第4話 母の話
2016年1月11日。この日は、待ちに待った亜美子の成人式の日だ。亜美子は、小さい時から、テレビのニュースで見る新成人の振袖姿を見て、自分もいつか、こんな服を着てみたいと、常々思ってきた。また、母子家庭で育った亜美子は、(特に小さい時は、)成人になったら、親に楽をさせてあげられるんじゃないか、いや、そうならなければならないという漠然とした思いを、持っていた。(その思いは、小さな時は本当に漠然としたものであったが、亜美子が大きくなるにつれ、より具体的なものへとなっていった。)
そんな、かねてより楽しみにしてきた、成人式であったが、肝心の、亜美子の成人式の本番の日、亜美子は、全くモチベーションが上がらなかった。もちろん、亜美子は女の子なので、成人式の日は朝早くから、ヘアサロンに行って好みのヘアスタイルにしてもらい、また、亜美子の好みの色の振袖(亜美子は鮮やかな赤色が好きであった。)に袖を通すなど、念入りな準備をして、成人式本番を迎えようとしていた。また、その日は成人式終了後、地元の同級生と、2次会をする予定で、亜美子はずっと、それを楽しみにしてきた。
しかし、失恋のショックは、予想以上に亜美子の心にダメージを与えたようだ。
「できるなら、この振袖姿、トシさんに見てもらいたかった…。」
亜美子は、サロンでの準備の時から、そんなことばかりを考え、全く集中できなかった。
そして、成人式本番を迎えた。まず、亜美子たち新成人は、市長の話を聞いた。テレビのニュースでは、たまに新成人のマナーが悪く、それに苦言を呈するような報道がされる時もあったが、幸い亜美子の地元は、そのような新成人はおらず、会は粛々と進んだ。しかし、亜美子は、市長の話を聞ける状態ではなく、ただ、マイクを通して聞こえてくる市長の話を、雑音ぐらいにしか感じることができなかった。
「マイク、か…。去年は、マイクやヘッドホンを通じて、トシさんと話をしていた。今ではそれが、嘘みたい。それは少し前のことなのに、だいぶん前のように感じるのは、なぜだろう?
トシさんは、今頃何をしているんだろう?」
亜美子の心の傷、また喪失感は、年をまたいでも、全く消えてはいなかった。
「お、亜美子じゃん。どうした?元気ないみたいだけど。」
「ううん、何でもないよ。」
市長の話を終え、写真撮影に向かう途中、同じく新成人になった浩一が、亜美子を見つけ、話しかけた。浩一は、この日は黒のスーツに、明るい赤色のネクタイでキメており、「スタイリッシュ」という言葉がよく似合う、大人の男性の魅力を、存分に出していた。
また、そのため浩一は、そこにいる振袖姿の女子たちから頻繁に声をかけられ、全体の写真撮影が始まる前から、スマホの自撮り等に、
「あの、良かったら、一緒に写真、撮ってくれません?」
と、何回も呼ばれていた。
そんな、ある意味多忙な浩一であったが、亜美子の様子だけは、ずっと気にかけていた。
「亜美子、こんな日でも、元気ないみたいだな…。」
浩一は、昨年から、ずっとそのことを気にかけてきたのであった。
そして、
「何があったか知らないけどさ、亜美子、もっと今を楽しみなよ。ほら、成人式ってさ、人生に1回きりじゃん?だから、もったいないよ。
今から写真撮影だな。この撮影も、人生で1回きりなんだから、変な顔してたら、一生、笑われるよ。だから、元気出しなよ。」
亜美子は、浩一にそう言われ、はっとした。
『私、そんなに覇気のない、顔してたかな?』
亜美子は心の中で、そう思った。そして、
「ううん、本当に何でもないよ。ただ、大学のレポートとかで、ちょっと疲れてただけだから。」
と、浩一に小さな嘘をついた。
「そっか、それならいいんだけどね。」
浩一の方も、深い事情はあえて訊かず、亜美子のバレバレの嘘を、そのまま受け取るのも優しさだと、自分に言い聞かせた。
「でさ、撮影の後の2次会、亜美子も来るよな?」
「いや、私、疲れてるから、遠慮しようかな、って思ったんだけど…。」
「…そっか。俺は参加する予定だから、楽しんでくるよ。」
浩一はそう言い残し、亜美子との会話を終えた。
そして、写真撮影が始まった。亜美子は、浩一の言葉を思い出し、撮影では、笑顔を見せるように努めた。そのため、写真の中の亜美子は、もともとの美形の顔が、さらに引き立つような笑顔を、見せていた。
