が敷いてある。
今日は顔合わせだけだと聞いている。どのような機材があるのかもチェックしろという事なのだろうか。
ブルー・ウェルナスはアルカヴァリュシア・ルセタの軍にいた。彼は小柄という訳でもないが格闘だけでなく、戦術にも優れているとその腕を買われて政府に招かれ施設を訪れた。
そもそも軍人に拒否権などなく、拒否したければ軍を辞める他はない。
政府は初めからブルーを辞めさせる気は無かったのだろう、施設に足を踏み入れてから国家機密のプロジェクトだと彼に暴露した。
軍を辞めた所で幽閉される事は明らかだ。逃げ道を断たれたブルーは要請に従う他はなかった。
「ブルー教官」
「なんだ」
教官ね──自分の呼び名に口角を吊り上げる。
「私の事はなんと」
「うん? 天才少年だろう」
不可解な質問に男は怪訝な表情を浮かべた。
上からは「キメラ」という名を聞かされたが、ベルハース教授は少年の事を「ベリル」と呼んでいた事で、何かの
しかし、少年はそれ以上は何も言わず置いてあるマシンに手を滑らせていく。まるで新しい玩具を与えられた子供のように、その瞳だけは輝いていた。
そこに狂気性は垣間見えず、少年の瞳の輝きは何なのだろうかと男は眉を寄せる。顔見せだけのため、ブルーはそのまま自分の部屋に戻るように指示された。
──次の日、
「なんだか嬉しそうね」
アリシアは鍵盤を弾く少年に声を掛けた。
「今日から本格的に戦術を学ぶんです」
「戦術を?」
「暴力が好きという訳ではありません。そういうものに興味があるだけです」
驚いたアリシアを安心させるためなのか、少年は彼女を見上げて答えた。少年の演奏は今やプロにも引けを取らない程に上達し、私が教える事はもう無いんじゃないだろうかと戸惑う事がある。
それでもやはり、ただ一つだけは込められていないものがあった。それはおそらく、表現者において技術よりも重要な要素だ。少年にそれをどう教えればいいのかアリシアは未だにその答えを出せないでいた。
そんなアリシアの意識を感じ取ったのか、少年は演奏の手を止める。
「どうしたの?」
「心が無いのでしょう?」
ぼそりとつぶやいた言葉に目を見開く。
「いくら譜面通りに、指示通りに弾いたとしても、これでは人の演奏とは呼べない」
鍵盤に指を乗せ愁いを帯びた小さな笑みを浮かべて顔を伏せる。
「ベリル……」
この子は自分の演奏に何が足りないのか解っているんだわ。それでも、それを吹き込むことが出来ない。
方法を知らない訳じゃない、感情を持たない訳じゃない。なのに、それを込めることが出来ないんだ。
アリシアは、喉を詰まらせて震える手を押さえた。
十歳になって以前よりも気さくになったように感じたアリシアだが、少年の持つ雰囲気は以前よりも神秘性を高めていた。
触れられる距離にいるのに、より遠くなっていくように思えた。
ここでの生活は今までに比べれば快適という訳にはいかなかった。敷地の外に出る事は許可されず、友人との連絡も制限されている。
しかし招待された専門家たちに不満は無かった。何故なら、自分たちの知識をあっという間に吸収する少年が面白くてたまらなかったからだ。
時折、得体の知れない少年に恐怖する事はあったが、彼らはそんな恐怖心さえも好奇心にすりかえた。
「大丈夫よ、少しずつやっていきましょう」
「はい」
励まそうとするアリシアに笑みを返す。
そろそろレッスンも終わりに近づく頃、少年はガラス張りのドアの向こうで、足早にこちらに向かってくる人影を視界に捉えた。
珍しくレッスンから目を離す少年の視界の先を見やると、一人の青年が躊躇いながらドアを開く姿があった。
スライドドアの速度にも遅さを感じているように慌てている。落ち着いた青みがかったグレーのスーツは彼の人の良さを物語ってもいるようだった。
「年に一度の視察です」
「ああ……。それじゃあ。また明日ね」
今まで一度も視察と顔を合わせた事が無かったが政府からの視察があるのは当然かと納得して立ち上がり、青年と横切る時に軽く会釈をした。青年もおどおどした仕草で会釈を返し遠ざかるフレアスカートを見送る。
視察が来る時は必ずベルハースが一緒にいた。しかしマークにだけはそれもなく。以前、自分の名を視察員の前であげた事に少年は驚いた。
何かの意図があるのだろうか。ベルハースの考えている事を少年は図りかねていた。
「……えと」
ピアノの椅子に腰掛けて、じっと見上げるベリルに戸惑いマークはぎこちない笑顔を浮かべた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
先に口を開いたベリルに緊張気味に応えながら少年の笑顔にホッとする。彼は人工的に造り出されたがロボットじゃない。笑うのは当たり前だろうに、少年の笑顔に歓喜の声が出そうだった。
楽譜をまとめてファイルに仕舞いピアノを閉じて歩き出す少年にマークは慌ててその後ろを追いかけた。
「珍しいですよね」
「え?」
「私という存在は」
振り返りマークを見上げた。相変わらず感情の読み取れない瞳はマークにさしたる期待はしていないのだろう。
「そ、そりゃあ、まあ」
