第26話 悪魔となった天空人

 「おっはよー、マスター。ほら早く、起きて起きて」


 リーアは朝から元気に裕也の枕元を飛び回っていた。いつの間にか元のサイズに戻っている。昨夜のことをまだ忘れられない裕也は、リーアとの行為の余韻をつい、思い出してしまう。


 「ああ、おはよう、リーア。その、なんていうか、昨夜はありがとうございました」


 裕也はベッドから起き上がって、リーアに頭を下げた。リーアは裕也の頬を軽くつつくと、いつもの定位置である肩の上に座る。


 「ボク、おかげですっかり元気だよ。嫌なこと、ぜーんぶ忘れちゃった。ほら早くいこ。昨日結局、カクテルしか飲まなかったから、ボク、もうおなかペコペコだよ」


 「ああ、分かった、分かった。せっつくなって。服着るから、ちょっと待ってろ」


 裕也は衣装を整え、リーアとともにヘブンキャッツのロビーへと向かう。先に到着していたエリスとパトラが手を振って、裕也たちを席に招く。


 「おはよう、裕也」


 「おはよう、裕也さん」


 エリスとパトラが挨拶してくる。二人の席にはトレイがのっており、別々の食事がのっていた。どうやら、朝食はバイキング形式らしい。裕也もトレイを持って、用意されている食事をピックアップしていく。


 パンとコーンスープは定番として、ローストビーフやスクランブルエッグなど、ほとんど裕也の元居た世界と変わらないメニューが用意されており、少し多めにとって、席に持って行った。リーアもあいかわらず、裕也たちと同じ量をトレイによそっていく。


 「なんだ、リーア。随分、機嫌いいみたいじゃんか。ちょっと心配してたんだぜ」


 「リーアさん、裕也さんと一緒に寝れて、元気になれたのよね」


 それは確かだが、パトラは昨夜の出来事を、正確には把握してないはず。今のリーアを見れば、想像つくまい。もちろん裕也は昨夜のことを吹聴するつもりはない。


 「さてと、じゃあ今日の予定だけど、とりあえず街をぶらつきながら、シルヴィアさんやゼウシスさんのこと、聞いてみるか。ビネガーのことも知っている人がいたらってことで、どうかな」


 一行は賛成し、食事を終えて、雲の上に浮かぶ朝の街並みを散策する。空の上から見る朝日は、放つ光の加減も相まって、清々しいまでに美しかった。が、情報収集は思うように上手くはいかない。


 「はぁー、やっぱり百年以上も前のことなんか、そう簡単に聞きこめるわけないよな」


 「皆、シルヴィアやゼウシスっていう名前だけは、知ってるのにね。天空人から悪魔になったなんて、ビッグハプニングだと思うけど、時間がたちすぎてるか・・」


 ビネガーについては、名前すら知られていない。しかし考えてみれば、天空人が下界の人間の名前など、覚えてるほうがおかしい。結局、街中での聞き込みはまったく収穫のないまま、夜を迎えてしまった。仕方なしにヘブンキャッツに戻ると、仕事を終えた天空人たちが、カクテルバーでくつろいでいた。


 「あら、あんたたち。どうしたんだい、しけたツラして」


 声の主を見ると、この街に来て最初に出会った天空人、リーフレットさんが裕也たちを手招きしていた。ダメもとで事情を話した裕也だったが、ここで思わぬ返答を得る。


 「シルヴィアとゼウシスか・・本当に仲睦まじい夫婦だったんだけどねぇ」


 「知ってるんですか、リーフレットさん」


 裕也はつい驚きのあまり、声を荒げてしまった。ほかの面々もリーフレットに一斉に注目する。


 「あんたたち、彼らの知り合いなのかい?いや、そんなわけないか。人間にそんな寿命はないわよね。あっても、爺さん婆さんになってなきゃおかしいし」


 「実は俺たち彼らの娘、ルーシィと一緒に暮らしてるんです。それにシルヴィアの弟、ルシファーとも顔見知りで」


 今度はリーフレットの方が驚いたようだ。そうだったのかいと呟くと、ゆっくりとシルヴィアとゼウシスの話を始めてくれた。



*************************************



 「これはすごい発明だわ。あなた、早速、下界の人たちに届けてあげましょうよ」


 シルヴィアは興奮を隠すことなく、ゼウシスの作成した転移装置を手に取る。小型の、個人でつかいこなせる装置で、軽量なため持ち運びも自由だ。


 翼を持たない下界の人々の中には、病気だったり寝たきりだったりなど、様々な理由で思うようにいきたい場所に行けない人間が大勢いる。そういった人たちでも、気軽に好きな場所に行けるようにと作成したものだ。


