002 夜の王
「────っ!?」
「目が覚めた?」
悲鳴をあげて飛び起きた魔物を見下ろして、セレネはにやりと笑ってみせた。
すでに白い寝間着姿ではなく、いつもの黒い革鎧に着替えている。壁に立て掛けてあった剣も、彼女の腰に吊るされていた。
「良い夢だったろう?」
「な、何なのよ、お前は。わたくしが…………っ、夢魔が、こんな」
目の前でうずくまっている魔物は、自分の身体を抱きしめるようにして震えていた。
見た目だけなら、若い金髪碧眼の娘だ。言葉遣いは貴族の令嬢のように上品だが、豊かな胸と腰周りを覆う布以外は何も身につけていない。
健全な青少年には刺激が強すぎるだろう。ましてや今は夜だ。現れたのがセレネのところで良かったと思う。
(あ、でも以外とあの子もこういうのが好きだったりして。やっぱり男の子なんだし)
「な、何を、何をしたのっ、お前!」
「何ってまあ…………仕返し?」
熱っぽく潤んだ瞳で、娘はセレネを睨みつけた。
実際にこんな娘を見たら、魔王は顔を真っ赤にして逃亡するかも知れない。少なくとも自分の上着を投げつけるぐらいのことはやりそうだ。
そんなことを呑気に思いながら、セレネは口を開いた。
「だって、最初っから寝てなかったし」
「なんですって…………?」
「あんたが部屋に入り込んで来た時にはもう起きてたよ。何するつもりなんだろうなあって様子見してたら好き勝手してくれたから、ちょっと仕返ししてやろうと思ってね」
「仕返し…………? あれが…………!?」
「夢魔の見せる幻には敵わないかも知れないけど、素人がやった割には上出来だろう?」
夢魔は、人々の夢に入り込み、生気を吸う魔物だ。
金髪碧眼の美しい容姿で人を魅了し、望みの夢を見せる代わりにその人間の生気を吸う。
基本的には無害な魔物だ。生気を吸われるといっても目覚めた時に少々疲れる程度で、大半の人間は夢の中に夢魔が入り込んだことにすら気付かず、「良い夢だったけれど何故か疲れた」だけで終わる。
だが、この夢魔が吸血鬼や魔女の使い魔だった場合は、夢魔は人間にとって有害で脅威的な魔物になる。
「こっちは文字通り出血大サービスしてやったんだ、色々教えてもらおうか」
剣を抜いて、夢魔の首筋に切っ先を突きつける。
夢魔の瞳から、怯えの色が消えた。
「ずいぶん舐めた真似をしてくれるわね、人間のくせに」
「夢の中でなければ、夢魔なんて怖くないさ」
夢魔を傷つけるのに、特別な武器は必要ない。
セレネ一人でも充分だ。
「それで? あんたのご主人様はどんな奴なんだ?」
「わたくしが素直に言うと思うの?」
「それはね、君が邪魔だからだよ」
夢魔の声に、若い男の声が被さった。
背後に何かいる。セレネは反射的に、夢魔に背を向けて剣を振り下ろした。
手応えはない。空を切っただけだ。首筋に、ひりつくような痛みが走る。
「おやおや、吸血鬼に剣が通じないことぐらい、君だって知ってるだろう? まあ、良い判断だったけどね」
剣の間合いから、一歩だけ外れた位置に、黒いマントに身を包んだ吸血鬼が立っている。長く鋭い爪の先は赤く濡れていて、吸血鬼はそれをこれみよがしに舐めてみせた。
空いている方の手で首筋に触れてみる。ぬるりとした感触が返ってきた。
傷に不快な熱がある。吸血鬼の爪と牙には毒があった。それを思い出して、セレネは顔をしかめた。
夢魔は勝ち誇った表情を浮かべて、吸血鬼にしなだれかかった。吸血鬼が夢魔の腰を抱き寄せる。
「ここで殺してしまうのは、少し勿体ない気がするけどね。君の血はとても美味しい」
「それはどうも」
セレネの意思に反して、身体が震え始めていた。声が揺れてしまわないように、喉の奥に力を入れる。