唐突に問いかけられて思わず答える。ここで、「そんなこと無いよ」と言うのもマークには躊躇われた。
「あなたはいい人です」
「え?」
意外な言葉が返されて驚くマークに少年は柔らかに笑う。
「今までの視察に、私は人として見られませんでした」
続けられた言葉に目を丸くしたマークに笑みを苦くする。
「品種改良した犬や猫と大差ない」
「そっ、そんな訳──無いじゃないか」
マークは頭に鈍器で殴られたような衝撃を受けた。自分もこの子をそう見ていなかっただろうか、彼らと同じ視線でいたかもしれない。
人工的に造られた生命、それでも心は存在する。それは今までのやり取りで充分に解ったじゃないか。
僕と違ってとても落ち着いているだけなんだ、この子は紛れもなく人間だ。思えば、ここにはこの子と同じ歳の友達がいない。皆、大人ばかりで少年と楽しい会話を交わすだけの人がいないじゃないか。
マークは決心したようにきりりと目を吊り上げた。
「僕と友達になろう」
突然の言葉に少年は小首をかしげた。
「友達だよ。今から僕らは友達だ」
「友達?」
満面の笑顔で右手を差し出したマークに戸惑いながらも同じように手を差し出すと、その手をしっかりと掴んで左肩をポンと叩いた。
初めての事によく解らぬまま笑みを返す。
「おっと、そろそろ次の講義だっけ?」
「はい」
「じゃあ、またね」
マークは手を振ってベリルの後ろ姿を見送った。
──これから本格的に戦術を少年に学ばせる前にブルーは科学者たちに呼ばれて研究室を訪れた。
A国の兵士だった彼には、置かれている道具も紙に書かれている内容も解りようがなく、ここで待つように言われ目の前にある椅子に腰を落として電子音を聞いていた。
あと五分もすればトレーニングルームに向かわなくてはならない。壁にかかっている時計と腕時計を交互に見やった。
そうして、スライドするドアから入ってきた白衣の科学者たちに立ち上がる。
「ああ、そのままで」
老齢の女性ランファシアが優しい口調で発した。ブルーは数人の科学者たちに見つめられ、恐縮する。こんな経験は今までになかったものだから、変に緊張してしまう。
「さて、君はベリルに戦術を教える者だから全てを話さなくてはならない」
「はあ……」
口を開いたベルハースの顔を見上げる。聞いている事を確認すると、ベルハースは男の前に椅子を移動させて腰掛けた。
「君にとっては、とても信じがたい事かもしれんが今から話す事は全て事実だ」
「はい」
妙に慎重な言葉を使っている事にブルーはいぶかしげな表情を浮かべた。一体、これから何を話すのだろうか?
「まず、天才少年だというのは嘘だ」
「え、はい」
驚きながらも応えた男を確認し、理解出来るように崩した言葉を使いつつ説明していく。
思いも寄らない話に時折、理解が遅れるのか相づちもなく視線が泳ぐ。それにも急ぐことなくブルーの理解を待ち淡々と説明を続けた。
「──理解してくれたかね?」
「あの子が?」
「これは君だけに話している真実だ。少年の言動には注意していてくれたまえ」
サイモンは念を押すように発すると、科学者たちは再び何かの実験を続けるべく部屋をあとにした。
また一人になったブルーは、定期的な電子音を耳にしながら白い床をじっと見つめた。
「そうか」
なるほど、だからこんな所に閉じこめているのかと納得した。いくらなんでも大がかりすぎる施設に多少の疑問を抱いていた。
全てを隠し、この世に生まれたはずの者までも存在しないというのか。それに反発したとしても、自分に何が出来る訳でもない。
あの子の生きる場所はここしかない。ブルーは腕時計を視界に捉えてゆっくりと立ち上がり、トレーニングルームに向かった。
部屋の中心で待つ少年に近寄る。黒いボディスーツの上は白いシャツを羽織っていた。
「よろしくお願いします」
それに軽く手を挙げて応える。
「まずお前の体力を測る」
「はい」
その瞳には小さな輝きが垣間見えた。たかが十歳、そう思っていたブルーだったが、出てきた数値に目を丸くした。
本当に十歳なのか? 次の指示を待っているベリルを見下ろす。
「主に何を学びたい」
ブルーはしばらく考えたあと、部屋の角に向かった。
「武器と兵法を」
その背中を追うベリルが無表情に答える。角に着くと、そこにあるスポーツドリンクを二本手にして一本を少年に投げ渡す。
「何故だ」
ペットボトルのキャップをひねり、マシンに腰を落とす。
「どう扱えば人は傷つかずに済むのかを知りたいからです」
「ほう」
ただの興味だけでは無かったのかとやや驚く。人の構造に興味もあるのかもしれない。
果たして、自分は他の人間と同じなのか、そうでないのか──精神的な部分ならば、その疑問は理解出来る。しかし、生物的な部分までは計り知れない。
俺たちが思う「人とは異なる部分の考察」とは訳が違うのだから。
見下ろすブルーにベリルは小さく笑んで視線を外した。
「私自身がその
子供らしからぬ切なげな瞳に男は拳を握りしめた。こいつは自分の運命の全てを悟っている。
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