雨が君を連れていった
@xiaoku
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彼が赴任してきたのは、ちょうど夏休みが終わったあとだった。
「富永大吾です。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。すらりとした顔立ちの好青年だ。私たちの担任が急な異動でいなくなって誰が代わりになるのかと、クラスでは話題になっていた。
私は静かに外へ顔を向ける。窓から風が教室全体に吹き抜けた。教室の一番奥にある私の席はクラス全体が見渡せる。逆に私が今、どんな顔をしているかはクラスの誰も見ることは出来ない。
ただ一人、彼を除いては。
視界を前に戻す。前の列と生徒と会話していた彼を見た。特に意識したわけではない。ただ、なんとなくだ。すでに会話は弾んでおり、教室は明るい雰囲気に包まれていた。が、あまり自分には関係のないことだ。
気づいたのだろうか、彼がこちらに視線をやる。不思議な感覚だった。彼は笑う、私は視線を外に戻した。
「家族がいない、ですか」
富永は話を聞き終えるとそう呟いた。新しく赴任するにあたり、職場の先輩からクラスの話を聞いていた。特に変わった経歴の生徒はいなく、どこにでもある普通のクラスだ。しかし一人、環境が変わった生徒がいた。
「早川リサ。とても積極的な生徒で、行事では必ずクラスの中心に立っています。この間の事故は本当に不幸なことでした」
富永は改めてもらった資料を見、早川リサの家族構成の欄に目を落とす。両親は幼い頃に病気で他界、兄とだけ書いてある。そしてその兄の欄の上に線が引かれていた。まだ、インクは乾ききっていない。
「両親が他界してから、お兄さんが親代わりとなって彼女を育ててくれていたみたいなんです。歳も離れていたので、彼女にとっては本当の親のような存在だったと思います。ただ、先日の事故で」
同僚が口をつむぐ。言いづらいことだろう。早川リサの兄は夏休み中に自動車事故に巻き込まれ死亡した。ほぼ即死だったという。この同僚は彼の葬式に顔を出したと言っていた。その時の彼女はただ下を向き、泣いていたという。
「彼女は芯の強い子です。周囲を気遣って顔には出さないでしょう。富永先生、彼女をよろしくお願いします」
「はい、もちろんです」
富永は同僚に向き直り、答えた。
「早川、寝るな」
富永は彼女の席に近づき、軽く頭を小突いた。富永が担任となってから数週間がたった。富永も少しずつ学校に慣れ始め、クラスの評価も上々であった。ただ一つ、問題があるとすれば彼の担当である歴史の時間では早川が寝るのが定番となっていることだ。クラスで笑いが起きる。その声を聞き、彼女は俯いていた顔を少しあげる。まだ少し眠たそうだ。
「なんで毎回、この時間になるとお前は眠気がくるんだ?」
黒板の前まで戻り、チョークを手に取りながら富永は言う。そして早川は悪びれもなく
「先生の歴史、つまんないから」
チョークが折れた。クラスに先程の比にならないほどの笑いが響く。折れたチョークを回収し、教卓を叩く。
「よーし、今からテスト」
大人気ない、そんな声が教室中を包む。まだ欠伸をしている早川は他人事のように外を見ていた。
「このテストで点数が半分以下の人は放課後補修!」
クラスに漂う悲痛な声。富永は意気揚々と紙を配り始めた。
案の定、である。今回のテストは授業さえ聞いてれば満点も難しくない。そのうえ半分の正解であるならその難易度は著しく下がる。授業を全く聞いていない早川リサは誰しもの予想通り、放課後の教室に一人残っていた。今座っているのは、いつもの端の席ではない。教卓の目の前だ。富永がその席の前に立ち、今回のテストの復習を淡々と話している。
「ここはな、ってここも寝てたのか。基礎じゃないか」
早川は富永の話をただメモしている。やる気など微塵も感じられない。どこか気の抜けた様子だった。気まずさを感じたのか、富永は話題を変えて話しかける。
「今は、どうしてるんだ?」
なんとも抽象的な質問だ。早川はその質問に俯いたまま返答した。
「どうってなんですか?」
早川のペンは止まらない。教室には紙を擦らせる音だけが響いていた。
「今、一人でどう過ごしてるのかなって」
瞬間、ペンが静止する。音が消えた。
「それが本題ですか?」
早川は顔をあげて、富永を見る。少し首を傾げる富永。どうやらこちらが今回の補修の本当の意味だと早川は理解した。
「先生には関係ないでしょ。私のプライベート知ってどうすんですか?」
富永は少し慌てたように手を振った。
「プライベートとかいう問題じゃない。ただ、その」
富永は顔を伏せる。彼の言わんとしていることを早川は初めから理解していた。しかし、なんとわかりやすい。
「私の問題です。先生は関係ない」
そう言うと早川はペンを再び走らせる。そして目で続きを、と合図した。富永はそれを見ると大きく息を吐き、また話を始めた。
補習はなかなか長引いた。早川の理解はゼロといっても過言ではない。そこから授業についていけるある程度のレベルにもっていくのはなかなかの重労働であった。二人で校門をくぐる。本来なら補習が終わったらすぐに帰るはずの早川と、補習後に職員室に寄って諸々の作業を終えた富永と帰るタイミングが被ったのは不思議なことだった。
「なんで、すぐ帰らなかったの?」
富永は早川に尋ねる。
「なんとなくです」
その答えに富永はふっと笑った。それを見た早川はあからさまに歩く速度を上げた。
「ちょ、笑っただけだろ!なんで怒ってるんだ」
