第6話 好きな人の幸せを願うということ
「池上…俊樹さん、ですか?」
トシからは、亜美子が予想していなかった、名前が返ってきた。
「はい、池上俊樹です。
…どうかしましたか?」
そう訊かれた亜美子は、少しの間、自分の頭の中を整理しようとした。
「池上俊樹さん…ということは、トシさんは田上俊雄さん、つまり私のお父さんではない。
…ということは、私は、この人に恋をしていい、ってことになる。年齢なんて関係ない。もちろん、トシさんがまだ独身だったらだけど…。
もし、トシさんが結婚していたら、どうしよう?その時は、諦めるしかない。
そうだ、不倫は良くない。それは絶対にだめだ。だから、もし今のトシさんに、愛する家族がいるのなら、私は身を引こう。そうだ、好きな人の幸せを願うことだって、恋愛の一部なんだ。
でも、私はそれを確かめたい。トシさんが、今でも1人なのかどうか…。
だから、私はトシさんに逢いたい。」
「アミさん、聞いてます?どうしました?」
亜美子は、トシにそう呼ばれるまで、しばらくの間、物思いに耽った。
「え、あ、はい、すみません。…実を言うと、私、色々あって、トシさんのこと、田上俊雄さんなんじゃないかって、思ってたんです。」
亜美子は、そのことについて話す心づもりではなかったが、自然と、言葉が口をついて出てきた。
「それはありませんよ。だって、田上俊雄は、あなたのお父さんでしょ?」
「え、私のお父さんを知っているんですか?」
「もちろんです。私、池上俊樹と、田上俊雄君、そして、あなたのお母さんの、中田美香さんは、同じ○○大学の、フランス文学専攻の同級生ですから。」
『そういえば、私がトシさんのこと、お父さんじゃないか、って思ったきっかけは、この偶然からだった。冷静になって考えてみれば、トシさんが、お父さんとお母さんについて知っているのは、当然だ。』
亜美子は、心の中でそう呟いた。
そして、亜美子は、今まで、亜美子が悩んできたことを、全部トシにぶつけてみよう、そう決めた。少し迷惑かもしれないが、トシさんは優しいから、大丈夫だろう、亜美子はそう思った。
亜美子は、今までのことについて話している間、我を忘れた気持ちであった。思いが溢れ出てくるのと同時に、言葉が、溢れ出てくる。それは、地下から温泉水が溢れてくるように、とめどなく、出てくるものであった。そして、亜美子は年末から今までの時間の空白を埋めるかのように、ひたすら、しゃべり続けた。
そして最後に、亜美子は、
「私は今のトシさん、50代のトシさんに、やっぱり会いたいです。会って、直接話がしたいです。」
ということを、伝えた。亜美子のトシに対する想いについては、逢ってから伝えよう、亜美子はそう思い、あえてそのことは伝えなかった。
そしてトシは、亜美子の話を最後まで聴き終えた後、静かに口を開いた。
「なるほど。そうだったのですか。だから、アミさんは僕のことを、俊雄、アミさんのお父さんと勘違いしたのですね。
それと、お父さん、交通事故で亡くなったのですね。それは、知りませんでした。心より、お悔やみ申し上げます。
じゃあ今度は僕の番ですね。僕も、僕の知る限りのことを、アミさん、いや、亜美子さんに伝えなければいけません。
まず、僕は、亜美子さんに会うことができません。なぜなら、僕は…、
白血病なんです。」
―亜美子さん、今から話すこと、よく聴いてくださいね。
僕と、あなたのお母さん、美香さんと、あなたのお父さん、俊雄との出会いは、大学生の時でした。あなたのお母さん、美香さんは、学内でも有名な美人でした。たぶん、未来の、2010年代、50代の美香さんも、綺麗なんだろうなと思います。
それはさておき、僕、池上俊樹は、美香さんを見た時から、美香さんに恋をしてしまいました。もちろん、見た目が綺麗、ということも、僕が彼女に恋をした理由の1つでしたが、それだけではありません。彼女は、本当に、僕と同じくフランスが好きで、その上、どんなことにも一生懸命でした。そんな一生懸命な彼女の、力になりたい。そして、彼女を支えてあげたい。僕は心から、そう思うようになりました。
