スープの香りとともに

小峰綾子

第1話

仕事帰り、へとへとになって最寄り駅に降り立つ。私、伊野律子は22歳。今年の4月に新卒入社で不動産の会社に入ったばかり。時計は22:05を指している。お腹はすいているが今から家で何か作る気力はない。しかし若干ストレスも溜まっているため勢いでがっつり食べたい気もする。牛丼屋のテイクアウトにするか、ファミレスでハンバーグセットでも食べるかと考えていたところ、見慣れない看板が視界に入ってきた。


「ラーメン きまま屋」


周囲にはスープのいい香りが漂っていて、店内を除くとカウンター10席ほどのうち半分ぐらいが埋まっている。あれ?新しくできた店かな?この近くに引っ越してきたのは3月半ば。この道はほぼ毎日通っているはずだった。看板もそこそこ目立っているし何よりこんなにいい香りがしているのに2か月間私は全く気付かなかったのだろうか。

グーーーとお腹が鳴る音がした。この時間に食べるものとしてはハイカロリー気味であるが、空腹はもう限界だった。思い切って引き戸を開け、券売機で「ラーメン」と「ネギ」を購入して、手前にいた店員さんが案内してくれた席に座った。5分ほど待って運ばれてきたラーメンは、魚介出汁の透き通ったスープ、黄色いちぢれ麺を使ったあっさり目のものだった。飛び込みで入ったお店なのにとてもおいしい。しかも自宅から徒歩5分の距離。あっさり味のスープは残さずに全部飲み干すことができた。仕事で溜まっていたストレスもひとまず忘れて幸せな気持ちで帰路についた。

その後私は「きまま屋」には週1ペースぐらいで通うことになる。本当はもっと通いたいぐらいなのだが「一人でしょっちゅうラーメン屋に来る女」として店員さんに覚えられるのも恥ずかしいと思い週一で留めている。

 

そして6月も末の梅雨真っ最中の水曜日の昼間。その日は休みで、買い物帰りに休憩しようと駅前のチェーン店のコーヒーショップに入店した時だった。コーヒーをトレーに載せて席を探していると、奥の席に見覚えのある男性が座っていた。たぶん知っている顔なんだけど思い出せない。男性から少し離れているが視界には入る位置に空席があったので席に着いた。読みかけの本を読んでいるがふと顔を上げた時に視界に彼が入る。彼はノートパソコンを広げて何か打ち込んでいる。友達や知り合いの類でこの近くに住んでいる人はいないし、でも顔を知っている人なのだから定期的に行く場所にいる人なのか・・・駅前の本屋?いや違うな・・・・あ、きまま屋の店員!ようやくピンときた。仕事中向こうはタオルを頭に巻いてTシャツを着て腰にはエプロン、という格好なので私服だと雰囲気が違ったのですぐに思い出せなかったのだろう。そんなことを考えていたら彼は帰り支度を始めて、颯爽と店を出ていってしまった。よく見ると結構イケメン。シュッとしているし、服装もそれなりにおしゃれである。半袖の白ベースのワイシャツに中はTシャツ。細身のジーンズにコンバースのスニーカーというカジュアルな格好であるが清潔感がある。割と好みのルックスであったので少しときめいた。

次に気まま屋に行ったとき彼がいたので、思い切って話しかけてみた。

「このお店っていつできたんですか?」ラーメンを持ってきたときに突然声をかけられて彼はちょっと驚いたみたいだった。

「あ、あの私この近くに住んでて、このお店見つけたのが一か月とちょっと前ぐらいだったんですけど。新店舗なのか私が気づかなかっただけなのか。どっちかなって」

聞かれたことを頭の中でちょっと整理したらしき彼は笑顔で

「ああ、4月1日オープンなんすよ」と答えてくれた。

ああ、なるほど。だから気づかなかったのか。4月といえば慣れない生活と覚えなければいけないことに忙殺されていて、周りの景色を見ている心のゆとりもなかった。満開の桜にも気づかずいつの間にか葉桜になっていたぐらいである。そんなだからこの店のことも気が付かなかったのだ。

「最近よく来てくれてますよね」

「はい。本当はもっと来たいんですけど、女一人でラーメンって寂しい奴と思われるかなと思って」

「全然、女の人一人で来る人普通にいるからそんなこと思わないですよ」

あれ?初めてまともに話すのに結構会話できてる?

