6月に降る雪

福王寺

第1話

 川辺を歩いていると、一輪のバラが咲いていることに気付いた。

 真っ白なバラだった。雑草の中で一輪だけ、まるで何かを主張するように咲いていた。

 いつも6月を過ぎたこの時期は、冷たくない雪が降ってくる。今年も例年通りで、そのバラは半分雪で隠れていた。

 真っ白な雪に真っ白なバラ。とても幻想的で可憐な光景だ。まるでそこだけ1枚の絵画を切り抜いたようである。

 だが、私の心はわずかも動かない。なんの感情も抱かない。

 当然だ。私には関係のない風景なのだから。

 これから家に帰って自殺するのだから。


          ・   ・   ・


 自殺を決断するに当たって、これといった理由があるというわけではなかった。

 ただなんとなく。強いて言えばそれが理由であった。

 別にこのご時世、珍しいことではない。恐らく今この瞬間も、日本のどこかで私と同じ「なんとなく」という理由で命を絶った者がいるだろう。

 一種の流行である。私は流行に乗った1人として処理され、すぐに忘れ去られるだろう。そんな世の中だ。

 今の日本はただ生き続けるだけでも難しい。皆、己が積み重ねた生活を守るので精一杯だ。私のようなちっぽけな人間の死に、心を痛める者などどこにもいない。

 まあ、喜んでくれる人はいるだろうが。

 私の両親だ。もう私は5年ほど働いていない。無収入の私に遠く離れた田舎に住む両親は、定期的に仕送りをしてくれていた。もう親父もお袋も60を超えた。定年を迎えて貯金を切り崩して生活しているのだ。本当なら私が養わなければならないのに、逆に私が枯れそうな親の脛をかじっている。

 そんな両親も、先月から仕送りをストップした。「これからは自分達だけの豊かな生活をしたい」ということだった。その言葉は非常に頷ける。親父は再来年に65歳に到達してしまう。そうなるとこの前制定されたナントカとかいう法律により、国営の老人ホーム、「安楽園」に強制収容されてしまう。たぶんお袋も65歳に到達していないけど、親父と一緒に入所するだろう。安楽園は入所希望者を拒まない。

 安楽園の中身は公表されていない。老後の生活を「安らか」に過ごすための「楽園」のような施設。それが政府の公式発表だが、それが真実かどうかは誰もわからない。

 なぜなら、安楽園に入所した者には、どうあっても面会することができないから。

 唯一の安否確認、それは年に1回国が家族に送付するビデオレターだけである。一方的に入所者の情報を受け取るのみ。こちらからは何かしらのメッセージを届けることはできない。

 そしてそのビデオレターでは不自然なくらい元気に、カメラに向かって語りかけてくるそうだ。

 癌細胞に侵され、余命幾ばくもないはずの寝たきりの父親が、目を輝かせて「ここは天国だ。お前も早く来い」と語りかけていたという話も聞く。

 この安楽園について、色んな噂は飛び交っている。それは、「安楽死」させられる園。安楽園に収容された人は殺されているのではないか。細かい差はあるが、噂の最大公約数を取ると、概ねそのような内容であった。

 それはすなわち、定年を迎え生産することが不可能になった個体の処分。ゾッとする話だ。

 気味の悪い世の中だ。だが、一番恐ろしいのはその法律でも何でもない。

 そんな法律がまかり通り、誰も反対意見を唱えない、今の世論だ。

 つまり、もう皆気づいているのだろう。気づいているが、口にしないだけだ。

 今のこの日本には、高齢者を養うほどの余裕がないということに。


          ・   ・   ・


 私が生まれるずっと前から、日本は歪んでいたらしい。ただ、政府が巧妙に隠していたから、そこにある危機に気づく者は少なかったらしい。

 私も記憶がある。日本が「変わった」日。

 盟和15年6月15日。今から18年前。私が10歳の時である。

 その日、年々増え続けた日本の人口がついに3億人を突破した。高度成長した医療技術で、どんな重病患者も死ななく、いや、死ねなくなった結果である。その日の報道はその特集を行う予定であったが、朝のニュースは急遽気象情報に塗り替えられた。