富永は追いかける。そうこうしているうちに交差点にたどり着いた。
「私こっちなんで」
それだけ伝えると早川はスタスタと歩いていく。後ろから声が響いた。
「ご飯、どうしてるの?」
不意だった。どうして今こんなことを聞くのだろう。早川は振り向いた。
「一人ですけどなにか?」
富永の声より大きく強く答える。それを聞くと富永が駆け寄ってきた。
「どうせ一人なら、一緒に食べないか?」
何を言ってるんだ、こいつは。そんな目で早川は富永を見やる。富永はその目を見るとまた先程のように慌てた様子を見せる。しかし、どこか暖かい眼差しで早川の視線を受け止めた
「この近くに俺の知り合いのやってる店があるんだ。今日ちょうど顔を出そうと思っていたところだし、一緒に食べないか?お金とか気にしなくていいから。味は保証する」
そう言うと早川とは真逆の道を歩き始める。早川がポカーンと立ち止っていると、富永は振り返り早川に向かって大きく手を振った。許可した覚えもない食事の話を勝手に進められ、早川はただただ戸惑った。
「なんだよ、まったく」
そうは口にしたものの早川はくるりと向き直り歩き始めた。
そこは小さな食堂のようなところだった。注意して見なければわからないほど小さい。一見しただけではそこが店なのかもわからないだろう。早川もこの道を通るのは初めてではなかったがこんな店があるとは知らなかった。
「どうぞ」
ガチャ。ドアを富永は開ける。言われるがままに早川は店に入る。中はカウンターが数席、テーブルが数個並んでいた。意外と中は広い。早川は奥のテーブル席の腰を掛ける。続いて向かい側に富永が腰を掛けた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から男性が出てくる。色白で泣きぼくろがあった。柔和な雰囲気が身体全体から感じられる。
「ってあれ?」
富永の顔を見たあと、早川を見やる。最初は疑問符を浮かべていた男性がなにかを理解したように笑い出した。
「なに笑ってんの?」
富永が男に突っかかった。
「だって、今日ご飯食べにくるって言ったときいつも来ないのにどうしたのかな、って思ってたからさ。やっと意味が分かったよ、こんな年下の彼女さんだったんだね」
早川の顔が赤くなる。それと同時に富永が反論した。
「違うよ、うちのクラスの生徒。ここの宣伝も兼ねて連れてきたんだよ」
男はそうなの?といったような顔をしている。
「まあ、いいや。お名前は?」
そういって早川に名前に尋ねる。
「早川です。早川リサ」
それを聞いた男はうんうんと頷く。そうして片手を胸にあてる。
「改めまして、早川さんいらっしゃいませ。俺、ここでシェフしてます、井上浩介です。よろしくね」
にこっと笑う。その横で富永が、シェフなんて大したもんじゃないだろうが、と呟いた。
「聞こえてるよ、富永」
井上の笑顔は崩れない。そんなやり取りを見て早川は思わず吹きだした。それを見て二人もつられて笑う。
「じゃ、俺餃子」
唐突にオーダーした富永。井上は呆れたように富永に言う。
「女の子の前でそれ普通頼む?もっとおしゃれなのにしなよ」
「お腹空いてんの。いいじゃんいつも頼んでんだから」
富永は口を尖らせて言う。早川は二人の会話を聞いていた。いつもはどこかストイックな先生なのに全く印象の違う先生がいる。さながら母親に物をねだる子供だ。
「はいはい。早川さんは何がいい?」
急に話を振られ少しびくっとした。そして回答をしようとメニューを手に取ろうとする。が
メニューらしきものがない。辺りを見渡すが壁にもそれらしきものが見当たらない。
「井上君、説明してないんじゃない?」
はっとしたように井上が手を叩く。
「ごめんね、ここにメニューはないんだ。お客さんに食べたいものを言ってもらって作ってる。だいたいの材料はあるから好きなのを言ってもらっていいよ。」
はあ。早川は漏らした。変わった店だなあ、そう思いつつも早川は素直に今食べたいものを伝える。
「じゃあ、オムライスを」
それを聞くとまた井上は笑った。
「ご注文ありがとうございます」
そう言うと井上は奥に戻っていった。
「なにかっこ決めてんだよ、いつもこんなんじゃないだろ」
富永は頬杖をつきながら言う。その瞬間水の入ったコップが二人の目の前に置かれる。ただ富永の方は、ドンと音が出るほど強かった。
「ごめんね、水出すの忘れちゃった」
変わらぬ笑顔。富永の顔はひきつっていた。そして井上はごゆっくり、と言葉を残してまた奥へ入っていった。
「二人はどんな関係なんですか?」
早川は尋ねる。同い年という感じでもない。実際歳の差はそこそこあるようにみえた。会話からもそれが滲み出ている。友達というよりも兄弟に近いような気がした。
「そうだな・・・。腐れ縁、かな?」
コップを手に持ち、答える。どこか嬉しそうだった。
「先生のイメージがなんか変わりました」
そういって早川は口に水を含んだ。冷たさが身体全体に広がる。
「そう?」
意外そうだ。
「すごく子供っぽいですよね、井上さんと話すとき」
水を詰まらせたのか、富永は咳払いをする。
「子供っぽい?そうかな、あんまり意識はしていないんだけど」
無意識なんだ、早川は思う。それなりの信頼の上での関係なのだろう。早川は思い巡らす。かつて自分にも存在した最も信頼した人物、その面影を。
「羨ましい」
思わず漏れた心の声。声が震えていた。富永は心配そうに覗き込む。それを見た早川は顔を上げ、富永をまっすぐ見た。
「何でもないです」