 ゼウシスとシルヴィアは転移装置を、現在のシスイ王国やアストレア王国のある国々に届けた。人々は大変喜び、遠出の買い物が出来るようになったことや、道中の野盗の心配がなくなったことなどを感謝の言葉として二人に伝えた。


 しかし、ここで人のいい二人には想定していなかった事態が生じる。当時の王族、貴族たちに軍事利用目的で転移装置を使われてしまったのだ。転移装置は、このとき人々を脅かす脅威の兵器となった。ゼウシスは人間にはこの装置の利用はまだ早かったことを嘆き、全て回収して破棄してしまった。


 「おやおや、これはゼウシス殿。この度はとんだ災難でしたな」


 ゼウシスに近づいてくる一人の老人。彼は元々、天空城で宮廷魔術師たちを束ねる地位にあったが、まだ子供だった頃のゼウシスにその地位を奪われ、以来憎み続けていた。


 「いえ、グビール殿。全ては私の不徳の致すところ。平和な暮らしをしていた人々には申し訳なく思っております」


 「気にすることはありませんぞ。そうだ、久しぶりに当時の宮廷魔術師たちを集めて宴でも催しましょう。もちろん、主賓はゼウシス殿です。当然、参加されますな」


 ゼウシスは心に嫌な予感を覚えたが、断ればより面倒なことになるに違いないと判断し、同意した。妻シルヴィアを連れて、宴の会場に参加するゼウシス。シルヴィアのお腹の中には、この時すでに子供を宿しており、男の子だったらペルシウス、女の子だったらルーシィと名付けようと二人の間で決めていた。


 「いやいや、ようこそ、おいでくださいました。奥様も相変わらずお美しい。ささ、どうぞ、こちらへ」


 グビールはゼウシス夫妻を会場の中心へと連れていくと、ゼウシスとシルヴィアにグラスを渡した。


 「それでは、久しぶりの我々の再開と、今後ますますの天空城の発展を祝って、今宵は大いに楽しみましょう。乾杯」


 皆が一斉にグラスに入った酒を飲み干す。シルヴィアは妊娠中だったため、酒は遠慮しようとグラスをテーブルに置いた。ゼウシスがグラスの中の液体を飲み干すと、今まで味わったことのない、不快な感覚が体中を駆け巡った。


 「グビール殿。これは何の酒で・・」


 ゼウシスの視界が歪みだす。口の端から血を吐き出し、その場に倒れてしまった。グラスは砕け散り、シルヴィアは悲鳴をあげる。


 「ふふふふ。よく効くでしょう。それはね、長年、薬剤師や魔導士が研究に研究を重ねて、何度も実験を繰り返して作った、至高の逸品でしてね。人の善意を悪意に変換してくれるという素晴らしいものです」


 ゼウシスの体が、みるみるうちに、どす黒く変化していく。心の中に善意があった分だけ、悪意に変換され浸食されていく。ゼウシスは誰よりも、優しく、賢く、人々のためにあらゆる努力を惜しまない男だった。その心の分だけ、悪意は肥大し、やがてゼウシスは自らの意思を闇に閉ざされていった。


 「に・・げ・・ろ・・シル・・ヴィア・・」


 最後に人としての意志を残して、かろうじてゼウシスが残せたセリフだ。そこから先は、ゼウシスに自我は存在しなかった。周囲の全てが、ただただ憎い。ゼウシスから満ちる強烈な悪意と変化に驚いたのはグビールや彼とともにゼウシスを嵌めようとした参加客たちも同じだった。


