英雄の章

001 魔王襲来

 レオンハルトは、いつか自分は英雄になるのだと思っていた。

 上級貴族の家に生まれた彼は、幼い頃から自分には民を守る義務があるのだと自覚していた。レオンハルトの上には三人の兄がいて、自分が家を継いで実際に庶民を護ることはないとわかっていたが、それでも貴族として生まれたからには民を護るのは己の義務だと信じて疑わなかった。

 むしろ、家を継ぐ必要のない四男だからこそ、英雄になれるのだ。

 領地を守る義務がある父や長兄は気軽に街から離れられないが、レオンハルトはそうではない。

 もし世界を滅ぼす魔王が現れたのなら、身軽な自分が立ち上がらねばならないと思っていた。

 人々を護るための力を得るために、レオンハルトは貪欲に様々なことを学んだ。

 剣術。魔法。兵法。政治や歴史についても。

 だから、神聖教会から「正義の神アスタのご神託により、レオンハルトが次の英雄に選ばれた」という知らせが届いた時、彼は驚かなかった。むしろ遅すぎると思ったくらいだ。

 先の魔王が倒されてから十年、平和だった世界に、少しずつ変化が現れていた。

 魔物が村や街を襲うのだ。自警団や神聖教会の使者たちの尽力によって、被害は最小限に抑えられている。だが、魔物に呑み込まれ、跡形もなく消し飛んでしまった村もあるという噂を聞いた。

 それもこれも、全て魔王が現れたせいだ。

 英雄として選ばれたレオンハルトは、一刻も早く魔王を倒す義務がある。

 こうして、レオンハルトの魔王を倒すための旅は始まった。



(一体、どうして、こんなことに…………!)

 ────しかし。

 始まったばかりのレオンハルトの旅は、すぐに終わりを迎えようとしていた。

「ふふふ、もう終わりなの? 英雄さん」

 傷ついた右腕を左手で握りしめ、レオンハルトは前方の魔王を睨みつけた。

 魔王はくすくすと笑いながら、こちらを見下ろしている。

 魔王は、十歳になるかどうかといったあたりの幼い少女の姿をしていた。金髪碧眼で、透き通るような白い肌を持つ可愛らしい少女だ。

 何か魔法を使っているのか、その身体はふわふわと宙に浮いていた。白いワンピースの裾が風に合わせて揺れている。

 少女の背後に、禍々しい黒い魔力の塊が渦を巻いていた。それが、徐々に大きくなっていく。

「英雄の剣を持ってないのに魔王に挑もうだなんて、英雄さんって良い度胸してるよね。自信家さんなの?」

「うるさい」

 レオンハルトの声は、自分でも驚くぐらい震えていた。

 聖都アスタロスタで、正義の神アスタの祝福を受け、それから英雄の剣を探す旅に出るはずだった。

 聖都に向かう道中で、レオンハルトは魔物に力を分け与える魔王の噂を耳にした。魔物の脅威に怯える人々の姿を見た。

 魔王を倒すための英雄の剣はまだ手に入れていなかったが、だからと言ってこのまま放置することはできなかった。

 困っている人々を救えずに、何が英雄か。

 勇んで魔王に挑んだ結果がこれだ。魔王は無傷だ。レオンハルトの剣は白い肌に弾かれ、魔法は発動させる前に全て無効化されてしまった。

 対するレオンハルトは、魔王が放った魔法で利き腕と片足を負傷し、攻撃どころか逃げることすら難しい状態だ。

 唯一の救いは、ここが村や街の中ではなく、人里を離れた森の中であるということか。

 レオンハルトを支え、共に戦ってくれるはずの仲間とは、まだ出会っていない。レオンハルトの無謀に巻き込まれて死ぬ人間がいないことも、不幸中の幸いと言えるかも知れない。

「久々に大暴れできて楽しかったよ。でも英雄さん弱過ぎ。話になんないよ」

 その気になれば、魔王はいつでもレオンハルトを殺すことができただろう。

 周囲の木々は彼女の魔法で吹き飛ばされ、昼でも薄暗いはずの森の中に光が差し込んできていた。

 その光が、魔王が生み出した魔力の渦に吸い込まれて消えていく。

(ここまでか)

 英雄として選ばれた時に、魔王と戦って死ぬ覚悟はしたつもりでいた。だが、実際にその時になってみると、震えを抑えることができなかった。

(せめて、一撃だけでも)

 感覚を失った右手で、レオンハルトは剣の柄を握りしめた。

 魔王の顔から、笑みが消える。

「あれ? まだ諦めないの? さすが英雄さんだねえ。命乞いとかすれば良いのに」

 魔王の背後で、魔力の渦の中心が大きく盛り上がった。黒い光が集まっている。

「身の程を知りなよ、英雄さん。弱虫のくせに生意気」

(何とでも言え!)