それだけ言って黙り込んだ。富永も特に会話は振らずにただ座っていた。早川はまた水を飲む。ちょうどコップが空になったとき、奥から井上が出てきた。
「お待たせしました、オムライスです」
出来立ての料理が早川の目の前に置かれる。目で見ただけでも黄色の卵がふわふわとしているのがわかる。
「で、はい。餃子」
明らかに声のトーンが違う。そして置かれたのはどう見てもカレーである。しかしその料理の出来栄えはオムライスに引けえを取らないほど食欲をそそるものだった。
「ねぇ、これ。いつからこの料理を餃子って呼ぶようになったの?」
「富永好きでしょ?今日これ余っちゃったんだよね。今度作ってあげるから、これで我慢して」
富永はしぶしぶ了承した。
「美味しそう」
「美味しそうじゃないよ、美味しいから」
井上はそう付け加えた。何自慢してんの、富永が続く。
「じゃあ、邪魔者はさっさと退散しましょうかね。早川さん、ゆっくりしていってね」
そう言ってまた井上は奥に下がった。
「いただきます」
早川ははやる気持ち抑えながらスプーンを持つ。お腹は空いていたし、何より早くこの美味しそうな料理を食べたいと思っていた。スプーンを刺す。崩れる半熟卵。そのまますくいあげ、口に運んだ。
「美味しい」
素直にそう思った。それを見た富永は
「いったでしょ、味は保証するって」
そう言いながら、カレーを口に運ぶ。
「カレー好きなんですね」
「カレー自体好きだけど、やっぱり井上君が作るのが一番かな」
聞いてもいないことまで話し出す。さらっと井上のことまで付け加えた富永が早川は可愛く見えた。
「オムライス好きなの?」
「はい、小さい頃から。よく、兄が作ってくれました」
またオムライスを口に運ぶ。
「このオムライスは兄のより美味しいです。本当に」
「それ聞いたら井上君きっと喜ぶよ」
ふっと笑う。自分のことのように嬉しそうだった。そして
「お兄さんのこと、教えてもらっていい?」
と言った。
聞こえないふりをしてオムライスを食べ続けた。
わからないよ。分かるはずがない。
わかってほしくないよ。
だから
「先生には、わからないよ」
突き放す。
夏休みが明けてからどこか気の抜けた私。大切なもの欠けたあの日。あの時消えてしまった、決して帰ってこない存在。
寂しかったのかな。
自分の感情がわからない。
まだ気持ちの整理がつかない、そんなとき彼が現れた。
その人は今、私の目の前にいる。まだ出会って数週間しか経っていないのに、彼は私の感情を敏感に感じ取った。
先生だから?どうしてこんなにも私の中に入ってこようとするの?
なんで?
「私は」
「わからないよ」
言葉を遮ったのは彼だった。
「人の悲しみは誰にもわからない。悲しいと感じる重さはそれぞれ違うから。自分のほうが不幸だから、なんてことはない。悲しいって、寂しいって感じたら、それは自分だけの重さなんだ」
富永は早川に告げる。
「だから早川の全てを理解は出来ないけど、力になりたい。少しでも気が和らぐなら、話して欲しい」
オムライスはあと一口で食べ終わりそうだった。すくいあげ、口に入れる。
「このオムライス代ってことでいいですか?」
富永は笑ってこたえた。
両親の顔なんて覚えてない。
私が物心つく前に、事故で死んだとしか知らない。
私にはお兄ちゃんしかいなかった。
親戚の引き取り手もなかなか決まらなくて、歳の離れたお兄ちゃんが私を育ててくれた。
私が不自由ないように精一杯尽くしてくれていた。
料理も、勉強も、思えば全部見てくれていた気がする。
それに気づいたのは最近だけど。
人生で二回目の葬式。
一回目は両親の、そして二回目は兄の。
どうしてなんだろう。
みんな私を置いていく。
お兄ちゃんとは最後、喧嘩をしていた。
本当にちょっとしたことだった。今思えばどうして喧嘩したのかも思い出せないくらいに。
バカだな、私。
当たり前すぎて、その存在が身近すぎて
大切だと思ったのはいなくなってからだ。
寂しいよ。
悲しいよ。
私は今、一人だ。
「あれ?早川さん、行っちゃった?」
奥から水の入ったボトルを持って出てくる。
「一人で帰りたいってさ」
空いた皿の前でコップ片手に頬杖を突いている。
「フラれた?」
皿を片付けながらニカニカ笑っている。
「違う、彼女じゃないし。送ってもらったら周りから変な目で見られるからって」
時計を見ると八時過ぎだった。確かにまだ人通りはある。学校も近く、塾帰りの同級生に見られることを恐れてのことなのだろう。
「ま、教師と生徒の恋愛なんてあり得ないよね」
そう言って皿を持って奥へ入ろうとする。視線で自分のは自分で下げてね、と合図した。
「俺、客なんだけど」
文句は言いつつも、素直に皿を運んでくる。
「今度は餃子作ってよ。まぁ、カレーも好きだけどさ」
はいはいと相槌をうつ。皿を流しに置いた。
「学校には慣れた?」
スポンジを手にとり、皿を洗い始めながら尋ねる。
「大変だよ。やっぱり教師って難しいね」
「そっか」
そっけなく返した。
「なんだよ、聞いといて」
少し口を尖らせた。そして洗い終わった皿を受け取り、布巾で拭き始める。
蛇口を締め、手の水気を払う。
「今日は、宣伝のために来たんじゃないよね」
皿を拭く手が止まる。静かに皿を置いた。
「盗み聞きはよくない」
剣のある声で告げた。
その言葉を受け入れ、少し呆れたように
「こんな小さな店で、客が二人しかいないのに会話が聞こえないほうが不自然だよ」
と反論した。そして一拍置いて
「俺にはどちらかと言えば、聞かせようとしたって感じだったけど」
この人に嘘は通用しない。降参したかのように声を和らげた。
「バレた?」
