侍従の君の清筥

沢田和早

侍従の君の清筥


 一


 兵衛府の次官である平貞文は、皆から平中へいちゅうと呼ばれ親しまれておりました。これは貞文が三人の男兄弟の真ん中であったことから付いた呼び名です。

 見目麗しい容貌に加え、優れた和歌の才覚と人当たりの良い温和な性格の為、老若男女を問わず誰からも好かれておりました。そして平中自身もそんな己の価値を十分に自覚しておりましたので、


「このような優れた男に言い寄られるだけでも女は有難いと思うべし」


 などと、少々自惚れに過ぎた側面も持ち合わせていたのです。


 平中は官位に関してはまったくいいところがありませんでした、貴族と呼ばれるのは従五位下より上の者たち。平中は従五位上ではありましたが、これは亡くなる前年に叙せられたもので、生涯のほとんどは貴族の最底辺ともいうべき従五位下のままでした。


 桓武天皇の玄孫という申し分のない家柄でありながら、出世とは全く無縁であったのは、ただ単に平中が怠け者であったからです。とにかく宮仕えが大嫌いで宮中への出仕も怠ること数知れず。腹を立てた帝が一時的に免官してもどこ吹く風。毎日勝手気ままに都大路を逍遥して過ごしていたのです。


 そんな怠け者の平中でしたが、億劫がらずに足繫く通う場所がありました。左大臣藤原時平の屋敷です。時平は藤原北家の嫡流でしたので、そのお屋敷は本院と呼ばれておりました。

 平中が本院を頻繁に訪れたのは、権力者と懇意になってお手軽に出世を果たしたいという目論見も多少はあったのでしょうが、それ以上に大きな理由は左大臣時平もまた平中に負けず劣らぬ女好きであったからです。


 どれほどの女好きであったかと言いますと、自分の伯父に酒を飲ませて酔い潰し、その隙に伯父の妻を奪い取ってしまったという話が今昔物語「時平大臣取国経大納言妻語」として後世まで伝えられてしまうほどの好色ぶりだったのです。共に女好きの平中と時平ですから随分と気も合ったのでしょう。


 余談ですが、菅原道真を大宰府送りにした張本人は、この好色左大臣です。三十九歳で若死にしたのは道真の怨霊に祟られたからと言われていますが、前述の通り女癖が悪かったので、道真だけでなく多くの貴族(男)から恨みを買っていたものと思われます。



 さて今日も平中は宮仕えの仕事を怠けて本院へ遊びに来ていました。左大臣との顔合わせを終え、もう用はないにもかかわらず、まだ敷地の中をうろうろしています。

 実は最近ここへ来る理由がもうひとつできてしまったのです。

 女です。

 この屋敷に仕える侍従の女に惚れてしまったのでした。


「これほどの女、口説かぬとあっては平中の名が泣く」


 と初見で決断してしまうほどに器量も良く、立ち居振る舞いも品の良い女でした。さっそく平中は口説きにかかりました。口説くと言っても直接声を掛けたりはしません。ふみです。幼少の頃から古今東西の書物を読み、和歌の研鑽に励み、様々な教養を身につけてきたのは、ひとえに女を口説く文を書くために他なりません。


 普通の女ならば最初の文で、また、どれほど冷淡な女でも数通の文を書けば必ず返しの文が送られてきます。しかしこの侍従は相当気位が高かったのでしょう。どれほど文を書こうと返事はもらえません。せっせと文を書き続けていた平中もさすがに心が折れそうになり、ある日、