「浩一に話しかけてもらえなかったら、私、今日の日を楽しめないだけじゃなく、一生後悔していたかもしれない。小さい時から、楽しみにしてきた成人式なのに…。やっぱり、持つべきものは友達だな!」
亜美子は写真撮影終了直後、そう心の中で呟いた。(しかし、浩一の亜美子に対する想いには、相変わらず気づかない、亜美子であった。何でもできる亜美子であったが、この辺り、亜美子は昔から成長していない。)
成人式終了後、亜美子は振袖から私服に着替えた。そして、当初は2次会に行く予定であったが、その予定もキャンセルし、亜美子は自宅に帰った。
「亜美子、今日は早く帰ってきたのね。そういえば、2次会はどうしたの?」
家に着いた後、亜美子はそう母親に訊かれたが、トシの件を話すわけにもいかず、少し面倒そうに、
「ちょっと、今日は疲れたから…。」
と、ごまかした。
「そう…。それなら、話は後の方がいいわね。」
「え、話?」
母親のこの言葉を聞いた亜美子の注意は、一気に母親に向いた。
「そう、今日は亜美子に話があるんだけど…。もちろん、疲れてるなら明日でもいいわよ。」
「何の話?」
「これは、亜美子が成人になってから、話そうと思ってたんだけど…。
亜美子の、お父さんの話です。」
それを聞いた瞬間、亜美子の注意はさらに、母親の方に向いた。その瞬間、一時だけ、亜美子の頭はトシのことから、完全に離れた。亜美子はそのことで、トシに対して少しの罪悪感を持ったが、
「ごめんなさい、トシさん。」
と、心の中で小さく謝った。
亜美子の父親は、亜美子が物心ついた時から、亜美子の元にはいなかった。そのため、亜美子は小さい時から、女手一つで育てられてきた。しかし、亜美子は今まで、
「私のお父さんは、今どこにいるの?どうしてるの?」
と、訊いたことはなかった。もちろん、亜美子は自分の父親について、気にならない、ということはなかったが、それは自分の母親にとって、触れてはならないことである、という空気を亜美子は感じていたので、あえて口に出すことはなかった。
「亜美子、今まで黙っていてごめんね。私も、心の整理がついていなくて…。でも、いつかは、ちゃんと話をしなくてはいけない、そう思って。だから、亜美子が成人になったこの日に、ちゃんと話をしなきゃ、そう思ったの。
だから、お母さんの話、聞いてくれる?もちろん、疲れてるなら、後でもいいわよ。」
「ううん、大丈夫。じゃあ、今から話してくれる?」
亜美子はそう言い、母の話を聞くことにした。
―亜美子と、お父さんの話をするのは、これが初めてね。繰り返しになるけど、今まで黙っていて、本当にごめんなさい。お母さんは、決してお父さんのこと、隠そうとしていたわけではないんです。でも、お母さんの心の整理がついていなかったのと、言いそびれたのとで、このタイミングになってしまいました。
亜美子も今まで、亜美子のお父さんについて、いろいろ気になってたと思います。だから、お父さんのことについて、私の知っている限りのことは、全部話すから、亜美子も質問があったら、遠慮なくしてね。
まず、お母さんとお父さんとの、出会いから、話します。お父さんとは、お母さんが大学生の時に、出会いました。前に言ったかもしれないけど、お母さんは、亜美子と同じ、○○大学文学部の、フランス文学専攻でした。―
亜美子は母にそう言われ、高校時代、亜美子が志望大学を○○大学に決めた時、
「お母さんも、そこの大学出身なんだ。○○大学はいい大学だから、頑張って受かったらいいね。」
と言われたことを、思い出した。また、亜美子がその大学で、フランス文学を専攻したいと言った時も、
「私も、フランス文学専攻だったんだ。親子って、自然と似てくるものなのかな。」
と、言われたことも思い出した。
―それで、お母さんはその大学に入学した時、前にも言ったけど、フランス文学を、専攻しました。そして、亜美子のお父さんも、フランス文学専攻でした。そこで、初めて2人は出会ったの。お母さんとお父さんは、そのフランス文学専攻の、同級生でした。
先に声をかけたのは、…お父さんの方です。私は、昔からフランスは好きだったんだけど、文学やその他のことについては、全然詳しくありませんでした。でも、亜美子のお父さんは、フランスの文学から歴史から、何から何まで詳しくて、私に、色々教えてくれました。そんなお父さんが格好良くて、私は、お父さんに、恋をしてしまいました。
それで、そんな何も知らない私だけど、お父さんは、そんな私のことを、
「かわいい。」
