004 分岐点

「うわっ、うわっ、うわわわわわわわわわっ!」

「何っ!? 何なの!?」

「ひいぃぃぃぃっ!」

 揺れる図書館の中で、あちらこちらから悲鳴が上がる。

 本棚からこぼれ落ちた分厚い本が、その真下にいた中年女性を生き埋めにした。

 立っているのもやっとな揺れの中、司書たちは転倒しないように机や壁にしがみつくのが精一杯で、誰かを助ける余裕などどこにもない。

 セレネの目の前で、目を丸くしたレオンハルトが仰向けに転倒した。

 セレネは咄嗟に背後にいるはずの魔王の腕をつかみ、空いている方の手で椅子の背にしがみついた。

 揺れが止む。ようやく自分の足だけで立っていられるようになった。

 司書たちがカウンターから飛び出し、本に押し潰された女性を掘り出すために走り出す。

 ほっと一息つこうとしたところに、盛大な悲鳴が響き渡った。

「うわあああああああっ! 窓に、窓に窓に! 外にいぃぃぃぃっ!」

 窓際でうずくまっていた青年だ。口の端から泡を吹きながら、震える手で窓の外を指している。

 セレネはもちろん、被害状況を確認するために走り回っていた司書たちの視線も、そちらに集まった。

 再度、巨人の拳で殴りつけられたような衝撃が図書館を襲う。今度はその一度だけだったが、窓が一斉に砕け散った。

 窓際で悲鳴を上げていた青年が引きつった泣き声を上げる。その身体の上に、小さな硝子の破片が降り注いだ。

「あれ? お兄ちゃんたちも居たんだ。また会ったね」

 明るい少女の声がした。

 割れた窓の向こうに、白いワンピースを着た金髪碧眼の少女が浮かんでいる。

 その姿を見て、魔王が低い声で呟いた。

「俺様を追って来たのか」

「違うよー。お兄ちゃんとはまた会うつもりだったけど」

 楽しげに言いながら、少女が窓枠を乗り越えてきた。

 窓際の青年はついに耐えきれなくなったのか、白目を向いて気絶している。

「近くに人間がたくさんいる場所があったから、殺しにきただけだよ。お兄ちゃんに会えたのはたまたまだね。すっごーい」

 前回と同じく、少女の背後には黒い魔力の塊が渦巻いていた。今回はそれに加えて、目を血走らせた魔物を率いている。

 鳥の頭と人間の身体を持つ鳥人。

 青白いを通り越して土気色の顔をした吸血鬼。

 目が吊り上がり、口が大きく避けた妖精。

 宙を浮かぶことができる魔物ばかりだ。だが、これで全てではないだろう。

 図書館の中に入って来たのは少女だけだったが、それでも中の人々は戦慄した。逃げることすらできずに、息を殺している。

 少女は窓際で立ち止まった。足元で気絶している青年をちらりと見て、楽しげに笑う。

「ねえ知ってる? 私の血を飲むとね、魔物はみーんな私の言いなりになるしとっても強くなるの。人間を殺すのに凄く便利なんだよ」

 誰も応えない。歌うように少女は続ける。

「私、人間って嫌いなの。魔物も嫌い。大っ嫌い。殺して殺して殺して、殺し尽くしてもまだ足りないんだ。私以外の何かがいたら、私は幸せになれないから。私は幸せにならなきゃいけないのにね」

 少女の顔が憎悪に歪んだ。顔は笑顔のままだ。

「だから殺すの。私は魔王だから。世界を滅ぼす魔王だから、みんな殺して殺して殺し尽くして、私は幸せになるんだよ」

「違う。お前は魔王じゃない」

 少女の歌の中に、魔王の声が割り込んだ。

「お前は魔王じゃない。魔女だろう? 人間にも魔物にもなりきれない、人と魔物の間の子」

 少女の歌が止まる。顔から笑みが抜け落ちて、憎悪だけが残った。

「魔女って言葉は嫌いだな。どうして魔王じゃ駄目なの? 魔王は世界を滅ぼすものなんでしょう? 私が世界を滅ぼすんだから、魔王で合ってるでしょ」

「嫌いでも何でも、お前は魔女だ。魔王にはなれないし世界も滅ぼせない」

 魔女のことは、セレネも多少知っている。

 魔物と人間の間に生まれた娘。外見は人間そのものであることが多いが、人間には持ち得ない奇特な魔力を持つ。

 人間とは言えず、魔物であるとも言い切れず、どちらからも疎まれ忌み嫌われる存在。

 魔物がその血を舐めれば力を得るが、同時に理性を失い狂うと言う。

(そうか。トトの吸血鬼は、もしかしたら)