「せめて私の文を見たという返事くらいはいただけないでしょうか」


 と少々弱気な言葉をしたためてしまったのです。


「今日こそはあの侍従からの文を受け取りたいものだ」


 そう思いながら本院の庭をうろうろしている平中に声が掛かりました。


「ああ、ここにいらっしゃいましたか」


 それはいつも文を言付けている下働きの女童めのわらわでした。手には緑色をした薄様の包み文を持っています。平中は我が目を疑いました。


「そ、それはもしや侍従様からの返事ではないのか」

「はい。侍従様はようやく私に文を遣わされました。どうぞお受け取りください」


 女童から返事を受け取った平中はすぐさま包みを開けました。しかし中には何もありません。薄様の包み紙の内側に「見た」と書かれているだけです。


「この字……これは私の字ではないか」


 そうです。「見た」の二文字は書かれていたのではないのです。平中の書いた文から「見た」という部分を切り抜き、それを紙に貼り付けただけだったのです。


「な、なんという仕打ち。どこまで冷淡な女なのだ」


 結局、平中はその日以降、文を書くことはすっかり諦めてしまいました。



 だからと言って侍従を口説くことは諦めたわけではありません。こうなれば実力行使だとばかりに、侍従の居るつぼねへ直接押し掛けることにしたのです。


「どうせ行くなら豪雨の日が良い。雨の中に佇む私の姿を見れば、どれほど鬼のような心を持つ女でも、憐憫の情を抱いてくれるだろう」


 拒絶の文を受け取ってから二月ふたつきほど経ったある夜、間断なく降りしきる雨の中、平中は本院へ向かいました。いつもの女童を呼んで取次ぎを願い出ると、さすがに哀れに思ったのか、侍従の寝所へ通じる遣戸の前へと案内してくれました。


「今はまだ他の女房が起きております。皆が寝静まるまでしばらくお待ちください」


 そう言って女童は引き下がり、平中はそのまま待ち続けました。やがて随分と夜も更けた頃、遣戸の内側で懸け金を外す音が聞こえました。戸に手を掛けると開きます。平中は高鳴る鼓動を抑えて中に入り込みました。

 真っ暗で何も見えません。物音ひとつしません。ただ部屋いっぱいに立ち込めた空焚き香の匂いだけが、女の存在をほのめかしてくれるだけです。そんな暗闇を手探りで進むうち、平中は侍従の衣らしき手触りを感じました。


『やったぞ、遂に我が本願は達せられた!』


 歓喜に包まれた平中が更に侍従の傍へ近寄ろうとした時、鈴を振るような涼しい声が聞こえてきました。


「お待ちください。あちらの襖にはまだ懸け金をしておりません。懸けてまいります」


 そうして女が立ち去る気配がします。ここまで来たら焦る必要はありません。平中は侍従が戻るのを待つことにしました。


「……おかしいな」


 立ち去る気配がしてから幾ばくも経たぬうちに、懸け金の音がしたのです。けれども侍従は戻って来ません。平中は闇の中を這って襖に近づき確かめました。すると確かに懸け金は下りていますが、それはこちらの懸け金ではなく襖の向こう側の懸け金でした。侍従は部屋を出た後、襖を開かれないようにして、どこかへ逃げてしまったのです。


「またもあの女にしてやられたか。一旦喜ばせておいて平気で絶望の淵へ突き落す。どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだ」


 平中は豪雨のような涙を流して悔しがりました。いっそこのまま朝までここに居てやろうかと思いました。しかし空が白み始め人が動き出す気配がすると、女に見捨てられた自分を情けなく感じ始め、こそこそと本院を抜け出して帰ってしまったのでした。



 二



 あの豪雨の日を境に、侍従に対する平中の気持ちはすっかり変わってしまいました。もうあの女ことは忘れてしまいたい、結局そこらにいる取り得のない女と変わらないのだと自分を納得させたい、そう思いながらもなかなか忘れられない自分自身に腹を立てる日々が続いていたのです。


「どうすればあの侍従をつまらない女だと思い込むことができるだろう……」


 考え続けた平中が出した結論、それは侍従の不浄のモノを奪い取ることでした。侍従とて人間。排泄を欠かすことはできません。そしてそれは間違いなく汚物に違いないのです。それを目の当たりにすれば侍従に対する百年の恋も冷めるはず、そう考えたのでした。


 不浄のモノを入れた清筥しのはこは、あの女童が毎朝本院の近くを流れる川で洗っています。そこへ運ぶ途中で奪い取ればいいのです。平中は毎朝本院の近くで待ち構え清筥を奪おうとしましたが、女童はすばっしこくなかなか奪い取れません。


 しかしある日、平中はようやく清筥を奪い取ることに成功しました。すぐに本院の中へ取って返し、人気のない部屋へ入り込むと、誰も入って来られないように遣戸に懸け金を下ろしました。