 日本一帯に雪が降ってきたのだ。真っ白でとても綺麗な、だけど冷たくない雪。

 夏前、本来なら梅雨に当たるその季節に、日本列島は一夜にして真っ白に染まったのだ。

 あの朝の光景は今でも鮮明に覚えている。朝起きて学校に行こうと外に出たら、辺り一面が白銀に染まっているのだ。

 クラスメイトとはしゃいで、グラウンドで雪遊びをした記憶がある。

 それからしばらくテレビではその謎の雪のことで持ちきりだった。やれロシアからの寒気の影響だとか、特殊な条件が重なって融点の高い雪が発生したとか、果てはある企業の宣伝に人工的に降らせた物だ、いや、これは神からの啓示である。専門家は連日のように持論を言い合っていたが、どれも根拠が不足していた。

 結局その雪の謎は解明されず、夏を迎えると何事もなかったかのように降らなくなり、すぐに溶けた。

 翌年も、その翌年もその謎の雪は降った。さすがに3年目にもなるとそれが当たり前になり、いつしか「謎の」という冠が取れ、夏前の風物詩になった。

 一事が万事、だ。大きな異変も慣れてしまえば日常になる。異常な法律も、異常な気象も、異常な日本経済も、全部今では「日常」だ。

 私はそんな世界に絶望して自殺を思い至った……わけではない。

 なんとなくだ。

 なんとなく友達もいないし、仕事もしたくないし、面倒くさくなったので死のうと思う。別に明確な理由などはない。

 先にも述べたが、現在若者を中心に自殺が流行している。

 あるインターネットサイトで、自殺する直前の者たちがその理由を書きこむ掲示板がある。先日テレビにも取り上げられたらしく、大盛況だ。

 書き込まれている自殺の理由は様々だ。いじめから開放されたい。受験に失敗した。もっと上の世代になると仕事がうまくいかない。借金が返せない。興味深い理由では、「私は気象観測員です。例の『謎の雪』の正体を解明し、今後の世界に絶望しました」というものもある。もちろん信憑性は疑わしいが。

 そして圧倒的多数の自殺の理由は、私と同様「なんとなく」である。

 なんとなく、昼飯は何にしようかと考えるのと同じように、自殺を考えるのである。

 そんな自殺者があまりに多すぎるため、ここ数年はいちいち報道されなくなった。

 大昔の日本では自殺は悪しき事で、政府は止めるようにと呼びかけていたらしいが、今ではむしろ推進しているようにしか思えない。増えすぎた人口を調整するために、質の悪い品種を間引こうとしているのか。

 それを裏付ける良い例がある。4年ほど前、ある商品が発売された。その商品は賛否両論があったが、政府はその販売を禁止する事はなかった。

 その結果、その商品は爆発的に売れて、今では全国のコンビニでも気軽に買えるようになった。

 私も先ほど購入して、今私の手下げカバンの中に入っている。

 その商品の名前は、「カンタン! 自殺セット」である。

 やはり、この日本は病んでいるようだ。


          ・   ・   ・


 最後に、近所の川辺を歩きたくなった。

 私はこの川が気にいっていた。いつか恋人と一緒に歩きたいと思っていたのだが、結局その想いは実現する事はなかった。

 いつも独りだ。

 私はほぼ毎日この川辺に来ている。毎日、飽きる事もなく。

 奇麗な眺めである。川の流れはとても穏やかで、陽光を反射して光り輝いている。今日は休日の昼間ということもあって親子連れやカップルが数多く見受けられる。

 彼らは悩みなど皆無な、とても幸せそうに笑っている。しかし、果たして彼らの笑みは本物だろうか。私はここに来る度にその疑問がよぎる。

 心地よい風が吹いてくる。私はアスファルトで舗装された通路を歩いていった。

 途中1組の親子とすれ違った。小学校低学年くらいの男の子とその妹、まだ若い母親の3人である。男の子が私の横を走り抜け、ややあってから妹と母親が手をつなぎながらそれについて行く。

 とても仲むつまじい光景である。

 しかし。

 私にはとてもそれが微笑ましい光景には見えない。ゾッとする。

 こう思う私はひねくれ者だろうか。いや、私にはそうは思えない。

 なぜなら、私の目の前に「あの」光景が見えてきたから。

 真っ白なバラである。雪に半分隠れたその花のすぐ隣には、男の死体が横たわっている。ホームレスのようだ。年齢はもう初老を迎えた頃だろうか。頭が割れて周りの雪を真っ赤に染めている。