 「これは、予想外だ。いかん、逃げねば、我々も巻き添えになる」


 グビールは仲間を盾にして一目散に逃げだそうとする。しかし彼の目論見はそこで潰えた。ゼウシスは、手始めにグビールに魔力をぶつける。グビールは人から魔獣へとその姿を変化させてしまう。


 「ぐ・・ぐぁぁぁ・・くそっ、俺は・・こんなはずでは・・」


 グビールもまた、ゼウシス同様、自分の中に湧いて出る激しい憎悪の感情に飲み込まれていく。グビールはその身を、完全に変化させると、そのまま窓を突き破り、異空の彼方へと姿を消した。


 ゼウシスは今度は、一つの球体を造り出す。球体をぶつけられた、宴の参加者の一人はその場で絶命する。その死体の周りに黒い霧が覆ったかと思うと、霧の中から黒頭巾マントに鉄の爪を装着した怪物が産まれた。


 怪物は次々に宴の参加者たちを惨殺していく。すると、殺された人々も同様に、黒い霧に覆われ、二人目、三人目と次々新たな黒頭巾マントの集団が産まれ始めた。あたり一面が地獄絵図と化す中、シルヴィアは一目散に逃げる。ゼウシスが球体をシルヴィアにも投げつけた。球体はシルヴィアの腕をかすめ、一筋の血が流れだす。


 シルヴィアは怪我のことよりも、球体によって自分も新たな怪物となってしまうのではないかと恐れた。体内にある魔力を全て腹部に集中させ、お腹の子どもだけは、守ろうとする。子供を産んだら、すぐに自分の体も封印しなくては。でもどうやって?


 自問自答を繰り返し、考えに考えた先に行きついた結論は、自分の体を凍らせることだった。自害して命が奪われれば、死後、自分も怪物となる可能性が高い。そうならないようにするには、自分自身の生命活動を永久に停止させるしかない。


 シルヴィアは、最も気の許せる友人であるニースに相談し、暗闇の塔にある転移装置に行くことにした。当時の暗闇の塔の転移装置は、地上と天空城を結ぶだけではなく、利用者の思い描く場所に行くことが出来た。


 シルヴィアは暗闇の塔の転移装置を使って、氷漬けとなった自分を永遠に封印できる、六大魔女を奉る六つの神殿が集う場所に行くことに決めた。正六角形の形をした巨大な広場の各頂点に、神殿が一つずつ用意されている場所だ。


 その後、ゼウシスは人の夢の中に侵入し、殺戮を繰り返す悪魔となる。夢の中で殺された人物は、起きたときにそのままの形で殺される。人々もただ黙っていたわけではなく、英雄とか勇者とか呼ばれる選ばれた者たちが、ゼウシス打倒に向かっていった。


 しかし、どんなに体力や魔力を鍛えぬいたものでも、自分の夢を鍛えることは出来ない。ゼウシスの脅威は、人々の中で最も忌むべき悪魔として記憶に残った。ゼウシスの妻シルヴィアは悪魔の花嫁として、ゼウシスの娘ルーシィは悪魔の子として、人々から憎しみの対象となる。


 その後、ゼウシスは、丁度シルヴィアが氷漬けになった時ぐらいから、姿を現さないようになった。その経緯と理由はいまだ不明のままだ。



*************************************



 「これが私の知ってる全てよ。伝承となってる部分も多いから、本当に全てこの話通りかどうかまでは、責任もてないんだけど・・」


 「いえ、充分です。ありがとうございました、リーフレットさん」


 裕也たちは、リーフレットに礼を言って、それぞれゼウシスとシルヴィアの悲劇を悼む。ルーシィの両親は、やはり元々は素晴らしい人たちだったのだ。でなければ、どうして、ルーシィのような素敵な子供が産まれるだろう。


 ルーシィは街の人々から悪魔の子と蔑まれ、迫害されても、人々を憎まなかった。今でこそ、裕也の取り持った縁もあって、仲良くしてくれる友達にも恵まれているが、それまでの辛さは想像を絶するものだったはず。ルーシィは強く、そして優しい子だ。