真っ直ぐ立っているはずなのに、ぐらぐらと揺れているような気がする。毒の回りが予想以上に早い。
(落ち着け。まだ手はある…………)
普通の剣では、吸血鬼に傷をつけることすらできない。魔王さえも倒せる英雄の剣か、あるいは神聖教会の使者が用いる神聖魔法でなければ、吸血鬼を倒すことはできない。
そのどちらも、今のセレネにはなかった。
それでも────覚悟さえすれば、セレネは吸血鬼を倒すことができる。
「仕方ないんだよ。僕が欲しいのは魔王の血だから。邪魔な君は消えないといけないんだ」
覚悟をする。
後で魔王に怒られるだろうが、それは甘んじて受け入れよう。
「そう簡単に消えてやれないな」
「だったら命乞いでもしてごらんよ。面白くできたら見逃してあげるかも知れないよ」
「冗談だろ。私があんたを殺せば良いだけだ」
「生意気だね。でも嫌いじゃないよ、そういうのも」
吸血鬼がセレネに向かってゆっくりと手を伸ばしてきた。
呼吸を測る。いつ動くべきか見失わないよう、セレネは身構えた。
吸血鬼が爪を振り上げる。セレネはそれからやや遅れて、合わせるように剣を振り上げ────
「────裁きを受けたるは、夜を統べし不浄の王!」
少年の鋭い声と共に、部屋の扉が乱暴に蹴破られた。
夢魔を抱えた吸血鬼が、大きく横に跳ぶ。魔物たちが立っていた場所に、白銀に輝く光の剣が何本も突き刺さっている。
何度か見たことのある魔法だ。魔王の使う、神聖魔法のうちのひとつだろう。
扉の方を見れば、まだ寝巻き姿の魔王が吸血鬼を睨みつけていた。
床に突き刺さった光の剣が、硝子が砕けるような音を残して消えていく。
夢魔を背中に庇った吸血鬼が、唇の端を吊り上げた。
「これは驚いた! 信じられないね! 魔王が神聖魔法を使うとは! 邪悪の根源、災厄の子と言われる魔王が、よりにもよって正義の神アスタに仕える使者だったとは!」
声を立てて笑い始める。だが、一切隙は見せなかった。
しばらくして満足したのか、吸血鬼は薄笑いを浮かべて、
「これは思わぬ収穫だった────今日はこれで失礼させてもらうよ。いずれまた、その時は魔王の血を頂くとしよう」
闇の中に溶けるように、吸血鬼と夢魔の姿が薄れていく。
魔物の姿が完全に消えた頃に、セレネの膝が限界を迎えた。立っていることができなくなり、ずるずるとその場にうずくまる。
「大丈夫か?」
「まあ、何とか。でも、もう少し早く助けに来てくれた方が嬉しかったなあ、なんて」
「そう思うなら、次は悲鳴でもあげてくれ」
「きゃー助けてーなんて、私には似合わないでしょ」
首筋の傷を覆うように、魔王の手が押し当てられる。早口に回復魔法を唱える声が聞こえた。
ぐらぐらと揺れていた視界が安定する。震えはまだ止められないが、もう少ししたら治まるだろう。
首筋を覆っていた魔王の手が、セレネの背中に移動した。小さな子どもを寝かしつけるように、ゆっくりとさすってくる。
「やっと手掛かりが見つかりましたね」
「手掛かり?」
「トトの村の────あの魔王に力を授けられたっていう吸血鬼ですよ。あれに力を与えた魔王とやらが、何者なのか」
あれから色々と調べてはみたが、これといった情報はまだ手に入れていない。
血に狂った吸血鬼を見つけるどころか、その目撃情報すら見つからないでいる。
魔王の血を求める吸血鬼が現れたのは、好都合かも知れない。
「向こうから来るまで何もなしというのが問題だ。受身は性にあわん」
「それでも一歩前進ですよ」
出来る限り穏やかな口調でセレネはそう言ったが、魔王は口をへの字に曲げていた。
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