 こんな光景は日常茶飯事だ。どうせ若者がなんとなくやったのだろう。いつものことだ。日常の風景。気にする人はいない。

 私もホームレスの死体ぐらいで心は動かない。だが、この光景の中で家族の団らんをしようとは思えない。

 どちらがおかしいのだろうか。私にはわからない。

 私もすぐにその場を離れようとした。が、一瞬だけ足を止めた。

 くだんのバラに近づき、腰を屈めた。バラの花の上にまで雪が積もっており、わずかに折れそうになっていた。

 私は周りの雪を払い、完全にバラの姿が見えるようにした。

 特に深い意味はない。なんとなく、そのホームレスの墓標代わりに咲いているのではないかと思ったから。

 一応、挨拶代わりに手を合わせた。

 私は神など信じているわけではないが。


          ・   ・   ・


 今、若者の間である遊びが流行っている。

 自殺希望者を殺す遊びだ。

 手口は非常に単純。コンビニやデパートで「カンタン! 自殺セット」を購入した者を、見つけ次第捕らえて殺害するというものである。

 彼らは自らを「狩人」と名乗り、インターネットのある掲示板で自慢げに戦況報告をしている。

 私には全く理解はできないのだが、この遊びの醍醐味は、対象者である自殺希望者の反応にあるらしい。

 命乞いをする者、抵抗をしない者、「命を絶つ自由を奪うな」と怒り出す者、逃げ出す者。どうせ死ぬ予定だったのだからと警察も取り締まらないことをいいことに、彼らの遊びは全国に広がっていった。

 しかし、いくら流行だからといって、自殺志望者が全て狩られているわけではない。その数は商品購入者のわずか5%にも満たない。そしてその5%の中の四半数は狩られることを望んでわざと見せびらかしながら購入、半数は通信販売時の個人情報流出によるものらしい。

 つまりは店頭での購入で狩人への遭遇確率は購入者の1.25%。ほとんどないありえない、ということである。

 しかしほとんどないということは、全くあり得ないわけではない。ごく稀に購入現場を目撃された者が、運悪く被害に遭っている。

 私はその運が悪い購入者のようである。

「へへっ」

 下卑た笑みを浮べた若者達に取り囲まれた。私はその瞬間、彼らの目的を理解する事が出来た。

 その若者達に見覚えがある。先ほどコンビニで購入する際、店の前でたむろしていたのである。

 彼らは狩人だったのか。私がそう思っていると、目の前のドレッドヘアの男が私のカバンを取り上げた。

「あーやっぱコイツ、ブツ持ってるぜ」

 ドレッドヘアの男は笑いながら、私のカバンの中から「カンタン! 自殺セット」を取りだした。

「処刑ケッテー」

「これで10人目だな」

「ギャハハ。どうやってヤる? ハモノでブッ刺すのももう飽きたしな」

「そう言いながらナイフ出すなよ」

 若者達は軽口を叩きながら、それぞれ懐から武器を取りだした。ナイフやバール、ドレッドヘアの男はリーダー格らしい。1人だけ自動拳銃を持っている。

 私は周りを見渡した。川辺ののどかな風景は、私の周囲を除くと、ほぼ変化はないようであった。周りの親子連れは、まるで我々の姿が見えないかのように笑顔で通り過ぎていく。

 まあ、こんなものだ。こんな風景は日常茶飯事で、別段騒ぐことでもないのだろう。

 私がそう思って視線を若者達に戻そうとしたその時、ある視線を感じた。

 少し離れたベンチの近くで、1人の少女がこちらを見ている。真っ白なワンピースを着た、小さな女の子である。歳は中学生くらいだろうか。髪を後ろで2つに結んでいるその相貌には、わずかな表情も写していなかった。

「あ?」

 若者達も少女の視線に気づいたようだ。私の左側にいるスキンヘッドの男が、少女に向かって睨み返していた。

「なんだオメー、なに見てんだ!」

 スキンヘッドの男が凄んでも、少女は目を逸らさなかった。

「なんだ? アイツむかつくな」

「なあ、アイツも一緒にヤっちまおうぜ」

「でもヤバくね?」

「大丈夫だよ。あとで自殺セット買って置いときゃいいんだよ」

 若者達はそう言いながら下品な笑い声を上げていた。

 隙だらけだ。私はスキンヘッドの男が手にしていた折りたたみナイフを取り上げ、彼の胸に突き立てた。ナイフは彼の肋骨をすり抜け、心臓に到達したようだ。音もなく男は崩れ落ちた。