 だからこそ、裕也は、自分が怠惰であることも忘れ、ルーシィのためならばと、砂漠の地まで足を運んだ。なんとしても、この親子を再開させてあげたい。裕也は決意を新たにする。


 「さてと、これでシルヴィアさんの居所の手がかりはつかめたな。六大魔女を奉る神殿か。ジェシカかニースなら、何か知ってるかもしれない。後は、どうやって、彼女の氷を溶かすか、だが・・」


 そこで、エリスが思い出したように、裕也の言葉に付け加える。


 「そういえば、ルシファー様は、どうしてシルヴィアさんを助けるのにジェシカとニースの力が必要だって言ってたんだろう」


 そういえば、そうだ。ルシファーは最初に出会ったとき、ジェシカの力を借りたいからと裕也に接触してきていた。まあ、ジェシカの力が必要な理由については思い当たることがある。彼女の持つ瞬間移動の力だ。


 六大魔女を奉る神殿が、通常ではいけないような場所だったとしても、ジェシカなら行くことが出来る。それに実は裕也には場所にも見覚えがある。ルシファーを過去視したときに、六つの神殿がある場所を見た。


 ルシファーの記憶では、そこで目の前でシルヴィアが凍っていく様をみていた。通常の方法で行けない場所ならば、どうやってルシファーやシルヴィアがそこの場所に行ったのかは不明だが、これはルシファーに聞けば済む話。となると、氷漬けを溶かすのはニースの力だろうか。確か、彼女の力は・・


 「ジェシカには瞬間移動の力を借りたいんだと思う。ニースの力はリストア、だったよな?」


 裕也の問いかけに、エリスが記憶を引っ張ってきて答える。


 「ああ、確か能力は、一定時間をさかのぼり、その場にあったものを元に戻す、だったはずだ。ルシファー様がそう言っていた」


 となると、シルヴィアの時間をさかのぼって・・いやいや、凍ったのは、百年以上も前だぞ。一定時間ってのには該当しないだろ。とは言え、六大魔女の力は一つとは限らない。ジェシカだって、瞬間移動の他に、リフレクトという敵に回せばこの上なく厄介な力も持っていた。他にも裕也が知らない力を持っているかもしれない。


 「まだ不明点は残っているが、だいぶ情報が形になってきたんじゃないか?後は、パトラの抱えている問題の方だな」


 裕也が整理した内容に、今度は当事者であるパトラが返答をかえす。


 「ビネガーの件ね。でも、一つはっきりしたことがあるわ。黒頭巾マントは、ゼウシスが生み出した怪物。つまり、ビネガーは何らかの形でゼウシスと繋がりがある」


 そこまで話がまとまったところで、裕也の顔が青ざめる。裕也はパトラにビネガーの件を手伝うと約束して、いや、約束させられてしまったのだ。それは即ち、夢の中に侵入するとかいう、おっかなびっくりの悪魔、ゼウシスとも戦う可能性が出てきたということ。


 「あ・・あのですね。パトラ。いや、パトラさん。俺、いや、ボク、ビネガーは必ずしも倒さなくてもいいんじゃないかなぁ・・なんて、思ったり、思わなかったり・・」


 「何を言ってるんですか、裕也さん。私は、私の国はビネガーにどんな目に遭わされるか分からないんです。それにビネガーは私を妾にしようとしているんですよ、いえ、でも、裕也さんには元々、関係ないことですよね、それでも、私は・・」


 だぁーっ。パトラに泣かれたら、絶対に断れない。断れるわけがない。ああっ、くそっ。この状況は将棋やチェスでいう、詰みの状態。裕也はどうあっても、ビネガーとの戦いに巻き込まれてしまう。


 「くそっ、畜生。ビネガーだけでも厄介なのに、ゼウシスとか無理ゲーすぎるだろ。夢の中に侵入する悪魔だぁ?そんなの、どうしろって言うんだ・・あっ」


 言いかけて、裕也は一つだけゼウシスに対抗できる可能性を思いついた。暗闇の塔にいたサキュバスクイーン。彼女もまた夢を操る悪魔だった。しかし、彼女はもう暗闇の塔にはいない。いや、別にクイーンじゃなくてもいい。サキュバスなら、夢と対抗できる力があるかもしれない。