「バレるよ、普通」
全部見透かされている。二人の仲はそう感じるほどに深かった。
「感じてるの?」
「もしかしたらもう、魅せられてるかもしれない」
俯き、告げる。
「どう思った?」
顔を僅かに傾け、視線を送る。
「俺は今日初対面だし、本当に私見だけど可能性は捨てきれないね。話を聞く限り、情は深そうだったから」
棚からソーサーを二つ取り出し、ポッドから黒い液体を注ぐ。そして、一つを差し出した。
「コーヒー?ありがとう」
受け取り、口に含む。瞬間、顔が歪んだ。咳き込み、傍に置いてあった水を飲み干す。
「こ、これ・・・。黒酢!」
差し出した当事者はそれを見て大爆笑している。
「誰もコーヒーなんて言ってないのに、飲み始めちゃうから」
溢れ出る笑いを抑えることなく、もう一つのカップを渡す。
「大丈夫。こっちはちゃんとコーヒーだから」
懐疑の目で睨みつつも、差し出されたカップに口をつける。深い苦みが広がる。大きくため息をつき、まだ笑いが収まらない様子の相手を見る。
「ガノ君がこんな子供っぽいことするなんて」
先程まで井上と呼ばれていた男をガノと呼んだ。
「カダならきっといいリアクションすると思ったから」
ここには教師、富永大吾はいない。カダと呼ばれた青年はコーヒーを一気に飲み干した。
結局ご馳走になっちゃったな。
そう思いながら早川は家路を歩いていた。先生に連れられるままに食事を頂いた。自分を気遣ってのことだと早川は理解していた。実際、事故後に兄のことを話したのは富永が初めてだ。ご飯は美味しかったし、店の雰囲気も悪くない。早川はあの隠れ家のような小さな料理店が気に入っていた。
一人でもいってみようかな。
今度は何を頼もうか、そう思うだけでわくわくした。友達には教えたくない、誰も知らない秘密を知ったように胸が弾む。
夜の住宅街、ただただ静かだった。人通りがもう少しあるかと思ったが、今は早川しか道を歩く人はいない。早く帰ろう、少し小走りになる。
その時、影が見えた。暗く、影など見えるはずなどないのに確かに影が見えた。
早川はそれを見るやいなや駆け出した。その影へ向けて、一直線に。
追いつかない、しかし早川は歩みを止めない。
「待って・・・!」
手を伸ばす。届くはずなんてないのに。影は住宅街の角を曲がった。早川もそれに続く。しかし、曲がった先でその影は消えていた。
息を切れている。しゃがみ込み、息を整える。そして
「お、にい・・・ちゃん・・・」
その影に失ったあの人を重ねていた。
「今日から屋上で工事が始まるからな。もともとあそこは立ち入り禁止だから心配いらないと思うけど、絶対入らないように」
朝の教室に富永の声が響く。屋上のフェンスが老朽化し、その改修工事が始まるようだ。朝の連絡はそれだけだった。鳴り渡るチャイム。授業開始の合図だ。
「早川、聞いてるか?」
富永は早川を名指す。またいつものように外を眺め、ぼーっとしている。返答がない。
「早川!」
富永の声に反応し、早川の身体がびくっと動く。
「どうした?」
いつもなら適当にでも、聞いてます、と返すはずなのに今日はいつになく意識が遠のいているような感じだった。
「別に、何でもないです」
そう言うと教科書も持ち、そのまま教室から立ち去った。それに続き他の生徒も授業に向けて教室をあとにする。
一人残された富永は項垂れ、腰をかける。
「俺、昨日なんかしちゃったかな・・・」
さながら告白に失敗した少年のように、教室の隅でただただ落ち込んでいた。
あのときの影がまだ気になっていた。
自分でもバカだと思う。あんなの、幻覚に近い。
でも、大切な何かを感じていた。
なんでだろう、すがりたいような。
私、気が動転しちゃったかな。
「リサ?早く教室行こうよ」
友達に呼ばれ、思考を停止させる。
「うん」
友達のもとに歩みよる。
まあ、考えてもしょうがないか。
駆け寄り、次の授業が行われる教室へ急ぐ。
友達との会話にいそしむ。
笑いあう声が廊下にこだまする。
この時間は何も変わらない。
でも
でも
少女は影と触れ合う。
「リサ?どこ行くの?」
少女は影を追いかけた。
間違いない。
あれは、あれは。
何も考えず目の前のそれに向かって駆ける。
あともう少し、間に合う。
伸ばしたその手。
影に届きそうなその瞬間。
「早川、なにやってるんだ」
富永に手を掴まれる。
「授業の教室は逆だぞ。ほら、遅れる」
そう言って、早川を引き戻し教室の方向に背を押した。
早川は少し動揺している。焦点が定まっていなかった。
「どうした?」
顔を覗き込む。
「何でもないです。すいません」
早川は教室に向かって駆け出した。
富永は彼女の背を見つめる。
その時の富永の顔を見た者は誰もいなかった。
最終時限のチャイムが鳴る。生徒たちは部活、委員会など思い思いの活動場所に赴いていく。早川には特に放課後の活動はない。友達に別れを告げ、校門に向かっていた。ふと立ち止まり振り返った。校舎を見上げる。早川は朝のことがまだ頭に残っていた。
(あのとき)
早川は無心で何かを追いかけていた。富永が手を引っ張っていなければそのままだっただろう。
(何やってんだ、私)
前へ向き直り、家路を歩いていく。そしてあの別れ道で立ち止った。右へ行けば家がある。左へ行くとあの店へ行けるだろう。手をお腹にあてる。少しお腹が鳴った。
ドアを開けると中から賑やかな声が聞こえてきた。昨日の様子とは打って変わり、今は奥のカウンター1席しか空いていない。早川はその席に腰を掛ける。直後、後ろから水を差し出された。振り向くとチョーカーをした無愛想な青年が立っていた。そして