また、あなたのお父さんの、俊雄とも、僕はすぐに仲良くなりました。俊雄は、見た目もかなり格好いい方だったのですが、それだけではありません。彼のフランスに対する知識は、同級生、いや研究室の先輩と比べても、群をぬいていました。そんな彼を見て、僕は素直に、すごいなと思いました。それに、彼が好きなフランスの作家は、僕と同じカミュで、そのことでも、僕たちの会話は弾みました。
僕たち2人は、よく、カミュの「異邦人」の良さについて、朝まで語り合いました。まあ、基本的に僕の知識は彼には敵わなかったので、僕はほぼ一方的に俊雄の話を聴いていましたけどね。でも、それでも、彼との会話は、僕にとってかけがえのない、時間でした。
そして僕は、僕にとっての大親友の俊雄と、かけがえのない人である美香さんが、両想いであることに、すぐに気づきます。それに気づいた時は…、ショックでした。
「僕は、美香さんと一緒になりたいのに、よりにもよって、美香さんは俊雄のことが好きだなんて…。はっきり言って、今の僕に、俊雄に勝てる要素なんてない。だから、やっぱりこの恋は、諦めないといけないのかな。」
僕はそう思い、少しの間、俊雄を恨んだ時期もありました。
でも、僕は少しの間悩んでから、その考えを改めました。
「何やってるんだろう、僕。これは、本来の僕のあるべき姿じゃない。俊雄に何の罪もない。ただ、俊雄も、僕と同じ美香さんが好き、それだけだ。
それに、美香さんだって、俊雄のことが好きなんだ。僕にとって大切な2人が、両想いでいる。だから…、
僕は、好きな人の幸せを、願わないといけない。」
僕はそう思い直し、その後、俊雄とこんな話をしました。
「なあ俊雄、少し、話があるんだけど。」
「急に改まって何だよ、俊樹。」
「…僕は俊雄みたいに頭が良くないから、単刀直入に訊くけど、
俊雄は、美香さんのことが好きなのか?」
すると俊雄は、こう答えました。
「ああ、好きだよ。」
「そうか、実は僕も、美香さんのことが好きだ。
でも、いやだからこそ、僕は美香さんの気持ちが分かる。美香さんは…、
俊雄のことが、好きなんだ。
そのことに気づいてから、迷ったけど、僕は決めた。
僕は、美香さんと俊雄のことを、応援する。だから、…幸せになってくれ。」
「…ああ、分かったよ。」
僕と俊雄がこの話をしてから少し経った後、2人は付き合い始めました。
付き合っている時の美香さんと俊雄は、本当に幸せそうでした。そして、周りからも、よく
「2人って、お似合いのカップルだよね。」
と、言われていました。そんな2人であったから、このまま大学を卒業しても付き合い続けて、結婚するんじゃないかとも、その当時から言われていました。まあ、この予想は、やっぱり当たってた、ってことになりますね。
そして、そんなある日、僕の体を、ある異変が襲いました。
僕は、2人が付き合い始めた直後から、発熱が続いていました。最初は、ただの風邪かな、と思い、病院に行って、薬もらって、ゆっくりすればすぐ治る、と思っていたのですが…。
僕はそこで、急性白血病と、診断されました。
その病名を聞いた時、僕は、神様を恨みました。何で自分だけ、こんな目に遭わないといけないのか…。もちろん、医者からは、
「諦めてはいけない。まだ、治るチャンスはある。」
と、聞かされました。でも、…僕は、とてもそうは思えなかった。
そこから僕の、闘病生活が始まりました。具体的にどんなことをしたか…、それは、僕はいい格好しいの所があるので、あえて言いません。ご容赦ください。ただ、僕は入院生活を余儀なくされました、とだけ言っておきます。
もちろん、美香さんと俊雄の2人は、何回も、お見舞いに来てくれました。その時に、旅行でフランスに行くこと、また、最近の2人や大学の様子など、僕に色々教えてくれました。
しかし、僕の病状は、一向に良くなりませんでした。もちろん、直接医者に言われたわけではありませんが、自分の体調のことは、自分でも分かります。それに、どうも医者がよそよそしいような態度をとっていたので、思い切って僕は、
「すみません。心の準備はできているので、本当のこと、教えてくれませんか?」