 「パトラ、楽観視できるわけではないが、もしかしたら、対抗できる手段はあるかもしれない」


 裕也の発言に、今度はパトラの方が驚く。彼女自身、今のリーフレットの会話を聞いて、ビネガーがゼウシスと繋がりがあるなら、打開策など持ちようがないと思っていたのだ。


 「本当ですか、裕也さん」


 「確実じゃないぜ。むしろ希望的観測ってやつに過ぎないかもしれない。だが、賭けてみる価値はあるはずだ」


 パトラは改めて裕也を見る。そこにはいつもと変わらない、普段通りの裕也の姿がある。


 ・・ああ、この人は、本当に分からない人。臆病で、頼りなくて、でも優しくて、そして、私が知る強さとは別の種類の強さを内包している人。


 「それでこそ、裕也だぜ。なんか面白くなってきたじゃねぇか」


 エリスがはっぱをかけてくる。裕也は内心では、そんな恐ろしい悪魔、戦わずに済むなら放っておきたいんだけどなぁと思ってはいるが、流石にこの状況で口に出す必要もないだろう、と思い直す。


 「よしマスター、その作戦、いってみよう」


 リーアが締めをくくった。ちょっと待て、リーア。おまえ、絶対、俺が何考え付いたか、分かってないだろ。ノリで言ってるだけだよな。まあこれも慣れたものだと、リーアの好きにさせることにした。


 裕也は内心では、もうこれ以上、厄介事が増えないことを祈りながら、しかし、その一方でゼウシスがルーシィの父親であることも考慮してしまう。最高の望みとしては、シルヴィアに加えて、ゼウシスまで救い出し、ルーシィと再開させてやることだ。だがさすがに難易度が高すぎる。まずは自分の手に負えるところから始めるか。


 「細かい方針はこれから考えるとして、とりあえず、シスイ王国に帰るとするか」


 「雲の上の街なんて、そう滅多にこれるもんじゃないから、もう少し滞在していたい気もするけどね」


 すると、リーフレットさんが、古ぼけて、ところどころ錆着いた小さな箱を渡してくれた。


 「これは?」


 「さっきの話に合った転移装置。その試作版よ。あいにく完成版みたいに、何処へでも行けるというわけじゃないんだけど、この街と、暗闇の塔の一階を自由に行き来できるわ」


 おおっ、助かる。あんなメンドクサイ塔、いちいち行き来してられるかって思ってたんだ。帰りをどうしようかも悩みどころだったし。


 「ありがとうございます、リーフレットさん」


 「ふふ、いいのよ。ルーシィちゃんに宜しくね。今度来た時は城下町だけじゃなく、城の中も見ていくといいわよ」


 裕也たちは、天空城の城下町を後にし、シスイ王国へと戻っていった。



*************************************



 「ここ、本当にシスイ王国なのか・・」


 たった数日前に訪れた国と、本当に同じ場所なのか思わず目を疑ってしまった。街のあらゆるところには、威張り散らした兵たちがうろついており、街の人々は兵が歩くたびに、地面の端によって頭を下げていく。


 子供のすすり泣く声が聞こえて、民家をのぞき込むと、胸に大きな傷をつけた女性がベッドの上に寝ている。服からにじみ出る血はどす黒く変色しており、見るのも痛々しい。裕也は考えるより先に、民家のドアを開けて女性の前に立った。


 「待ってろ、すぐに治してやる」


 今のところ過去視の力を除けば、唯一、裕也が使える魔法、ヒーリング。しかし、こういう場面でこそ役に立つ。塔からここまでの砂漠の旅の疲れなど、今はどうでもいい。


 女性の傷が癒えていく。かろうじて、命と意識があったのが幸いした。女性自身、元々体力のある人物だったと思われる。それまで、すすり泣いていた、幼い少年が裕也の側に駆け寄り、礼を言う。