「注文」
とだけ告げた。早川は言葉に詰まり、思わず
「え、えーと、井上さんは?」
昨日出会ったこの店の店主の名前をだす。相手の顔が少し動いた。
「井上君と知り合い?」
初めてまともに会話が出来た。そして青年はカウンターの中の厨房に顔を突っ込み、井上くーんと叫ぶ。奥から足音が聞こえ、見覚えのある顔が姿を見せた。
「なに、いきなり呼び出して。いま作ってるんだよ、ってあれ?」
最初にこの店に来た時と全く同じ反応。少し驚いた様子の井上がいた。
「リサちゃん、また来てくれたんだ。今日は彼氏はいないの?」
そう言っておどける。早川は即座に反論した。
「富永先生は違います。私の担任なだけです」
井上は笑いながら
「俺は富永が彼氏だなんて一言も言ってないけど」
顔を赤らめる早川。それを見てまた井上は笑った。
その様子を見ていた先程の青年はすこし呆れた感じであった。
「で、注文は?」
青年が二人の会話を遮る。その言葉を聞いた井上は僅かに声を低くして言った。
「直也、お客様にその態度はないでしょ?もっと柔らかく言えって何度も言ってるよね?」
怒るというよりは諭す、と言った感じだった。直也と呼ばれた青年はガクッとうなだれ、小さく、わりぃと口にする。
「ごめんね、こいつ森島直也っていうんだけど、チンピラみたいでしょ。でも根はいいやつだからさ」
一言余計なんだよ、と後ろから聞こえた。井上はそんなことなどお構いなく早川へ向けてご注文は?と言った。
「じゃあ、カレーで」
井上は笑顔で注文ありがとうと返す。奥に下がろうとしたがすぐに早川の前に戻ってきた。
「代金は富永につけとくから」そう耳打ちする。早川は反射的にえ、と反応したが、頭を井上に撫でられ、「ありがとうございます」と軽く会釈をした。井上はその言葉を聞くとはーいと言ってまた奥に入っていった。後ろにいた森島も別の客の対応に移る。早川は辺りを見渡した。料理を楽しむ他の客を見る。彼らに浮かぶ笑顔を見れば、この店の人気は一目瞭然であった。富永に教えてもらったのはつい昨日のことであったがこの店が親しまれる理由が分かった。自然と笑顔になれる、そんな暖かさがある。ここなら少し、淋しさが薄れるような気がしていた。
カタ。テーブルが音をたてる。正面をみるとカレーが置かれていた。
「はい、お待ちどうさま」
そして後ろから森島がスプーンをカレーの横に置いた。
「冷めないうちにどうぞ」
また井上は厨房に入り、森島も同時に離れた。早川はスプーンを手に取り、カレーを食べ始めた。富永の言う通り、カレーも美味しい。夢中でほおばった。その様子を井上は奥から見ていた。スマホを取り出し、電話をかけ始めた。しかし、留守番につながる。
「もしもし。彼女さんが来てるよ。寄り道の場所教えちゃうなんて、先生としてはまずいんじゃないかな?仕事、早く終わらせてこっち来なよ。心配なんでしょ、彼女のこと。あ、そうだ。代金は当然彼氏が払うもんだよね、普通」
伝言を切る。井上は台に寄り掛かると息を吐いた。
「のぞき見、良くないよ」
その声に呼応し、森島が棚の影から現れる。
「今、注文ないでしょ?それとも新しい注文?」
「話そらしてんじゃねえよ」
森島の声は鋭かった。
「あの子、あいつのなんなの?」
「あれ、言わなかったっけ?クラスの生徒さんだよ」
「そこじゃない」
「もしかして、あんな小さな彼女ができちゃって、嫉妬しちゃった?」
「違う」
森島の眼光はまっすぐ井上を刺す。ズボンのチェーンが揺れて、音をたてた。
ずいぶんと遅くなった。富永は車の中で疲れ切った表情をしていた。他の学校の教師と話す機会はそう多いわけではない。ついつい話が長くなり、気が付けば帰宅時間を超えていた。そしてやっと帰ろうかと思えば、井上からの留守電が入っていた。
「寄り道していいって、言った覚えはないんだけどな」
そう言いつつも、顔はどこか嬉しそうであった。車を走らせ、あの店へ向かう。
美味しかった。スプーンを置く。空になった皿を見つめ、名残惜しさを感じていた。
背伸びをしようと手を上へ伸ばす。その瞬間、コップがテーブルから滑り落ちた。すぐさま手をのばすも、届かない。
音をたて、コップが割れる。他の客の顔を窺おうと周りを見た。しかし、辺りの人気がない。見渡しても先程までいた人達の姿が消えていた。
焦り、戸惑う。
そして
店の窓から影が見えた。
コップが落ちる。
少女は店から飛び出した。
厨房にまで響き渡るガラスの割れる音。それを聞き、森島が頭を抱えた。
「はーい、片付けに行こうか」
井上が森島に向け、満面の笑み。
「あーもう!!」
頭を掻きながら、森島はカウンターのほうに出る。その後ろ姿を見送る井上は少し安心したような顔をした。
「心配なんだよね、お前も」
憂いを込めたその言葉。井上の表情は複雑だった。その直後、森島がまた厨房に現れる。
「あの子、いないけど」
井上の目が見開く。森島を押しのけ、フロアに出る。
「リサちゃん・・・」
彼女の姿はどこにもない。外に出るが周りにそれらしき少女はいない。スマホを取り出し、電話を繋げる。相手はすぐに出た。
「もしもし、あー今、近くに車止めたから。すぐに・・・」
「いなくなった」
「え?」
「いないんだ!リサちゃんが!」
富永は駆け出す。嫌な予感しかしない。もし、本当にまだ彼女が求めてしまっているなら。
影さえも消す暗闇が辺りに広がっている。
まって。
まってよ。
私もまだ、追いつけるよ。
だから、だから。
一緒に行こう。
見えるはずのない影。それは静かに濃くなる。
「早川は!?」