 若者達は一瞬、なにが起こったのか理解できないようであった。キョトンとした顔で私と倒れたスキンヘッドの男を見比べていた。

 私は若者達が正気に戻る前に、彼らの首筋を撫でた。辺りに鮮血が飛散し、彼らはその場で倒れ込んだ。

 やがて若者達はそのほとんどが骸となり、ドレッドヘアの男のみが呆然と立っていた。彼はまだ現在の状況を理解できていないようだった。私のような「自殺志願者」に、仲間の全てが殺されたという状況に。

「うあぁぁぁ!」

 ドレッドヘアの男は血溜まりの中に尻餅をつき、四つんばいのままその場から逃げ出した。

「…………」

 私はナイフを捨て、途方に暮れていた。さすがにこの状況で日常を演じる親子はいないようだった。もう、周りを歩く人の姿はない。

 己の姿は見えないが、おそらく返り血に染まっているだろう。家に帰ったら風呂に入らないと。こんな汚い姿じゃ死ぬに死ねない。

 私がぼんやりとそう考えていると、不意に少女がこちらの方へと歩み寄ってきた。相変わらずの無表情で。

「なんで殺したの?」

 少女は眉ひとつ動かさずにそう聞いてきた。

「いや、なんとなく。このまま殺されるのも癪だったから」

「なんで、自殺をするの?」

 少女は私の足下に転がっている「カンタン! 自殺セット」を一瞥してそう言った。その声は純粋に疑問に思っているという声色であった。

「なんとなく、だよ。今流行っているだろ」

「流行ってるから死ぬの?」

「なんとなく、だよ。別に私が死のうが生きようが、世の中は何ひとつ変わらないんだ」

「悲しい考えね」

 少女はため息をひとつして、こちらに一歩近づいた。彼女の真っ白な靴は、血溜まりで汚れてしまっている。

「そんなにひどい世界じゃないわよ?」

 少女はそう言って小さく微笑み、次の瞬間にはっとした顔で私の後方を見ていた。

 何だと思い振り向こうとしたその時、何か破裂音が聞こえた。

 身体に衝撃が走った。背中が熱い。見るとそこには先ほどのドレッドヘアが拳銃をこちらに構えていた。

 撃たれた? 私が背中に視線を向けるときには、ドレッドヘアの男はどこかに行っていた。

 私の背中は真っ赤に染まっている。身体が熱くて仕方がない。

 少女が私の肩を支えながら、何かを叫んでいる。

 真っ白な服が、私の血で随分と汚れてしまっている。

 そう考えているうちに、私の意識は遠のいていった。


          ・   ・   ・


 私には歳の離れた兄がいた。兄はとても頭が良かった。日本でトップクラスの大学を、トップの成績で卒業して、官僚として日本の最前線で働いているような人だった。

 家族としても兄の存在は誇らしく、平凡な大学で平凡な生活を続ける私は、常に比較されていた。

 特に悔しいという気持ちはなかった。年が10歳離れているということもあったのかもしれない。優しく細やかな性格で、誰からも好かれる人柄だったからかもしれない。

 私は兄が目標だった。兄と違って突出した才能はなかったが、それでもいつかは兄のようになりたいと思っていた。

 やがて私は大学を卒業し、東京の小さなソフトウェア会社に入社した。大学から東京で暮らしている兄に少しでも近づきたかったのだ。

 久しぶりに会った兄は少しやつれていた。どうしたのかと聞くと、「仕事が忙しいんだ」とため息をつきながら応えた。

 私は郊外の小さなアパートを借りた。兄は自分のマンションに来るようにと言ってくれたが、私はそれを断った。一緒に生活していては、いつまでたっても兄には追いつけないと思ったのだ。

