時をかける中年

豆崎豆太

プロローグ

 その日はひどい豪雨だった。アスファルトを叩く雨粒が跳ね返ってはスーツの裾を濡らしていく。

 その日は一年目の結婚記念日で、仕事の立て込む中だというのに真木ひとりが職場を蹴り出されてしまった。真木の分まで仕事を引き受けた部下曰く、「残業なんて独身者がやればいい、結婚記念日なんて大事な日は何を差し置いてもさっさと帰れ」とのことだった。部下は明るく気さくで、ともすれば不躾でありいい加減だが、こと対人関係においては真木の何倍もまめだ。

 真木は片手に傘を、片手に仕事用の鞄とケーキを携えて帰途を急ぐ。時間は午後六時半。そろそろ時間指定の宅配便が、マンションの真木の部屋に花束を届けているはずだ。「サプライズをやるなら二段構えで」というのもまた部下の教えだった。

 四十に近くなるまで、真木はいわゆる恋愛というものから縁遠く生きてきた。仕事に没頭して過ごした十数年を後悔するわけではないが、だからこうした手続きにはどうも疎い。恋愛という文脈においては何もしないことがそれだけで意思表示になってしまうと脅しつけられて、ようやく気恥ずかしさやその他の保身じみた感情を黙らせた。それでも四十男が一人花束を抱えて部屋に戻るという絵面を想像しかねて宅配便に日和ってしまった部分はあるが、まあ、許容範囲内だろう。


 スーツの内ポケットに入れていた仕事用の携帯が震えて立ち止まる。職場からの電話だった。内線の通じない相手にわざわざ電話を寄越すのだから緊急だろうと判断してそれを取る。

「真木さん」

 受話器の向こうから流れ出てきたのは、真木の部下であり真木の仕事を引き受け現場から蹴り出した張本人である根本の声だった。根本の声は切羽詰まっており、歯切れが悪い。少し震えている。

「何かあったか」

「……事件です。例の、連続殺人の一部と思われます」

 真木の所属は神奈川県警捜査一課、強行犯係だ。

 県内ではここ数ヶ月の間に殺人が相次いでいる。手口、凶器は同一ではない。それがなぜ「連続殺人」として扱われているかといえば、遺体のそばにカードがあるせいだ。「あと五人」から始まって、今までに三人が死に、そのカードを殺害予告とするならばあと三人が死ぬことになる。

 一人目は六十代の男性。郊外で書道教室を開いており、犬の散歩途中で襲撃を受け死亡。死因はナイフで刺されたことによる失血死。

 二人目は三十代の女性。専業主婦。玄関から押し込まれ逃げ回った形跡があり、前腕に複数の切り傷。死因は首を絞められたことによる窒息死。

 三人目は四十代の男性。トラック運転手。職場に向かおうと部屋を出たところで襲撃を受け死亡。死因は脳挫傷。

 被害者に共通点が見られなかったことから捜査は難航、容疑者は幾人も捜査線上に上がるが決定打がなく、結果として犯人の足取りも全くと言っていいほど追えていない。その、四件目。

 真木は一度時計を見、目と鼻の先にあるマンションの方向をちらと見た。ここから徒歩で五分ほど。妻に事情を説明し、謝罪して、移動はタクシーでも拾えばいい。

「わかった。一度マンションに寄って、すぐに戻る。悪いが」

「被害者は」真木の声にかぶせるようにして、根本は少し大きな声を出した。「真木さん、――被害者は、」

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