店の前に着くと、開口一番井上に行方を尋ねる。しかし、首を横に振るばかりだった。
「分からない。目を離した隙にいなくなってた」
あの割れたコップは早川が使っていたものだった。店を飛び出したときに落ちたのだろう。彼女の性格からして何も告げずに店から立ち去ることは考えにくい。
「俺、行くよ」
そう井上に告げ、駆け出そうとする。しかし腕を掴まれ、止まる。富永と井上は同時に振り向き、止めた人物を見やった。
「どこ行くんだよ」
森島は富永を睨む。井上は森島の手を富永から外そうとする。しかし、富永が井上を静止した。
「離して」
「断る」
二人は動かない。ただ視線を合わせ、言葉を交わすことなく向かい合った。
「お前はまだ、そんなことやってんのか」
森島の声には悲しみが含まれていた。が、富永の目の色は変わらない。
「まだ間に合う。今行かなきゃ、ダメなんだ」
森島は富永の胸ぐらに掴みかかる。そのとき、富永の首元が鈍く光った。二つの鍵を下げたネックレスが姿を現す。
「お前、これをしてんなら俺の言いたいことわかるよな」
富永は静かに自身のネックレスを見下ろす。そして森島のチョーカーを見つめた。二つの鍵がぶつかり音をたてる。
「わかるよ」
「だったら・・・!」
「心配してくれてありがとう」
森島の手が緩む。富永は手を添え、下におろした。
「俺は教師、楽しいと思ってる。あいつが言ってくれたから、俺は今この仕事やってるんだ。だから、後悔したくない」
森島は項垂れる。これ以上何を言っても無駄だと悟る。
「勝手にしろ、カダ」
「ありがとう、リタ君」
カダは走り出す。リタは後ろからそれを見つめた。
「大丈夫だよ、リタ」
そう言って肩に軽く手を置いた。
「ガノ君・・・」
僅かに振り返る。
「お前の気持ち、カダは分かってる。だからそれを裏切らないように、カダは行ったんだよ」
「それでも俺は、まだ信用できない」
リタはガノの手を振り払い、店へ入った。ガノは一人店の前で佇む。月の明かりが僅かに差し込んだ。ガノの指輪が光を帯びる。ガノは手を顔まで近づけ、指輪を見た。忘れえぬ記憶。抱える傷跡を焦がすように光が刺した。
やっと追いついた。
目の前の人物は歩みを止め、振り返る。
やっぱり。
何も変わらぬ姿で私を見てくれる。
手を伸ばしてきた。
手に触れようと足を踏み出す。
もう少しだよ、あと少し。
刹那。
「本当に、そうしたいのか?」
そこには彼がいた。
「先生には関係ない」
濃くなる。
「私は、もう」
黒くなる。
「お兄ちゃんがいないなんて」
深くなる。
「生きていたって」
重くなる。
「仕方ないよ」
落ちていく。
身体が浮くのを感じる。足元には何もなかった。自分が空に身体を投げ出したのだと悟った。目を閉じる。
身体が揺れる。右手を強く掴まれた。目を開けると彼が私の手を握っていた。下をゆっくり見下ろす。その光景に目を見開く。
全てが戻った。
早川はすぐさま両手で自分を支える手を掴みなおした。その手はゆっくりと早川を引き上げた。地に足がつく。そして自分の前に映る人を見る。あの時、最後に見た姿のまま、そこに立っていた。後ろから彼の足音が聞こえる。そしてそのまま早川に尋ねる。
「どう思った、今?」
「怖かった」
「それだけか?」
「たいよ」
「聞こえない」
「私は」
背中を押したのは彼だった。
「生きたい」
兄の影が薄くなっていく。早川はその様子を静かに見つめた。兄が近づいてきた。僅かに口が開く。声は聞こえない。
「ごめんな」
そう言ったように見えた。
蹲った早川にかける言葉が思いつかず、彼は後ろに佇んでいた。顔を足にうずめたまま、早川は口を開く。
「あなたは何で、私がここにいるってわかったんですか?」
彼はおどける。
「なんとなく」
「ふざけないでください」
早川の口調は強い、しかし言葉の芯はどこか弱々しかった。屋上には風吹き抜ける。
「お兄さんを、感じていたのはいつから?」
彼は早川に尋ねる。
「お兄ちゃんの、お葬式あたりから」
大切な人が欠けた空っぽの日々。埋まらない淋しさ。そのころからだった、兄の姿をどこか感じるようになったのは。
「そっか」
「答えになってないです」
早川は顔を上げた。風が彼に向かって吹き抜ける。
「俺も正確なことは分からない」
一歩前に出る。
「幽霊か何か?」
「それは違う」
「何で?」
「もし本当に君のお兄さんなら、こんなことはしない」
「じゃあ、なんなんですか?」
声を荒げる。早川は答えのない会話に苛立ちを覚えていた。彼は口をつぐみ、下を見る。声に出すことを戸惑っている。
「先生!!」
声が風を切る。屋上に居るのは二人だけ。
「君は『死』を望んだ」
冷たく、寂しさを帯びた声。
「だから君の前に『影』が現れたんだ。君が最も思う人の姿を借りて」
反論の言葉が飛ぶ。
「私は別に、死にたいなんか思ってない」
「確かに。でも人は思ってしまうんだ。何かを失った時、淋しさを。そして無意識にその人の『影』を、『死』を追う」
早川は取り繕う言葉が見つからず、頭を垂れた。彼の発言に偽りはない。実際、早川は何度もそれを見た。そして今、それを追い、『死』へ近づこうとした。
「でも今は違う。君はあの時、俺の手を握った。今の君の思いはしっかりとあるはずだ」
「分からないよ」
彼の言葉を蹴るように、早川は否定した。
「お兄ちゃんがいなくて淋しい、それは変わらないよ。確かにあの時は咄嗟に手をつかんだ、でもそれは違う。今、私はこれから生きて一人で何をすればいいの?」