 しかし、ああ。兄は兄なりに理由があって一緒に住もうと言ってきたのかもしれない。今ならわかるような気がする。

 1人になりたくなかったのかもしれない。

 ソフトウェア会社はとにかく忙しかった。人手が足りないのに、仕事だけは山のようにある。私は昼夜関係なく、休みなしで働かされていた。

 上京当初は頻繁に兄と酒を酌み交わしていたのだが、いつしか忙しさにかまけて会わないどころか連絡も取らない日々が続いていた。

 それでも私は良いと思っていた。男兄弟である。多少疎遠になったところで気にすることもない。

 そして社会人2年目の6月。急に兄のマンションに呼び出された。

 3ヶ月ぶりに会った兄は、さらにやつれていた。とても疲れているようであった。

 ここ3日は寝てないと言っていた。私が理由を聞くと、ポツリと「眠れないんだ」と漏らした。

 私はなんと返したら良いのかと思い悩み、ただ、先ほど煎れてもらった高級のコーヒーをしきりにすすって間を持たせようとしていた。

 かなり長い間沈黙があり、兄は小さな声でこう言ったのだ。

「なあ。俺を殺してくれないか?」

 私は耳を疑った。なぜ? 私が短くそう訊ねると、兄は表情を落とした。

 俺はこの日本を変えようと努力してきた。だけど、もうダメなんだ。もう終わりなんだよ。この日本は終わっている。断言できる。あと5年で最期を迎える。……本当は1人で死ぬつもりだった。だけど勇気が出ない。だから、頼む。殺してくれ。こんなことを頼めるのはお前くらいなんだ。

 兄は一気にそう言うと、鞄の中から1本のナイフを取りだした。これで殺してくれ。肋骨に対して水平に刺せば心臓に到達する。

 冗談じゃない。何でこんなことをしなければならないのか。私は最大限抗議をしたが、兄は聞き入れてくれなかった。ただただ私に頭を下げ、懇願していた。頼む、殺してくれ。

 私は悲しかった。これがあの完全無欠の兄なのか。これが私が目標にしていた兄なのか。

 これが。

 2時間後、私は渋々ながら承諾した。もうこれ以上憔悴した兄を見たくなかったのだ。

 事は一瞬で終わった。兄は抵抗することなく私のナイフを身体に受け入れ、多少苦しみながら静かに息を引き取った。

 兄の死に顔はとても安らかであった。

 その次の日、私は会社を辞めた。

 そして今日は5回目の、兄の命日である。

 最期を迎えると言われた、最終日である。


          ・   ・   ・


 気が付くと、私はベッドの上にいた。背中に鈍い痛みを感じる。

 どうやら病院のようである。次第に川辺での出来事が思い出されてきた。どうやら私は助かったようだ。

 5人部屋で、部屋の中にいるのは私1人であった。それ以外のベッドは全て空いている。例の安楽園ができてから、高齢者の入院が随分と少なくなった。多くの病院が経営難で苦しんでいる。