と、尋ねてみることにしました。
すると…
「そうですね。ご家族には、本当のことはもう話してあります。池上俊樹さん、あなたは、はっきり言ってもう長くはありません。もって、1年でしょう。」
と、言われました。
「これが、余命宣告、ってやつなのか…。」
映画やドラマではよくあるシーンなのかもしれませんが、考えてみると、1年前の僕なら、それを自分がされることになるなんて、思いもよらなかったでしょう。
でも、余命宣告をされた時の僕は、落ち着いていました。先程も言いましたが、自分の体調のことは、自分がよく分かっているものなのです。だから、それを医者から言われた時も、その直前から、覚悟はできていました。
そして、余命宣告を受けたということで、それまで、基本的にずっと入院していた僕ですが、僕の希望で、自宅での生活と、病状を食い止めるための通院との生活に、切り替えることになりました。そこで、僕は基本的に、自分の好きなことを、好きなだけやるように、また仲のいい人と、最後の思い出を作るように、努めました。それは、美香さんや俊雄と、フランスについて語り合ったり、また僕のもう1つの趣味の、無線をやったり…、などなどです。
そうこうしているうちに、前にも少し言いましたが、たまたま、未来へとつながる周波数を、発見することができました。未来の人と、自由に話ができるようになった…。さて、誰と、どんな話をしよう?そう考えた僕の頭の中は、ある思いで支配されました。
それは、
「美香さんと俊雄は、将来、必ず結婚しているはずだ。そして、子どももいるはずだ。その、美香さんと俊雄との間に産まれた子と、話をしてみたい。」
という思いです。
ちなみに、僕が使っている無線は、自分で言うのも何ですが、改造に改造を重ねた、高性能なものです。だから、好きな年代の、好きな人と、話をすることができます。そして、2人の間の子、つまり亜美子さんと話がしたいと思った僕は、亜美子さんが、今の僕と同年齢になる、2015年に、照準を合わせました。
ちなみに、もう少し補足しておくと、僕の無線には、話している人の本名が、出るような仕組みになっています。また、話したい人を、本名で検索することもできます。そこで、「田上美香」と検索して、そこから亜美子さんにたどり着こうとしたのですが、できませんでした。
あれ、おかしいな。そう思った僕は、一応、「中田美香」と、検索してみました。すると、探し出すことができたのです。2人は結婚していると予想したのに、名字が変わっていない…。もしかして、2人は離婚した?もしくは、結婚する前に、付き合っている段階で別れた?そう思った僕は、いてもたってもいられなくなりました。
そして、美香さんの子どもの、あなた、中田亜美子さんに、たどり着いた次第です。僕は、亜美子さんと仲良くなれたら、俊雄、あなたのお父さんのことについて、質問するつもりでした。もし離婚しているか、その前に別れたのなら、今現在、いや亜美子さんから見れば昔の、俊雄を1発殴ってやろうと。
でも、結論は違いましたね。亜美子さんも、最近までお父さんが事故で死んだこと、知らされていなかったのですね。…2人の間に、僕なんて、最初から入る隙がなかったのかもしれません。
それにしても、僕と俊雄は、何て運がないんでしょう。2人とも、愛する女性を残して、若くして旅立たないといけないなんて…。でも、これは運命なのかな。なら、受け入れるしかないのかもしれません。
最後に、一方的に通話を止めようとした理由ですが、これは2つあります。1つは、亜美子さんがあまりにも純粋なので、「お父さんのことを訊こう」なんて、不純な動機で通話を始めた僕が、浅はかに思えた、ということです。もう1つは、顔が見えないとはいえ、弱っていく僕を、亜美子さんには見せたくなかった、ということです。
でも、どっちも勝手な言い分ですよね。だから、こうしてもう1度通話して、本当のことを話そう、そう決めました。
…これが、僕が言いたかったことです。どうです、今回は脱線せずに話をすることができたでしょう?―
亜美子は、トシの話に、聴き入っていた。そして、途中から涙が止まらなくなり、亜美子はかすれる声も気にせず、トシに話しかけた。