またうずくまってしまう。早川の気持ちは晴れることない。心にかかった雲は、光を拒んだ。生きていても、辛いだけだから。お兄ちゃんの事を思い出すと寂しくて、悲しくてたまらないから。自然と涙が零れていた。彼の顔を伺おうと顔を上げる。彼は月を眩しそうに眺めていた。
「それを、これから君が決めるんだ」
彼の言葉に早川は目を見開く。
「大層な理由なんて要らない。わざわざ大きな一歩を踏み出そうとしなくていいんだ。少しずつでも、歩み出せばいい。でも生きてなくちゃ、歩けもしないだろ?人はそんなに強くない。今はわからなくていいんだ。これから見つけていけばいい」
言葉に込められた思い。誰かを前に進ませようとする強い気持ち。でも早川は見逃さなかった。僅かに顔に浮かぶ、彼の悲しさを。まるで早川を羨むような、彼自身には決してできないと言っているような。
「あなたは、誰なんですか?」
彼は月を背に立つ。光が彼の身体から漏れているように見えた。
「俺は、君の担任だよ」
それ以上語ることはなかった。きっと問い詰めても彼は話さないだろう。早川は理解していた。彼に本当に思いやりがあって、優しくて、そして何よりも。
不器用で。
変な先生。
少女はクスリと笑う。
その様子を見た彼は安心したように顔を和らげる。頭をぽんぽんと撫でてきた。
「明日、日直だったよな?遅れんなよ」
彼は扉に向かって歩きだす。その後ろ姿は既に先生になっていた。早川は小さくはいと返す。それを聞くと、富永は右手を軽く挙げ、振る。そして扉の向こうに消えた。
ありがとう。
少女は月を眺め、口にした。
「リサちゃん、転校するんだ」
井上は皿を拭きながら話す。
「はい、親戚が引き取り手になってくれて」
早川は返した。あの日から数週間。井上の店には姿を見せなくなった早川が、ある朝急に現れた。この知らせを伝えるためだ。
「そっか。寂しくなるなぁせっかく常連さんになってもらえそうだったのに。あと富永はフラれちゃったかな?」
早川は少し顔を赤らめるがすぐに井上に向き直る。
「違います。富永さんは私の先生です」
そっか、と皿を置く。
「この間はありがとうございました」
井上は首をかしげる。
「先生が話してくれました。あの時、井上さんが先生に知らせてくれたって」
「俺は何もしてないよ」
「それでも、ありがとうございます」
早川は深々と頭を下げる。
「俺は何もできてないよ。リサちゃんのこと、助けられなかったから。お礼なら」
言葉を続けようとするが早川の顔を見ると言葉を止める。
「もうきっと、伝えてるね」
早川は頷く。
「すみません、そろそろ学校いきますね。いきなりお邪魔しちゃってすみませんでした」
「いいんだよ。こちらこそ、わざわざありがとうね」
早川は軽く一礼すると、ドアに手をかけようとする。そのとき、外からドアが勢いよく開けられる。
「直也、おはよう。ちゃんと確認してから開けてね。ぶつかったらどうすんの?」
森島は井上の言葉など耳にも入れず、早川をじっと見つめた。
「何でこいついんの?」
「この間のお礼、わざわざ言いに来てくれたんだよ。それと転校しちゃうんだって。それのお知らせ」
「へぇ」
森島は早川から目線を外し、奥に入ろうとする。が、早川の一言が聞こえた。
「あ、あの」
森島は歩みを止める。
「ありがとうございました」
井上の時と変わらぬ深いお辞儀。最大限の敬意が込められていた。森島は前を向いたまま動かなかった。しかし数秒後、僅かに顔を後ろに向ける。それを見た早川は森島に笑顔を向けた。そしてまた軽く会釈し、外に消えていった。
まだ明かりも点かない店内。
朝日が薄く淡く、差し込んだ。
店には二人、彼らがいる。
「リタ」
「分かってる」
リタは俯いたまま答えた。
「分かってるよ、んなこと」
拳を強く握る。ガノにはリタの気持ちが手に取るように伝わっていた。
誰も気づかない、理解しない。
彼らにしか分からないから。
この痛みは、ここにしか咲かない。
「先生!!」
廊下を駆け、富永に一人の生徒が近づいてくる。
「おはよう。どうした、そんな急いで?」
生徒は富永の前まで来ると、息を切らした。そんなに急ぐことがあるのかと富永は首をかしげる。
「これ、先生も書いて!」
つき出されたものを富永はまじまじと見る。そしてすべてを理解したように笑みを浮かべる。確かにこれは今日でなくてはならない。富永はペンを取り出し、真ん中の空欄に書き込もうとする。が、直前で止まった。その不自然な行動に生徒は疑問符を浮かべる。
「俺、こういうの書いたことないんだ。どんなこと書けばいい?」
生徒は呆れ顔を浮かべる。生徒はそれを富永に預けると、
「放課後迄にかえしてくださいね、こっそりですよ」
と、言って去っていった。廊下に一人残された富永は残り少ないタイムリミットまで、僅かな空欄と闘うこととなった。
クラスを包む声。それは無事成功をおさめた。中心に立つのは、早川。
「みんな、ありがとう」
心からの言葉だった。放課後の教室を使って行われた早川のお別れ会。当日まで本人にバレることなく、遂に開催の運びとなった。別れを惜しみ思わず泣いてしまう人、はたまた早川と抱擁をかわす人もいる。そんなクラスの様子を富永は端から見守っていた。あの生徒との会話のあと、先生も参加しないかと打診された。特に断る理由もなく、また富永自身も参加したいという思いもあり、快諾した。主体は生徒であり、先生である富永は輪には加わらず、その光景を刻む。自然と笑顔が生まれていた。不意に視線が合う。最初に笑い掛けたのは彼女のほうだった。富永もそれに応える。最初とは逆だった。その笑顔に富永は嬉しくなる。失ったものは大きい。しかし、それをどうとらえるかは人それぞれだ。その悲しみを越える必要もなければ、覆う必要もない。また見つければいい。自分が何をしたいか、どう生きたいか。彼女は今、見つけようとしている。それが富永には嬉しくて、応援したくて、そして。
