第3話 恋心
「今日は、クリスマスイブですね!」
亜美子はトシに、そう話しかけた。2015年12月24日。(1985年12月24日)この日の夜も、2人はヘッドホンを通じて話をし、「20kHz」のコミュニティに参加していた。
「そうですね!」
「あの、トシさん、今日、本当は予定あったんじゃないですか?私なんかと話をしていて、大丈夫ですか?ほら、今日、イブだし…。」
「ああ、そのことなら心配は要りません。残念ながら、今僕には、付き合っている人はいませんから。」
そのトシの言葉を聞いて、亜美子は安堵した。しかし、その安堵をトシに悟られたらまずい、亜美子はそう思い直した。
「アミさんの方こそ、僕なんかとしゃべっていて大丈夫なんですか?」
「もちろん大丈夫です!私も、今付き合っている人はいません。」
「そうなんですね。でも、アミさんはモテそうなので、すぐにいい人、見つかりますよ!」
トシにそう言われた亜美子は、少し複雑な気持ちになり、しばらくの間黙り込んだ。
「…アミさん、聞こえてますか?もしかして僕、何か気に障るようなこと言いました?」
「…いえ、そういうわけではないんですが…。」
「もし僕が変なこと言ってしまったら、遠慮なしに言ってくださいよ。」
「本当に、何もありません!」
亜美子は少し強めに、そう切り返した。
『トシさんは、女の子の気持ちに気づくの、苦手なのかな…。』
亜美子は切り返したのと同時に、心の中でそう呟いた。
亜美子とトシが通話を始めてから、約1週間が経とうとしていた。その間、2人は、2010年代について、また1980年代について互いに語り合い、お互いの情報交換をしていた。また、お互いに同じ大学のフランス文学の専攻ということもあり、大学に関する話をしたり、フランス文学について語ったりもしていた。
その中でも特に、2015年現在の、亜美子の大学のフランス文学の教授が、1985年の時点では同じ大学の大学院生だったということが分かり、2人はその話で大いに盛り上がった。
「えっ、河北誠教授って、そっちでは大学院生なんですか?」
「え、あ、はい。ということは、河北さんは教授になったんですね?」
「え、まあそういうことになりますかね。
でも若い頃の河北教授って、どんなでした?やっぱり厳しい人ですよね?私、この間もレポート提出したんですけど、
『中田さんのレポートは、いつも詰めが甘いですよ。』
って言われちゃいました。本当に、河北教授は厳しいんです。」
「え、そうなんですか?意外だな~。河北さん、文学に対する造詣は確かに深いみたいなんですけど、ちょっと抜けてるっていうか、何というか…。この間も、修士論文の発表会があったんですけど、その当日に、何と自分の論文のレジュメ、忘れてきたんです。」
「え~そうなんですか!?ちょっと驚きです。河北教授、忘れ物に対しても、厳しいですよ。
『忘れ物をするということは、気が抜けているということです。』
とか何とか、よく言っています。」
「え、そんなこと言ってるんですか?こっちも驚きですね。」
「全く、それじゃ人のこと言えないですよね!