その後「伸びないうちにどうぞ」と言って照れたように彼は去っていった。良かった、話もできたし、何より顔を覚えてくれていたのが嬉しい。まあ、一人でよく行ってると気づかれてはいたけど・・・でも変に思われてはいないことは分かった。むしろもうちょっと来るペース増やそうかなと思いながら今日もラーメンをスープまで平らげた。


次の週の水曜日、例のカフェに行くとまた彼が同じテーブルに座っていたので声をかけた。向こうはちょっとびっくりしていたが「あ、一人ですか?」「隣来ます?」と言ってくれた。ちょうどパソコンの作業が一段落したところらしく、こちらもちょっと暇つぶしと思って入っただけだったので(彼に会えるかもという期待もあったことも否めないが)しばらくおしゃべりをした。彼は「西山」という苗字で、20歳。私より2つ年下。隣駅に一人暮らしをしていること、調理師免許を取りたいと思っていて経験を積むためにとりあえずしばらくはきまま屋で頑張るつもりであること。このカフェには本を読んだりブログの更新のために休みの日やきまま屋の遅番の日に立ち寄っていること、ブログは「ラーメン食べ歩き」が主なテーマで、勉強もかねてラーメン屋にいろいろ行って感想を書いているとのこと。

すごくおしゃべりというわけではないのだろうけど、淡々としてながらもたまに笑える話を入れてくれるあたり、とてもセンスがいい。

「今日はお休みなんですか」よかった私のこともちょっとは興味もってくれてるみたい、と思いつつ少しづつ自分のことも話す。「私、不動産の会社で働いてて、この業界って水曜とか木曜が休みなの。」「ああ、だから土日でもスーツで店にくるんだ。どうですか?会社って。この間まで学生だったんですよね。やっぱり大変ですか?」

「うーん。今はまだ働いてるっていう実感がないかな。まだ自分一人でできることなんてないに等しいし。あと、休みが平日だと友達と会えないんだよね。正直それが一番きついかなあ」

「じゃあ、暇なときとか誰でもいいから話したいみたいなとき連絡してもらっていいですよ」あまりにさりげなかったので何を言われてるか一瞬分からなかった。

「え?いいの?」

「家も近いし、うちの店の常連さんですし。俺もこの辺で友達まだいないし暇なときとか連絡するかもです。あ、ライン教えてもらえますか?」

単なるサービストークである可能性はあるが向こうから連絡先を聞いてくれるなんて!うれしくてにやけそうになるのを抑えてラインのIDの交換をした。


連絡先を聞いてくれたのは単なる社交辞令ではなかったようで(うれしい)特になんてことない内容でも向こうからメッセージが来たり、こちらも帰りの電車で仕事のちょっとした愚痴を書いたり、職場の近くでラーメン屋に入った時に写真を送ったりする関係が続いた。

『今日は7時過ぎから激混みで休憩行けず。ようやく夕飯。やばい』


『お疲れ!支店長にまた嫌味言われた。禿のくせにうるさいっつの、もっと禿げればいいのに。』


『うまいラーメン食ってとりあえず落ち着いたら?今は混んでないですよ』


『そうだよね。行こうかな』


こんな感じで気軽にメッセージのやり取りをできるぐらいになっていった。

私がようやく仕事に少しづつ慣れて余裕ができ、西山君と毎日のようにラインのメッセージのやりとりをするようになった9月半ば、大学時代のサークル仲間の友恵から連絡が入った。

「秋山が体壊して仕事に行けなくなったみたい。会社辞めるかもしれないって。」

友恵は大学時代に入っていたサークルの友達、秋山もその仲間の男子である。大手広告代理店に内定が決まったときはとても喜んでいて、同学年の中では一番の人気どころに就職ということでお祝いの飲み会を開いたのがついこの間のことのようなのに。

秋山と会って話をしてきたという須田の話によると、休みもあまりとれない状態、毎日終電まで働いて、先輩や上司からも厳しくされ、慣れない仕事を必死でこなしていたが8月なかばぐらいから朝起きられない日が多くなり、最近はずっと仕事を休んでいたそうだ。何かあればまた連絡するということだったそうだ。

そんなメッセージを読みながら帰りの電車の中で、流れていく景色をぼんやりと見ながら考えていた。私は幸い、仕事に行けないとか朝起きられないぐらいしんどいとかそういうことにはなっていないけど、全然他人事だとは思えなかった。実際に4月5月はそれこそ近くにラーメン屋ができたことすら気づかないくらい周りが見えてなかったわけだし。たまたま同僚や先輩にも恵まれ、まあ・・・支店長はむかつくけど・・・仕事は嫌いではない。そして仕事に疲れたら気まま屋のラーメンを食べに行く。たまに西山君に愚痴を聞いてもらったりもできる。それがどれだけ私にとって救いだったことだろう。

そして私は、気が付いたらラインの画面を開いて、西山君とのトーク画面にアクセスしていた。

「大事な友達がね、働きすぎで体壊してしまって。明日は我が身と思ったら、怖くなってしまって。ごめんね、こんなこと言われても、困ると思うんだけど」

返事はすぐにきた

「今どこですか?俺はさっき仕事終わってちょうど帰ろうとしてたところです」

彼は気まま屋の前で待っていてくれた。どこか店とか入りますか?と聞いてくれたけどそういう気分でもなかったしお酒が飲みたいわけでもなかった。

歩いて1分くらいのところにある公園で話をしよう、と言ったら黙ってうなずいてくれた。

ベンチに座って今日聞いたことを話していたら涙が出てきた、こんな、気になる人の前で泣くなんて。彼は優しいから私に冷たくできない。それを知ってて利用してるみたい。そんなつもりじゃなかったのに。