羨ましかった。
校庭にでる生徒たち。これで本当に最後だ。一人の生徒が早川の前にでる。
「これ、読んで!!」
それを差し出す。早川はそれを見ると感極まって泣きそうになる。しかし、その中心の様子を見ると思わず笑いが込み上げてきた。そしてそれを高らかに上げる。
「先生!!」
全ての視線が彼に向く。
「先生は、何も書いてくれないんですか?」
周りから起きるブーイングの声。慌てたように富永が早川の前に現れる。
「いや、その」
富永の言葉に追い討ちを掛けようとするが、目の前に突き出された物を見ると口をつむぐ。
「写真撮りたいんだ、みんなの。それを貼ろうと思って」
カメラを揺らす富永。
「ほら、みんな集まれ!!写真撮るぞ!」
早川の周りに駆け寄る。富永は少し離れ、レンズを覗いた。ここならみんな写りそうだ。そのとき、カメラが取り上げられる。上を見ると一人の男子生徒がカメラを勝手にいじっている。
「おい、なにやってんだ。早く並べって」
「先生も一緒に写ろうよ」
「そしたら誰がシャッター切るんだよ」
「台かなんかに置いて、タイマーにすればいいだろ」
生徒はカメラの設定をしている。富永は取り返そうとするが、他の生徒に手を引かれカメラの前に出る。
「俺はいいから・・・」
富永の言葉は虚しく響き、早川の隣に連れられた。
「あと10秒!!準備して!」
男子生徒が駆け寄ってくる。それぞれが思い思いのポーズをとった。早川の隣に立った富永。視線をやる。
「先生」
「なんだ?」
「私、嬉しいです」
シャッターがきられる。どこにでもありそうな、ありきたりな写真。でもそこに収められたのは前を向く少女とその背中を押した彼。周りにはたくさんの友。また新しい人出会って、別れて。楽しいかなんて分からないから。悲しいかもしれないけど。それでも。私は、そんな日々を歩く。それが生きるってことだから。
教えてくれたのは、不器用な彼でした。
いつだったかな。俺はまだ何も知らなかった頃。
「何で教師なんかやるのさ?」
「楽しいからだよ、カダもやれば分かるって」
「カダ、釣られんなよ。こいつの言うことは大概適当だからな」
「リタは黙っててよ」
童顔の青年がリタに向き、怒りを露にする。黒髪が跳ねた。
「リタだってやれば分かるよ。この仕事がどんだけ面白いか」
「うるせぇよ」
「なんだよ、折角勧めてるのに」
「でも怒られるよ、絶対」
「カダのいう通りだな、あいつが黙ってない」
「なんだよ二人して!あの人だってちゃんと仕事しろって言ってたじゃん!」
「言ってたけど、あんまり人と関わらないのしろって」
「俺らのこと考えたらそうなるよな、普通。お前、多少自覚あるわけ?」
「そんなの関係ないよ」
風が静かに通り過ぎた。カダとリタは彼を見つめる。その彼は風の行く先を見ていた。
「俺らだってやりたいことやっていいんだ。そうやって少しずつわかっていけばいいんじゃないかな?どうしたらいいのかな、って。そのあとのことはそのあとで決める!そうやっていけばいいって、俺は思うけど」
彼は俺たちの中で考え方が特に異質だった。誰も思いつかないようなことをさらっと言ったりする。慎重に過ごしていくことが大切だと思っていたカダには、その言葉がどうも納得出来ないときもあった。少し抜けたように見える彼は、二人のほうに振り返るとまた話し続ける。
「だってさ、俺らはわかんないじゃん。だから、それを少しでも感じれたらいいかなって。そのうえで一番いい仕事なのが教師だって俺は思うんだよね。教える大変さもあるけど、きっと相手から教わることだってたくさんある。ほら、カダは歴史が好きなんだよね?だったら、社会の先生なんかいいんじゃないかな?リタは…。なんだろ?体育とか?あ!サッカー!コーチとかどう?」
彼の中では勝手に話が進んでいるようだ。人の話を聞かない天才とも彼は言われる。少し興奮気味の彼の頭をリタは叩く。彼はリタをムッとした顔で見つめるがこうでもしないと彼の話が止まらないことはカダもわかっていた。その時遠くから声が響く。
「ガノ君が呼んでる、ご飯できたのかな?」
カダが声のするほうを見やる。
「別に腹なんか減ってねぇのに」
「二人して話逸らすなよ!もう!」
彼が頬を膨らます。そんな彼を見向きもしないで二人は歩いていく。
「ほら、行くぞ」
リタは手を伸ばす。カダも少し手前で彼を待つ。
彼も手を伸ばした。
だけど
まだ囚われてるんだ。
夢の中、彼は俺に言うんだ。
首元に手をあて、ネックレスを手でなぞる。
そして二つある鍵のうちの一つを握る。
まだ、持っているの?
彼は鍵を勢いよく引き、ネックレスを引きちぎる。
霧散する。
彼の目は冷たくて、痛くて。
そんなんじゃ、なかったよね。
俺に、あのとき語ってくれたときの目は、もっと輝いていた。
間違いじゃなかった。
正解なんてなかった。
だから。
教えてよ。
俺らは、俺は。
何なんだよ。
目が覚めたらそこはいつものベッドの上。起き上がると首元が軽かった。手を当てると鍵が一つしかないことが分かった。辺りを見渡す。ベッドの横、鍵は床に落ちていた。拾い上げ、それを見つめる。何も変わらない。変えられない。そんな日々を俺たちは過ごす。
雨が君を連れていった @xiaoku
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