でも、河北教授の、若い頃の意外な一面、知ることができました。ありがとうございます!」
「いえいえ、それは僕も同じです。
ただ、その後レジュメを取りに帰って、遅れて発表をされたんですが、その発表は、素晴らしかったです。テーマはモーパッサンについてだったんですが、やっぱり、この人は文学に対する造詣が深いだけではなく、文学を愛しているな、そう思わせる内容でした。その河北さんが30年後には教授…、分かる気がします。」
「私も、ちょっと厳しいけど、河北教授のこと、嫌いじゃないです。」
このような話で、2人は盛り上がっていた。
また、2人はフランス文学や、フランスについても、話をした。
「ところでアミさんは、フランスに行かれたことはないんですか?」
「私、まだないんです…。いつか、行ってみたいとは思うんですけど。トシさんは?」
「僕もないです。行ってみたいんですけどね。
でもこれから、行けるかどうか…」
「えっ、行きましょうよ、フランス。」
「そ、そうですね。また行けたら、行きたいと思います。
ところでアミさんは、好きなフランスの作家はいますか?」
「私は、作家というか、哲学者のサルトルが好きです。今、彼の『嘔吐』を、フランス語の原文で読もうと頑張っています。でも、なかなか難しいです…。」
「なるほど。サルトルは、日本語で読んでも難しいですよね。
僕は、カミュが好きです。僕も彼の『異邦人』を、原著で読もうとしています。でも、フランス語って難しいですよね…。」
「私もそう思います…。でも、お互い頑張りましょうね!」
「そうですね。Merci beaucoup!(ありがとうございます!)」
「Il n‘y a pas de quoi!(いえいえ!)」
2人は、フランス語も冗談で交え、こう言い合った。
そして、そんな他愛もない話や、真面目な話をしていくうちに、亜美子の気持ちに、変化が訪れるのを、亜美子自身が感じていた。
「最初、トシさんと通話した時、第一印象は、最悪だった。この人は、もしかしたらストーカーかもしれないなんて、思ったりもした。
でも、トシさんのことを知って、トシさんはそんな人じゃない、トシさんには、謝らないといけない、私はそう思った。
でも、今、私の気持ちはそんなんじゃない。私は、トシさんのことをもっと知りたい。もっとトシさんと話をして、トシさんと繋がっていたい。そして、私は…、
トシさんと一緒になりたいんだ。」
これが、亜美子の心の声であった。
今まで亜美子は、母子家庭で育ち、余裕がなかったためか、恋愛らしい恋愛を、したことがなかった。もちろん、亜美子に好意を寄せる男子は昔からいたが、亜美子の方から男子を好きになることはなく、
「中途半端なお付き合いは、したくない。」
という亜美子の気持ちから、これまで亜美子は誰とも付き合ってこなかった。
しかし、今回は違った。自分でも、今までの男性と、どこが違うのか分からない。ましてや、トシさんとは会ったこともなく、声を聴いているだけなのに…。それだけであるにも関わらず、亜美子は、確実にトシに惹かれていた。これは、遅ればせながらの、亜美子の「初恋」かもしれない、亜美子は、そう思った。
そして、亜美子は、こうも思った。
「人間、恋をする時は、理由なんて、ないのかもしれない。よく、
『あの人の、ここが好き。こんな所が好き。』
とか、テレビなどで言っているが、そんなもの、当てにならない。私は、今になって初めて、それが分かった。
人を好きになるっていうのは、理屈じゃない。その証拠に私は、こんなにもトシさんに、惹かれている。
…私は、トシさんのことが好きだ。」
亜美子は、自分の中に芽生えた初めての気持ちに、少し戸惑いながらも、その気持ちを大切にしよう、そう思った。
また、実はこの日、12月24日に向けて、亜美子は浩一から、数日前にデートの誘いを受けていた。
「え、映画?」
「そう、映画、一緒に見に行かない?亜美子、この映画、前に面白そうって言ってたじゃん。俺もこの映画、気になってたんだよね。だからさ、一緒に行こうよ。」
「いやでも、その日は…、ちょっと、用事があるんだ。ごめんね。」
「え、用事?用事って何だよ?」
「…別に何でもいいでしょ!」
亜美子はぶっきらぼうに、そう答えた。浩一には、自分の初恋のことは、恥ずかしいから知られたくない、そこにはそう思う亜美子がいた。(この辺り、亜美子の感覚はまだ幼かった。)また、いちいち「20kHz」について説明するのは面倒だ、亜美子はそうも思った。
「ま、まあ用事なら仕方ないか。分かったよ。」
「それより、その日ってクリスマスイブでしょ?私なんかの相手しないで、もっとかわいい女の子とか、誘ったりしないの?浩一だったら、モテると思うんだけどな。私で暇つぶしなんかしないで、早く彼女、作りなさいよ!」