 と、不意にドアが開いた。部屋に入ってきたのは私の両親であった。まずお袋が私の姿を確認し、親父ににすがりついて泣いていた。

 親父はそんなお袋をなだめながら私に近づき、右の拳を振り上げた。

 衝撃があり、口の中に血の匂いが広がった。私はベッドに倒れ込んだとき、初めて自分が殴られたことを知った。

「……なんでわからないんだ」

 親父の声には嗚咽が混じっていた。

「早く自立してほしいから仕送りを止めたんだ。なのに、なんで死のうと思うんだ」

 どうやら私が自殺セットを購入したことを知っているようである。

「ねえ、なにか悪いことでもあったの? ……お兄ちゃんが殺されたことが関係あるの

?」

 お袋がためらいがちに聞いてくる。

 兄は強盗に殺害されたことになっている。誰も私が殺したという事実を知らない。

 そして犯人は未だ不明のままである。警察が殺人ごときで重い腰を上げるわけはない。そんなもんだ。

「別に。なんとなくだよ」

 私は両親から視線を外し、窓の外を見た。

「ねえ、なんでなの? 教えて?」

 お袋は私にすがってきた。

「…………」

 お袋の顔があまりにも惨めで、私は少し胸が痛んだ。

「……別に俺が死んでも誰も悲しまないと思ったから」

 私がそう言ったら、また親父に殴られた。先ほどよりも強い。私はまたベッドに身体を叩きつけられた。

 そして一言、「馬鹿野郎」と呟いた。

 私はその状況に関して、特に心情に変化はなかった。とにかく頬が痛い、それだけが頭の中を占めていた。

 ふとあることを思いつき、私はお袋に聞いてみることにした。

「ねえ、なんで俺は助かったの?」

 今ここで話ができているということは、誰かが助けてくれたということである。このご時世でそんな物好きな人間は、果たしているのだろうか。

「小さな女の子が救急車を呼んでくれたのよ。彼女、私たちが駆けつけるまでずっとあんたに付いていたんだから」

「……その女の子って、真っ白なワンピースを着てた?」

「ええ。随分とあんたの血で汚れていたけどね」

 その言葉に、私は川辺で出会った少女を思い出した。あの、無表情の少女。

「その娘はどこに?」

 私が聞くと、お袋は小さく首を振った。

「気づいたらいなくなっていたのよ。私もお礼をしようと思ったのに。ねえそんなことよりあなた……」

 私はベッドから身を起こし、病院の外へと走っていった。背中が痛むが、私は構わず走り続ける。

 収容された病院は家の近所であった。見たことのある町並みの風景である。

 私はある一点を目指して走り続けた。親が用意したであろう寝間着を着ている。周囲の者が奇異の目で見ていたが、私は気にすることなく走った。

 しばらくして、両親も私を追ってきているようだった。後方からお袋の金切り声が聞こえる。

 やがて私は家の近くの川辺へと出た。その風景は先日とほとんど変わっていない。まだ雪は降り積もっている。

 若者達の遺体は処分されたようである。地面がわずかに黒ずんでいる所にその名残はあったが、それでもその場に居合わせない者にはそこで殺人があったとはわかることはない。綺麗に処理されている。

 そしてそのすぐ近くにあったホームレスの遺体もない。こちらも処分されたようである。彼の形に雪が潰されている。

 私はそのホームレスがあったであろう場所のすぐ脇に目を向けた。

 そこには小さな白いバラが咲いている。先日見た通りの場所で、見たままに咲いている。

 しかし違う部分が1つだけあった。

 真っ白であった花が、所々紅色に染まっているのである。

 私はしばらくそこで立ちつくした。


          ・   ・   ・


 私は2ヶ月で退院することができた。今はわずかに傷口がうずくが、痛みはなかった。

 結局私は3人殺したが、罰金1万5千円で済んだ。1人頭5千円である。安い命だ。この国は殺人に関しては寛容すぎる。少額の金さえ払ってしまえば、全てがなかったことになるのだ。

 もう季節は夏である。8月の暑い盛りだ。もうずいぶん前に雪は解けて、蝉の鳴き声がうっとうしいくらい聞こえてくる。

 そんな季節である。

 私が入院していた2ヶ月間、日本は変わることなく回り続けている。

 相変わらず日本では殺人が絶えない。子が親を殺し、教師が生徒を殺し、若者が自殺志願者を殺す。

 離職率もほんの少しだけ増えた。死亡者は増加し、人口は緩やかに減少している。

 政府は殺人者に優しく、無職に厳しい。正体不明の施設に年間多くの高齢者が収容される。5年後にはその若者版でもある「職業訓練センター」なる施設ができるようである。

 世界は少しずつ腐り始めて、大多数の人間はその事実に気づいているが、気づいていないフリをしている。

 そんな中、私は近所の川辺へと足を向けた。

 見知らぬホームレスが道ばたで血を流し、カップルが見て見ぬフリをしながら日常を謳歌している。

 子供が駆け回っている場所は、かつて私が若者達を殺めた場所である。

 私はしばらく辺りを散歩した。

 結局、自殺セットは両親に没収された。しばらく私を監視すると言い出すお袋を、親父はなだめて故郷へと帰っていった。

 親父はもう、私に自殺の意志がないと判断したらしい。「信じてるぞ」という言葉を残して帰って行った。親父も再来年には安楽園に行かなければならない。お袋と今の生活を大切にしたいのだろう。

 私はというと、今のところ自殺セットを購入していない。別に心境の変化は微塵もないが、今のところ購入する意志はない。

 どうせ、後もう少しで兄が言う最期の日が来るのだ。別に焦る必要はない。

 白バラが咲いていた場所に立った。そこにはもう、バラの姿はなかった。この2ヶ月の間に枯れてしまったようだ。

 私は、挨拶代わりに手を合わせた。

 神など、信じているわけではないが。


 季節は夏。

 世界は少しずつ終わりへと向かっている。

 それでも、夏の暑さは変わらなかった。

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6月に降る雪 福王寺 @o-zi

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