 トトの古城に現れた、狂った吸血鬼のことを思い出した。

 理性を失い、「魔王に力を授けられた」と言っていた。もしかしたら、どこかでこの少女の血を吸ってしまったのかも知れない。

「セレネ」

 魔王の手が、セレネの腕に触れた。

「手を離せ。俺様なら大丈夫だ」

 そう言われて、セレネはそれまで魔王の腕をつかんだままだったことに気がついた。

「ああ、失礼しました」

 そう答えたものの、セレネは手を離せずにいた。

 どうも嫌な予感がする。これから魔女と戦うのなら、片手を封じたままではいられない。だが、それでも魔王の手を離してはいけないような気がしていた。

「片手で相手できる相手じゃない。大丈夫だから、離せ」

「…………」

 渋々手を離すと、魔王はセレネの脇をすり抜けるようにして前に出た。

 すれ違い様に、魔王が囁く。

「出来るだけ、連れて行く。だから、残りは頼んだ」

「…………っ! 坊や!」

 気付いた時には遅かった。

 呪文どころか手を打ち鳴らす音すらなく、瞬き一つする間に魔王と少女、それから窓の外で蠢いていた魔物の姿が掻き消えていた。

「転移の魔法なんて、初めて見たよ」

 セレネは呆然と呟いた。魔王が魔法を得意としているのは知っていたが、何かをどこかへ転移させるのは初めて見た。

(どうして)

 唇を噛み、ふらふらと引き寄せられるようにして窓際へと向かった。

 周りの人を巻き込まないために、魔女と魔物を転移させるのはまだ理解できる。だが、何故セレネを置いて行ったのか。

 魔王から手を離すべきではなかった。嫌な予感が当たってしまった。

 図書館の人々はとりあえず目の前の脅威が去ったことに安堵したようだった。これからどうするべきか、途方に暮れているような人もいる。

 窓の外には、不気味な紫色の雲が広がり、時折青白い稲光が走っていた。これで黒い城が目の前に浮かび上がってきたら、いつか魔王が言っていた男の浪漫そのものだ。

 実際に浮かび上がってきたのは、街の中を我が物顔で走り回る魔物の姿だった。

 額に三つ目の瞳を持つ灰色狼の群れや、鋭い爪を振り回して威嚇する人喰い熊の影が見える。

 既に避難勧告が出されているのか、魔物に追われて逃げ惑う人の姿は見えなかった。剣や槍を手にした自警団員や、神聖魔法の使い手らしき神聖教会の使者が、魔物相手に奮闘している。

(ああ、それで)

 魔王はセレネを連れて行かなかった。残りを頼むと言っていた。つまり、彼らに加勢してリベイラを守れということなのだろう。

 窓枠に足を掛ける。地下三階、地上五階の四階の位置だ。下を覗き込むと、地面はずいぶん遠くに見えた。このまま飛び降りたら怪我では済まないだろう。

 だが、呑気に四階分の階段を降りる気にはなれなかった。それでは間に合わなくなる可能性がある。

 強化魔法さえ使えば、この程度の高さならば問題ない。強化魔法を解除した時に、あちこち骨折することになるだろうが今更だ。

(一時間じゃ終わりそうにない。解除したらどのみち死ぬんだから、まあ良いかな)

 できれば、苦痛をあまり感じることなく死にたいものだが。それは贅沢か。

 窓枠を乗り越えて、セレネは空中に身を躍らせた。背後で誰かが盛大に悲鳴を上げる。

 地面に叩きつけられる前に、セレネは小さく呟いた。

「戦女神よ、哀れな黒騎士に祝福を」

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