『バカ、俺が好きなのは、お前だけだよ。』
浩一は、喉の上まで出かかったその言葉を、途中で何とか抑えた。そして、
『亜美子は、何でもできるけど、恋愛に関しては鈍い奴だな。』
浩一はこうも思った。
「わ、分かったよ。努力するよ。」
浩一は、最終的にこの言葉を選び、亜美子の前で口に出した。
そして、クリスマスイブを、亜美子は迎えた。この日も2人は、他愛もない話で盛り上がった。
『トシさんと話をしていると、時間が経つのがあっという間だ。本当に、トシさんと話をしていると、楽しい!』
亜美子は心の底から、そう思った。
そして、この日亜美子は、トシに、あるプレゼントを用意していた。そして、それを取りに来てもらうため、また、亜美子の想いを、トシに伝えるため、亜美子は、オーディオレターを、この日のために用意した。
「ああ楽しかった。じゃあ私、そろそろ寝ますね。」
「そうですか。それではおやすみなさい。」
「おやすみなさい。ああ、私のもとに、サンタさん来てくれないかな?」
「えっ、そういう年齢でもない気がしますが…。」
「冗談ですよ冗談。あと、私、今日の日のために、オーディオレター、用意したんです!これ、マイク付きヘッドホンをCDプレーヤーにさして、再生したら、うまく聴こえますかね?」
「おそらく大丈夫だと思います。やってみてください。」
「分かりました。では、今からオーディオレター、かけますね。返事は、明日してください。それでは、おやすみなさい。」
「ありがとうございます。おやすみなさい。」
トシはその直後、亜美子のオーディオレターを、聴くこととなった。
「…トシさん、聴こえますか?改めてこういうことをするのって、何か照れますね。でも、私、こういうの、嫌いじゃないんです。
まず、トシさんにプレゼントがあります。似合うかどうか分からないんですが、ネックレス、買って来ました。でも、声を聞いただけで、1度も会っていない人に、プレゼントを渡すのって、何か変かな?…でも、優しいトシさんのことだから、きっと受け取ってくれる、そう信じています。
そして、私は、トシさんに会いたいです。トシさんとしゃべっていると、時間が経つのが、あっという間に感じます。そして、トシさんはどんな人かな?そんなことを、1人で考え、勝手に妄想しています。…すみません、変な意味じゃないですよ。
というわけで、私、アミは、2015年の12月25日、大学の文学部棟、フランス文学研究室の前で、トシさんを待っています。多分、トシさんの所にもサンタさんは来ないと思うので、私がサンタさんになってあげます!…っていうのは冗談ですけど。
でもこれって、私にとっては明日だけど、トシさんにとっては、30年後になるんですよね?大丈夫かな?…でも、優しいトシさんのことだから、きっと来てくれると信じています。
では、おやすみなさい。」
亜美子はこのオーディオレターを録音した時、少し不安に駆られていた。
「さすがに、30年後の約束は、守られないんじゃないかな?それに、トシさんだってその頃は、結婚しているかもしれないし…。
でも、それでもいい。私は一目でいいから、トシさんに逢いたい。そして、その時もし、トシさんがまだ1人なら…。
トシさんと一緒になりたい。」
そして、トシに会った時、亜美子は、「好きです。」という自分の素直な気持ちを、トシに伝えよう、そう思っていた。
そしてこの日、亜美子は、いつもの通い慣れた、フランス文学研究室の前でトシを待っていた。このフランス文学研究室は、30年前から、内装などは特に変わっていない。今まで亜美子は、
「30年間建物が変わっていないのは嫌だな。どうせなら、新しい内装の方が良かった。」
と、常々思ってきたが、トシと出会ってからは、
「建物の内装、トシさんの時と、変わっていなくて良かった。この研究室、トシさんもおんなじように使って、おんなじようにキャンパスライフを、過ごしてきたんだな。」
と、30年前に思いをはせるようになった。
そして、そこにたまたま、浩一がやってきて、亜美子と出くわした。
「あ、亜美子じゃん。何やってんの?」
「べ、別に何でもないよ。いいでしょ。」
実は少し前から、浩一は亜美子の様子の変化に気づいていた。
「って言うかさ、亜美子、最近様子が違うよね。」
「そう?いつもと同じだと思うけど。」
「いや、違うと思う。もしかして、好きな人でもできた?」
「そ、そんなんじゃないよ。」
亜美子はそう答えたが、その態度は動揺しており、亜美子のことをよく知らない人が見ても、それは浩一の指摘が図星であることがはっきり分かる態度であった。