 「一体、何があったんだ。なんでこの人はこんな傷を負った?モンスターか野盗にでもやられたのか?」


 裕也が尋ねると、子供は首を横に振って、裕也の袖を掴む。


 「違うよ。ママはビネガーに妾になれって言われて、断ったんだ。そしたら、黒頭巾のマントをつけた奴が、ママの胸を貫いて、ぼく、怖くて何も出来なかった。ママが傷つけられた瞬間を見ていたのに、その場を動くことが出来なくて、それで・・」


 「分かった。もういい。悪いのはお前じゃない、ママの胸を貫いた奴と、そんな状況を作り出したビネガーって奴だ。お前の母さんは俺が治した。安静にしていれば、じきに起きあがれるようになる」


 「本当、お兄ちゃん、誰?魔法使いなの?」


 「いや、俺の魔法なんて、実は微々たるもんなんだ。お前の母さんが、元々強かったから、おそらくはお前のために、まだ死ぬわけにはいかないって頑張って、怪我と戦ってたから、俺が助けに来るのに間に合ったんだ」


 裕也は少年の頭にポンと手を置く。パトラが少年の小さな手を両手で握って、少年の前にしゃがみ込んだ。


 「ごめんなさい。お姉ちゃんが、不甲斐ないから、あなたのお母さんをこんな目に遭わせてしまったの。お姉ちゃんが、もっと強ければ、もっとしっかりしてれば、こんな事には・・」


 パトラは少年とその母親に、ひたすら謝罪を続ける。エリスがパトラの肩にそっと手を置く。パトラはこの時、あることを決意した。自分一人が犠牲になることで、この子供や母親の悲劇を繰り返さないで済むのなら、安い買い物だ。


 「裕也さん。それにみんな。ここでお別れよ。私、行かなくちゃ」


 突然のパトラの言動に驚く一同。裕也がパトラの前に踊りでる。


 「急に何言いだすんだ、パトラ。ビネガー倒すんじゃなかったのか?」


 「ふん、あなたに何が出来るの?砂漠や塔の雑魚モンスターすら相手に出来ない弱者が調子に乗らないで。とっとと、こんな国、出てった方が身のためよ。シルヴィアさん助け出して、せいぜい幸せな暮らしを送ってなさい」


 突然のパトラの変貌に裕也は、激しく狼狽する。嘘だろと呟き、近寄る裕也を、パトラは思いっきり蹴り付け、吹き飛ばす。何をするんだと叫ぶエリスの喉元に、素早く短剣を押し当てた。


 「あなたたちの力量なんてそんなものよ。それで、何が出来るの?笑わせないでよ。ちょっと気まぐれで旅に同行してあげたからって、気安く仲間づらされちゃ、かなわないわね」


 パトラはそのまま、裕也たちを残して、傍に止めてあった馬に一人乗り、駆けて行った。これでいい。裕也たちまで巻き添えにするなんて、自分が間違っていた。私一人がビネガーの妾だろうが何だろうが、なってしまえば、政治には携わることが出来る。


 裕也もリーアもエリスもこの国の人間ではない。わざわざ、悲劇に巻き込む必要なんてない。これまで、王女として育ってきたパトラにとって、裕也たちは、自分が素の一人の人間として、ごく普通の友人として接することが出来る貴重な存在だった。だからこそ、こんな危険に巻き込みたくないと思った。


 塔で裕也を誘ったときは、裕也が剣や魔法の相当な使い手で、その実力を隠しているだけだと思っていたからこそ、ビネガーに対抗する切り札を得たと喜んだ。しかし、今では裕也は本当に剣も魔法も得意でないことを知っている。しかも、ビネガーの裏には、人々が恐れおののく強力無比な悪魔の存在まであるのだ。


 エリスなら戦力にはなるかもしれないが、彼女についても自分の国の危機に巻き込みたくないという点で同意だった。エリスはパトラが王女ではなく、一人のごく普通の女性として気を許せる女友達だ。


 彼らには今のパトラの言動と行為で、愛想をつかされてしまったに違いない。でも、それでいい。私のことなんて忘れて、平和な国で幸せに暮らしてくれるのが、私にとっても幸せだ。パトラは、気の許せる友人たちを一度に失った痛みを感じながら、ビネガーのもとに駆けて行った。


 


 

  


  


 


 


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