と思ってくれたみたい。それに、これは後から言われたことだけど、
「一生懸命な美香のこと、俺も最初から、好きだったよ。」
とのことで、2人は出会ったそのすぐ後から、両想いでした。
なんか、ノロケ話みたいになっちゃって、ごめんね。
それで、結局お父さんの方から告白されて、2人は付き合うことになりました。それから先は…、楽しかった!2人で流行りの映画を見に行ったり、遊園地に行ったり、ショッピングをしたり…。もちろん、2人でフランス文学の勉強も、いっぱいしました。お父さんは、中でもカミュがお気に入りで、よく、代表作の「異邦人」の良さを、語ってくれました。それで、カミュについて語る時のお父さんの目は、本当にキラキラしていました。その目を見る度に、私は、
「この人と一緒にいられて、私は、本当に幸せだ。」
と、思うことができました。
あと、私は、今の亜美子と同じ、サルトルに少し興味を持ったんだけど、やっぱり、サルトルって難しいわよね。それで、お父さんにいろいろ質問もしたんだけど、お父さんはサルトルについても詳しくて、代表作の「嘔吐」についても、解説してくれました。他には、お父さんは哲学の、フランス現代思想にも詳しくて、サルトルはもちろん、ラカン、レヴィナス、メルロ=ポンティなど、一通りは勉強していて、それについても、熱く語ってくれました。
…ごめんね。お父さんの自慢話みたいになっちゃってるね。でも、亜美子は私たちの子どもだから、まあいいか。
でも、それくらい、他の人に自慢したくなるくらい、お母さんにとってお父さんは、運命の人でした。
それで、一応なんだけど、私たち2人で行った旅行について、話をしておきます。旅行の行き先は…、もちろんフランス!私たちは、有名な観光地の、パリのルーブル美術館や、凱旋門、それにヴェルサイユ宮殿にも行ったんだけど、それだけではありません。他には、サルトルと、サルトルの内縁の妻のボーヴォワールの、お墓参りにも行きました。…かなりマニアックな場所だけど、2人とも、そのお墓の前で、サルトルたちの生前の功績に、思いをはせました。
あと、私たちは、南仏のプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏にある、ルールマランの、カミュの墓参りにも行きました。パリからは離れていたんだけど、お父さんがどうしても行きたい、って言うから…。それで、私も、お父さんの喜ぶ顔が見たくて、ついて行くことにしました。
その、カミュの墓の前に立った時のお父さんは、本当に神妙な面持ちで、今まで、見たことがないような表情をしていました。それを見て私は、
「この人は、本当にカミュのことを、愛しているんだなあ。」
と、思いました。ちょっと、カミュに妬けちゃうくらいにね。
…それは冗談です。それと、2人ともフランス語を勉強していたので、旅先では、積極的にフランス語を使いました。…って言っても、私は片言しかしゃべれなかったんだけど。でも、お父さんのフランス語はほぼ完璧で、「この人、よく勉強してるなあ。」
と、改めて思いました。亜美子も知っての通り、フランス語は発音が難しいんだけど、その発音も、お父さんはネイティブに近いくらい完璧で、現地の人も、
「すごいですね。」
という、リアクションをしていました。それを見てお母さんは、1人で誇らしく、なっていました。
そんなこんなで、私たちのフランス旅行は、終わりました。私は、フランスに行ったのはそれ1回きりなんだけど、またフランスに、行ってみたいなあ…。
そして、私たちは、大学を卒業して、しばらくしてから、結婚しました。その時は、2人とも、本当に幸せでした。
それと、亜美子の話をするね。亜美子が産まれてきたのは、それからまた数年後のことでした。私たちは結婚したのは早かったけど、2人の間には、なかなか子どもが産まれなかった、ってことになるね。
まあ、そんなこんなで、亜美子が生まれました。亜美子を出産した時、お父さんも病院で立ち会ってくれて、亜美子の泣き声が聞こえた時は、2人で、号泣しました。お父さんの泣き方は、ちょっとオーバーなくらいの号泣で、それを見てお母さん、少し、おかしくなっちゃった。
でも、それだけ、私のことも、産まれてきた亜美子のことも、この人は愛してくれているんだなと思って、私は、改めて幸せになりました。