「そっか。まあ別に、いいけどね。じゃあ俺、急ぐから、またな。」
「う、うん、またね。」
そう言って、浩一は亜美子と別れた。
「亜美子にもついに、好きな人ができたのか…。」
浩一は亜美子と別れた直後、そう思い、少しショックを受けた。そして、
「相手は、どんな奴なんだろう?」
浩一は、そのことが気になりだして仕方なかった。
しかし、いくら待っても、トシは現れない。亜美子は、それでも待ち続け、50代くらいで、亜美子の知らない顔の人を見る度に、
「あ、もしかして、トシさんかな。」
と思い、そして違う、と分かる度に、
「なんだ、違うのか。」
と、一喜一憂した。(もちろん、フランス文学研究室の前は人通りはそんなに多くはないので、一喜一憂する回数は少なかったが。)
結局、トシはその日は、現れなかった。亜美子は待っている間、ヘッドホンで、トシと連絡を取ろうと試みたが、何度トシに呼びかけてみても、連絡はとれなかった。(もちろん、連絡をとっているトシは30年前のトシで、現在、2015年のトシではないので、通話はできないのではないかと亜美子は思ったが、念のため、亜美子はヘッドホンを持って来たのである。)
「トシさん、どうしたんだろう?やっぱり30年後の約束って、無理があるのかな…?」
亜美子はそんなことも考えながら、その日は帰ることにした。
そして、亜美子は家に到着し、自分の部屋に入った。家へ着くまでの道の途中、亜美子は、楽しそうに歩く、カップルを何組か見ることとなった。(カップルにとっては、24日のクリスマスイブの方がデートのメインかもしれないが、25日のクリスマスも、仲の良さそうなカップル達を見ることができた。)
亜美子は今まで、そんな光景を見ても、
「あ、あのカップル、楽しそうだな。仲良さそうだな。」
としか思ったことはなかったが、この時初めて、
「私もああなりたい。うらやましい。」
という気持ちを、亜美子は持ってしまった。
「これが、恋というものなのか…。」
亜美子は、遅ればせながらの初恋を、こんな些細なことからも、感じることになった。
自分の部屋に入った亜美子は、何もする気になれず、しばらくぼんやりしていた。そして、おもむろにパソコンに、いつも通話で使っていたヘッドホンをつけた。すると、
「1件のオーディオメッセージがあります。」
という文字が、パソコンの画面上に出てきた。「もしかして、トシさんかな?いや、きっとそうに違いない。」
亜美子はそう思い、いてもたってもいられない思いで、その画面上のメッセージをクリックした。
するとそこから、聴き慣れてはいるが、今日という日にどうしても聴きたかった、トシの声が、溢れるように流れてきた。
「アミさん、お元気ですか?トシです。オーディオレター、ありがとうございました。正直、めちゃくちゃ嬉しかったです。1度も会ったことがないのに、こんなに良くしてくださって…。本当に、感謝です。
さて、それでなんですが、約束、破ってしまいごめんなさい。実はその、事情があって、今日はそちらに伺うことができませんでした…、いえ、はっきり言います。これからも、僕はアミさんに、会うことはできないと思います。
もちろん、僕はアミさんと会いたくないわけではありません。僕だって、アミさんの顔が見たいです。でも、それは事情があって、できないんです…。本当にごめんなさい。
あと、もう1点なんですが、申し訳ないのですが、これで、アミさんとの通話は最後にしませんか?このオーディオレターが、最後の『通話』、ということでよろしいでしょうか?
今まで、僕はアミさんと話ができて、すごく楽しかったです。アミさんから聞く未来の話は、知らないことばかりで、とても新鮮でした。いや、それだけじゃありません。アミさんとの会話は、どれも楽しかった。だから、名残惜しいですが、この辺で終わりにしないといけないんです。
僕は、アミさんと出会えて、本当に良かった。
さよなら。」
…亜美子はここまでトシのメッセージを聴き終え、涙が止まらなくなった。今まで、亜美子はドラマや映画を見て泣くことはあったが、実生活ではあまり泣かないタイプであった。しかし、今回は違った。泣いても泣いても、涙が止まることはない。涙が洪水のように、目から溢れ出てくる。こういった経験を、世間一般では、「失恋」の漢字2文字で表すのだ、亜美子は少し落ち着いた後、そう思い知らされることになるが、この時の亜美子、メッセージを聴いた直後の亜美子は、そんなことも考えられないくらい泣き、自分のマイナスの感情に支配されていた。
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