「後生です、お返しください」


 部屋の外からは女童の声がします。もちろん返すつもりです、中にある汚物を見た後で。


「さて、それでは拝見いたそうか」


 平中は筥を包んでいる薄布を解きました。中からは金の漆が塗られた美しい蒔絵の筥が姿を現しました。


「これはまたなんと見事な」


 汚物の入れ物とは思えぬ絢爛豪華な容器に気後れしつつ、平中は恐る恐る清筥の蓋を開けました。


「お、おお……」


 言葉にならぬ感嘆が漏れました。蓋を開けた途端、甘く濃厚な匂いが立ち上り平中の鼻をくすぐったからです。箱の中は琥珀色の液体で半分ほど満たされ、その中に親指によく似た褐色の物体が三本、丸まって沈んでいます。


「なんという芳しき香りなのだ。これは本当に人が排泄した不浄のモノなのか」


 琥珀色の液体は、まるで長年甕の中で熟成された美酒のように思われました。たまらず平中は液体に指を浸し、それを口に含みました。


「うおおお!」


 歓喜の声が上がりました。口中に広がるふくよかな芳香。甘みとも苦みとも区別できぬ美味が舌を包み込みます。平中は四つん這いになると顔を筥に突っ込み、まるで犬のようにピチャピチャと音を立てながら琥珀色の液体を舐め始めました。


「これが、これがあの侍従の、あの女の秘所から放出された不浄……」


 美味に酔いしれながら平中は味わい続けました。自分は今、この液体を通してあの侍従の秘所を舐めているのだ……そんな倒錯した想いが平中の悦楽をより一層深化させていくのでした。


 やがて平中の舌は液体の中に沈んでいる褐色のモノを捕えました。はっと我に返った平中は顔を上げ、傍らにあった木の端でそのモノを突き刺し、自分の鼻の先へ持ってきました。


「私は夢でも見ているのか。これは香木そのものではないか。辛抱できぬ!」


 平中は矢も楯もたまらず木に突き刺したモノを口に放り込みました。たちまち、先ほどまでの液体とは比べ物にならぬ狂喜が平中を支配しました。口中に広がった丁子とも沈香とも白檀ともじゃ香とも判別できぬ香りは、古より伝わる薫物たきもの黒方くろぼうにそっくりです。


「こ、このように美味なるものが、この世に存在しようとは……」


 ねっとりとした食感と濃厚な味わい。噛み締めるほどに滲み出てくるコクと旨み。クチャクチャと音をたてながら舌を遊ばせていると、まるで侍従と唇を合わせ、舌を絡め合っているような陶酔した錯覚に陥りそうになります。


「これはあの女の口から入り体を通って排泄されたもの。いわばあの女そのものと言ってもよい。それを口にした私は、遂にあの女とひとつになったのだ」


 平中は満足でした。今味わっているのは不浄のモノではなく侍従の体そのものなのです。そしてそれはこれまで味わってきた女とは全く比較にならぬほどの美味でした。いわば人を越えた天女の如き味わいと言えるものだったのです。


 こうして平中は清筥の中のモノをすっかり賞味し尽くしてしまいました。食後の余韻をしばらく楽しんだ後、清筥に蓋を被せ、遣戸の懸け金を外しました。そこには女童がまだ立っています。


「ああ、待たせたな。返してやるぞ」


 平中は空になった清筥を女童に手渡しました。それを受け取った女童は、軽くなっていることに気づいたのでしょう、平中に問い掛けました。


「中のモノを食べてしまわれたのですね。さぞかし美味でありましたでしょう」

「何故そのように思うのだ」

「お気づきにならなかったのですか。あなた様が何度もこの筥を奪おうとなされるので侍従様は一計を案じたのです。中の液体は丁子を煮出した汁。中のモノは山芋と薫物を甘葛の汁で練り固めたものです。あなた様を騙すために細工師に命じて偽物を作らせたのです」

「なんたることだ。またもあの女にしてやられたと言うのか」


 不浄のモノを見られたくない、それだけのためにこれほどの姦計を弄するとは、もはやあの侍従は人ではない、平中はそう思わずにはいられませんでした。そして以前にも増して侍従への恋心は募ってしまったのです。


 その後も平中は侍従を想いながら暮らしたそうです。勿論相手になどされないので、時々、香の細工師に頼んで偽物の糞尿を作ってもらい、それを食べては身の内に募るやるせない想いを鎮めていたということです。






 侍従の君の清筥(完)

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