 胸中で吐き捨てて、レオンハルトは剣を構えて真っ直ぐに踏み込んだ。

 魔王は避ける素振りすら見せなかった。羽虫を追い払うように軽く手を振っただけだ。

 後頭部に重い衝撃が走る。魔力の塊が見えない拳となって、レオンハルトの頭を殴りつけていた。

 目の奥で白い光が散る。

 前のめりに倒れたレオンハルトのすぐ目の前に、黒々と渦巻く魔力の塊があった。

 森の大木さえ吹き飛ばした、黒い光がレオンハルトに向かって発射される────

「待て待て待てーいっ」

 気の抜けるような制止の声と共に、レオンハルトと魔王の間に割り込むように、半透明の結界が現れた。

「え?」

 魔王が大きく目を見開く。

 魔力の塊から発射された黒い光は、結界に阻まれて霧散した。光が空に溶けていくのと同時に、結界も硝子が割るような軽い音を残して消滅する。

 背後から、足音が近付いてきた。

「ついに見つけたぞニセモノめ! 俺様の目の前で魔王を名乗るとは良い度胸だ!」

「まあそうなんですけど…………雰囲気的にはあっちの方がかなり魔王っぽいですよね」

「何だとっ!?」

「いやいやいやいや、だから雰囲気ですって雰囲気。魔王っぽいってだけであれは偽物だってちゃんとわかってますから、そう怒らないでくださいよ」

 きゃんきゃんと甲高い声で怒る少年の声と、落ち着いた声音の中に苦笑を混ぜた女の声が聞こえた。

 二人の人間が、レオンハルトと魔王の間に割って入る。レオンハルトは地面に転がったまま、その背中を見上げていた。

 レオンハルトの位置からでは横顔しか見えないが、少年の方はまだ十代半ばか、あるいはそれよりも幼いように見えた。魔法使いや神聖教会の使者が好んで身につけるような黒い長衣に身を包んでいる。