そう思った時にはもう抱きしめられていた。彼の見た目よりしっかりした腕に抱きしめられたらなんだかとても安心して、ますます涙が止まらなくなってしまった。


そろそろ冬用のコートが必要かなと思い始めた10月末、須田からのグループラインで報告があった。秋山は10月いっぱいで会社を退職、いったん地方の実家に帰ることになった。実家に帰ったらしばらく家業を手伝うよ、東京のサラリーマンは俺は向いてなかったみたいだし、と言って笑っていたようだ。

さて、私のほうはようやく自分でできる仕事も増えてきて、お客さんの対応や内見など一人でやらせてもらうことが多くなった。

しかし、一つ変化があった。それは・・・きまま屋に行けていない。あの日、しばらく西山君は何も言わず私を抱きしめてくれていた。それでとても救われたし嬉しかったのであるが。後で冷静になってみて恥ずかしくなったのが半分と、秋山のことを口実に呼び出して、目の前で泣いたりしてしまったことへの罪悪感が半分だ。どちらにしてもどの面下げて行けばよいのか分からなくなってしまったのだ。

何より困ったのが「あのラーメン食べたい」という衝動が起きた時で、まあラーメン屋は周辺にほかにもあるので別のところに行ったりもするが結局「おいしいはおいしいけどきまま屋には勝てない」という感想を抱いて終わるという悲しい結果になっていた。西山君からは何回かメッセージは来ていたが、それも返信できないままだ。


その日背中を押してくれたのは意外な人物だった。たまたま休みで家でゴロゴロしていた日の午後、着信音が鳴り「秋山」の文字が画面に出ている。スマホをいじっていた延長でうっかりすぐ取ってしまいたじろいだがすぐに「律子~?」という声が聞こえた。

「ああ、秋山?ど、ど、どうした?」

「なに、そんなビビんなって。俺はもう普通だよ。大丈夫だって。今、実家返る前に一応みんなに連絡しとこうと思って。伊野は平日休みだっていうからもしかしたら電話出るかもしれないと思って。」

秋山は思ったよりは元気そうな声なので安心した。電話の最後

「自分で言うのもなんだけどさ、まだ若いから何とかなる。できることをやっていこうってさ。思うんだ。伊野も、自分のことと、あと自分のことを大事にしてくれる人のことちゃんと大事にしたほうがいいよ。」

「うん。そうだよね。なんか元気出たよ。大事にする。ありがとう。」

「お?なんか響いたのかな?まあいいや。また東京には時々遊びに来るからその時は付き合ってよ。」

「もちろん。元気でね。」

そうだ、変なこと気にしてる場合じゃない。あの時ちゃんと抱きしめてくれたんだから。

思い立ったら吉日で、私は西山君に連絡をして、これもまたタイミングよく向こうも休みとのことで、またあの公園で会うことになった。

私の少し後に原付でやってきた彼は少し髪が伸びていた。私好みのヘアスタイルではあるけどラーメン屋さんとしては少し邪魔なんじゃないか、と思う長さ。

「きまま屋来ないけど、あの味に飽きちゃった?」笑いながら彼が言う。

「そんなわけないよ。大好きだよ。今すぐ食べたくてしょうがないよ。だからまた、きまま屋に行けるように、今日は言わなきゃいけないこと言うから」

「分かった」急に真顔。ドキッとする。私はひるまないように深呼吸した。

「抱きしめてくれたのはすごくうれしかった。これは本当。でも友達が体壊した話を利用したみたいで、すごく後ろめたかった。だからごめんなさい。」

彼はまた、うなずきながらも黙って聞いてくれていた。

「でも、できることなら、悲しい話をきっかけにするんじゃなくて。ちゃんと言わなきゃと思って。」

もう一度深呼吸。

「好きです。良かったら一緒に、ラーメン食べに行ったりお茶したり、したいです」

ああ、また独りよがりになってる私。

そう思ったのに。また、ふわっと、あのたくましい腕に包まれる。耳元で、彼の声がする。

「あの時抱きしめたのは、同情とか、泣いてるから仕方なくとかじゃない。あなたが、弱ってるのを利用したのは俺のほうです。初めて、来てくれた日から、好きでした。一目ぼれでした。」

夕暮れの公園。家に帰る鳥たちの鳴き声。漂うラーメンのスープの香りが漂っていた。


さて、西山君への思いが届いて安心した私は、恥ずかしいからと渋る彼にわがままを言い、きまま屋通い復活をその日のうちに遂げたのである。もう我慢も限界だった。久々の、大好きなラーメン。好きな人の隣で。思いを伝えるのにエネルギー使ったので半ライスも付けたけど。彼が、おいしそうに食べるところが好きと言ってくれたので良しとする。今日も、スープ一滴も残さず飲み干すのだ。


Fin


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スープの香りとともに 小峰綾子 @htyhtynhtmgr

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