ちなみに、「亜美子」っていう名前は、2人で考えて、つけました。最初、私たちはフランスにちなんだ名前にしようかな、って考えたんだけど、なかなか良い名前が浮かばなくて…、それで、一旦フランスからは離れよう、ってことになったの。
それで、「心の美しい人に、なって欲しい。」っていう思いから、「美」の文字を入れようってことになりました。あと、「亜」の文字には、
「自分たちのホームである、アジアを愛するようになって欲しい。」
っていう意味が、込められています。何でいきなりアジアかって言うと、私たちは、やっぱりフランスのことを考えてしまって、それで、
「フランスなど世界のことはもちろんだけど、それだけでなく、日本や、アジアのことも考え、愛する人になって欲しい。」
という意味も、亜美子の名前に込めました。
…若干、こじつけのように感じるかもしれないけど、私たちは、真剣に考えて、名前をつけました。だから、亜美子も自分の名前、気に入ってくれたら、嬉しいな。―
亜美子は、母の話を聴き、目に光るものを浮かべていた。
「私は、こんなに愛し合った両親のもとに、
産まれてきたんだ。私は、幸せ者なんだ。」
亜美子はそのことを、実感していた。
しかし、それならなぜ、お父さんは今の亜美子の元にはいないんだろう?素朴な疑問が、亜美子の頭の中に浮かんだ。
―ここまで、お父さんと、私のことを、話してきました。それで、ここからが大事な話だから、よく聴いてね。
そんなお父さんとの別れは、突然やって来ました。その原因は、…
交通事故です。
その日は、亜美子が産まれてから、3年後のことでした。お父さんは、とある貿易会社で働いていたんだけど、その勤め先の貿易会社で、残業をしていました。そして、夜遅くになって、少し気分転換をしようとして、散歩に出かけたそうです。それで、信号が青になったのを確認して、横断歩道を渡り終えようとした瞬間…、
交差点の右側から、全速力で走り、曲がってきた車が、お父さんにぶつかりました。そして、お父さんは意識を失いました。ちなみに、その車は私たちと同世代の人が乗ったスポーツカーで、その日は飲み会の帰りだったそうです。
いわゆる、飲酒運転ってやつだね。そこに乗っていたメンバーは、全員が飲酒していて、夜遅くということもあり、周りを、よく見ていなかったみたいです。もちろん、運転手や、他の車内のメンバーは、逮捕されたんだけど、お父さんは、そのまま、帰らぬ人になってしまいました。
それを知ったお母さんは、本当にショックでした。その時は、その運転手を殺してやろう、とか、亜美子と一緒に、お父さんの所へ行こう、つまり心中しようとか、良からぬこともいろいろ考えました。でも、
「やっぱり、私たちは、強く生きていかないといけない。それが、あの人の望んでいることでもあるんだ。心中しようとか、ましてやあの時の犯人を殺してやろうなんて、考えるべきではない。」
って思い直して、何とか、踏みとどまりました。
でも、なかなか気持ちの整理がつかなくて、今に至っています。今でも私は、お父さんの夢を見るときもあるし、急にインターホンがなった時は、
「もしかして、お父さんが帰って来たんじゃないかな?」
とか、考えてしまう時もあります。
でも、これっきり、お父さんの幻影を追うのは、止めにしよう、そう思っています。もちろん、できるかどうかは分からないけど、頑張ってみようと思います。
お父さんのことは、私は一生、忘れません。でも、お父さんのことを引きずるのは、お父さんが望む私の姿ではないと思います。だから…、
私は、強く生きていきたい。
これが、私とお父さんとの、今まで亜美子に言っていなかった話です。
今まで黙っていて、本当にごめんね。―
亜美子は、母の話を、聞き終えた。亜美子の目に浮かぶ涙の粒は、話の終わりになるにつれ、どんどん大きくなっていった。そして、その粒は亜美子の頬を流れ落ち、また亜美子は、声をあげて泣きそうになるのを、必死でこらえようとしていた。
亜美子がそうしている瞬間、突如、亜美子の頭の中に、ある疑念が浮かんだ。そして亜美子は、その疑念を晴らそうと、母にある質問をした。
「お母さん、話、ありがとう。…それで、私まだ、お父さんの名前を聞いていないんだけど…。
教えてくれない?」
「ああ、そうだったわね。ごめん、肝心なこと、忘れてた。
名前は、『田上俊雄(たがみとしお)』って言います。」
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