 女の方は少年よりも年長で、おそらく二十代だろう。田舎の自警団がよく用いるような黒い革鎧を着て、腰に吊るした剣の柄に右手を置いている。

 女がからかうような口調で言った。

「坊ちゃん、この後どうします?」

「坊ちゃんとか言うな! …………ふむ、そうだな」

「なんだかよくわかんないけど、お兄ちゃんもお姉ちゃんも邪魔。消えちゃえ」

 冷たい殺気を込めた声で、魔王が少年の言葉を遮った。

 そこでようやく、レオンハルトは我に返った。

 この二人を巻き込むわけにはいかない。自分に構わず、逃げるようにと言わなければ。二人が逃げる時間を、稼がなければ。

 動かない身体に無理やり力を入れて、傷ついていない左腕一本で上半身を引きずり起こす。逃げろと叫ぶために、大きく息を吸った。

「消える?」

 少年が、低い声で呟いた。

 魔王よりも冷たく、まるで嘲笑うかのように、

「偽物が、この俺様を殺せるとでも?」

 声を上げようとして吸い込んだ息が、そのままゆっくりと吐き出されていく。身体を支えていた左腕から力が抜け、レオンハルトはずるずると地面に引き寄せられていった。

 女がレオンハルトの方に振り向いた。こちらを見下ろして、にっこりと微笑む。

「大丈夫ですよ。すぐ片付きますから。あと少しだけ、待っていてください」

「あ、ああ…………」

 喉の奥から、空気が抜けるような声が出た。

 それがレオンハルトの返事だと判断したのか、女は再び魔王の方へと向き直る。完全に魔王の方に向き直る前に、一瞬だけ女の笑顔に不敵なものが混ざったのが見えた。

「なにその態度。生意気、生意気、生意気!」

 少年の挑発に、魔王は攻撃魔法で応えた。

 怒りに顔を赤く染めた魔王が、両手を少年に向かって突き出した。

 魔王の両手から魔力の塊が零れ落ちる。地面に落ちた魔力は巨大な黒い刃に変わり、地面を抉りながら少年に向かって走った。

 それを目にしても、少年は鼻で笑っただけだった。身を守るための呪文を唱えることもせず、軽く手を打ち鳴らす。

 魔力の刃は再び現れた半透明の結界に阻まれて、少年に触れる前に砕け散った。

「なっ…………」

「実力の差だ。思い知ったか、ニセモノめ」

 魔王が絶句し、少年は得意げに胸を張る。

 レオンハルトは、ただ呆然としていた。

 魔王もそうだが、この少年は詠唱することもなく結界を展開して見せた。魔法に通じている者で、また相当量の魔力を生まれつき持っている者でなければ、呪文を省略することなどできない。

 ましてや、結界は魔力の量で強度が変化するのだ。

 森の大木を簡単に吹き飛ばすような魔王の魔法を、詠唱なしの結界で完全に防ぐ。

 それを可能とする少年の魔力は、一体どれほどのものなのか。

「次は、殺しちゃうんだからね」

 少年と睨み合っていた魔王が、ぼそりと低い声で呟いた。

 魔王の周りの空間が、不自然に歪んでいく。

「逃げる気かっ!」

 少年が叫ぶのと同時に、隣にいた女が地面を蹴った。

 女は踏み出すのと同時に剣を抜いている。助走の勢いを殺さず跳び上がり、空中の魔王に斬り掛かった。

 魔王が大きく後退し、女の剣は空を切る。

「勘違いしないでよ。逃げたりなんかしないから」

 魔王の足元に着地した女が剣を構え直し、少年が早口に呪文を唱え始めた。

 レオンハルトは相変わらず地面に転がっている。

 三人をそれぞれ見下ろした魔王の輪郭が、少しずつぼやけ始めた。歪みの中に溶けていくように、その姿が薄れていく。

「最期の場所がこんな森の中じゃ、いくら何でも可哀想だもんね。ちゃんとそれらしい場所で、邪魔とか入らない場所で、どっちか本当か確かめようよ。ねえ、お兄ちゃん?」

 魔王は、実に可愛らしく小首を傾げて見せた。

 女が魔王に向かって剣を投げつける。それを追いかけるように、少年の手から光の矢が放たれた。

 どちらの攻撃も魔王は避けなかった。剣は魔王の身体をすり抜け、光の矢は魔王にぶつかった瞬間に砕け散る。

「また会おうね、お兄ちゃん」

 にい、と不気味な笑みを最後に残して、魔王の姿は歪みの中に消えて行った。一瞬遅れて少年の手から飛び出した光の刃が、歪みのあった位置に突き刺さった。

 何一つ傷つけることなく消えていく光の刃に、少年が盛大に舌打ちをした。それからレオンハルトの方に振り返り、すぐ近くで膝をつく。

「大丈夫か? すぐに治してやるからな」

「あ…………う、あ…………」

 額に少年の右手が押し当てられる。その手が淡い光に覆われるのを、視界の片隅で感じていた。

 低い声で、少年が呪文を唱え始める。これはレオンハルトも知っていた。回復魔法だ。

 何か言わなければ。

「どうですか?」

「ああ。あちこちに裂傷やら打ち身やらがあるが問題ない。多少痕は残るかも知れないけどな」

 女の声も聞こえる。そう言えば、彼女にも助けられたのだった。

 まずは何を言うべきか。助けてもらった礼か、それとも自己紹介か。あるいは手を煩わせた謝罪か。

「また会おうねとか言ってましたね、あの魔王」

「自称魔王だろ。あれはニセモノだ」

「ああ、失礼しました。で、その自称魔王ですけど────」

(そう言えば)

 魔王は「また会おうね」と言っていた。レオンハルトではなく、この少年に。

 彼について行けば、魔王がまた目の前に現れるかも知れない。

 今回は手も足も出なかったが、次こそ、次こそは────

「あの!」

 レオンハルトは唐突に声を上げた。

 少年が驚いたように手を離す。

 まるでバネ仕掛けの人形のように、レオンハルトはぴょこんと跳ね起きた。

「僕も! 連れて行ってください!」

「はあ?」

 目を丸くした少年の肩越しに、やはり目を丸くした女が呆然と立っている。

(あ、間違えた)

 この場合は、まず助けてもらった礼を先に言うべきだろうと、レオンハルトは思わず頭を抱えた。

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