「でも、余命宣告なんて、当てにならないですよね?もっといい治療方法が見つかるかもしれないし。…何なら、医療がもっと発達している、2010年代の薬を、そっちに送ることはできないですか?私、白血病のことは何も知らないけど、スマホで調べて、頑張って、送りますから!」
「残念ながら、物を送る機能は、ついていません。一応、無線ですから。
でも、ありがとうございます!やっぱり亜美子さんは、優しいですね。その辺り、お母さんにそっくりだと思います。お母さんも、病気の僕に優しかったですから。」
「そんなんじゃありません!私の気持ちは、お母さんとは違います!私は、私は…」
亜美子は、今まで言えなかった、気持ちをついに口にした。
「私は、トシさん、池上俊樹さんのことが、好きなんです。その、好きっていうのは、友達としてではなくて、その、男性として、というか、恋人として、というか、そういう意味で…。」
「そうでしたか。それは気がつかなかった。ごめんなさいね。
でも、僕なんか、2010年代の亜美子さんからしたら、50代のオッサンですよ?」
「私は、それでも良かったんです。もし、50代のトシさんが、私のことを見てくれるなら、それでもいい、そう思って、あなたに逢おうって、決めたんです!」
「ごめんなさい、亜美子さん、約束守れなくて。繰り返しになりますが、自分の身体のことは、自分がよく分かります。僕の体調は、日増しに悪くなっています。この分だと、もう1ヶ月も、もたないでしょう。
だから、これが正真正銘、最後の通話になります。
何か、言い残しておきたいことは、ありませんか?」
亜美子の涙は、とどまることを知らなかった。そして、亜美子は、何とか声を絞り出して、こう言った。
「…分かりました。じゃあ最後に、フランスの話、聴かせてください。」
「そうですね!では、何から話しましょうか?」
「あと、脱線は止めてくださいね!」
「…難しいですが、努力します!」
そしてその日2人は、夜遅くまで、語り合った。フランスの話、また過去と未来の話、また他愛もない会話…。それは、これが最後の通話になることが嘘のようで、また、トシがこの世からいなくなることも、嘘のようで、亜美子たちにとって、楽しい、楽しすぎるほどの、またかけがえのない、時間であった。
※ ※ ※ ※
2016年3月31日。この日は、トシの命日であった。亜美子は、トシとの最後の通話を終えた後、母親に、トシとのことを、全て話した。それを聴いて母親は泣き、トシとの思い出を、亜美子に語ってくれた。
そして亜美子は母親から、トシのお墓の場所を、教えてもらった。そして、この日、トシの墓参りに、行くことにしたのである。
「これが、トシさんの墓か…。亜美子、大丈夫?」
「うん、大丈夫。トシさんのことは、一生忘れない。でも、私も前を向いて、生きていかなくちゃ!
…って、お母さんも前に、同じようなこと言ってたんだけどね。」
亜美子の隣には、付き合い始めたばかりの、浩一の姿があった。
不思議と、亜美子の目には、涙はなかった。そして、亜美子は、献花をした後、家へと帰っていった。
※ ※ ※ ※
1986年3月31日
俊樹の容態が急変した、という知らせを聞き、俊雄、美香の2人は、病室へと急いだ。俊樹の家族からは、
「俊樹の最後に、2人も居合わせて欲しい。」
という要望を、2人は聞いていた。
2人が病室についた時、俊樹には意識がまだ残っていた。後で医者が言うには、2人が来るまでは、ずっと昏睡状態が続いており、その意識が、一時的にではあるにせよ戻ったことは、奇跡に近いという。
「おい、俊樹、聞こえるか?」
「俊樹くん、聞こえる?」
「…ああ、美香さんと俊雄だね。聞こえるよ。僕、2人に会えて、本当に良かった。今までありがとう。
じゃあ、先に行くね。」
そう言った俊樹は、一瞬、見開いた目を閉じた。そして、眠るように、息をひきとった。(終)
20kHz 水谷一志 @baker_km
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