漢を襲う――三國志の「終焉」

ヘツポツ斎

第01話 陳廷尉 宣わく    

 幾百本目かの木簡を墨にて汚し、未だ壮志の著し切れぬを憾みに思う。

 あるいは李老りろうのごとく、文字のみにては道の無窮を説き切れぬと諦め、片言隻句へんげんせっくとして書き切ってしまえばよかったのやも知れぬ。しかし僅か千余の句にて、天下の民をいかほど掬い上げられよう。一の王の、百の行いが、千の臣をして、万の令をなさしめ、はじめて億の民を慰撫するに足る。また万の令を行き届かしむには、それこそ億の文字ですら説き得まい。ならば孤人こじんが経世済民を願わば、厭かず筆を執る以外になかろう。

「果てなき智謀の賜物かよ、陳廷尉ちんていい

 背後よりの低く抑えた声に、その赫赫かくかくたる気炎は覆い隠し切れずにあった。

 筆を止め、身体ごとを声の主へと向ける。いたく戦焼けした肌が、もとは白肌であったと言われても得心する者のほうが少なかろう。鋭き双眸の周りを幾筋もの刀傷が縁取る。黄金色の瞳は、どこか鷹のごときをも思わせる。

 さほど上背があるわけではない。しかし、巨きい。隣に立つ文官の方が、上背のみならばよほど高い。彼の者を姿態にて判ずれば、必ずや見誤りを招こうというものだ。

 平伏する。

「斯様なむさ苦しきあばら屋にまでお越し下さるとは、存分のお持て成しもなし得ねば、孤人、汗顔の至りにございます」

「漢人どもの迂遠な言い回しは性に合わん。言い重ねさせるな、廷尉。おれにはきみの鬼謀が要る」

「――お戯れを」

 平伏のまま述べたとて、鷹を見失いはせぬ。覇たる者の圧である。ただ在るを以て余人を平伏なさしむ、その猛き気を浴びるは、怖ろしくもあり、またどこか心地好くもある。

「それに、石并州せきへいしゅう。廷尉などと、孤人の身に余る官名にてお呼びなさいますな。この賎しき身、ただ元達げんたつとのみお呼び下されば宜しいのです」

 隣の文官が僅かに気色ばんだ。

 その若さを、微笑ましくも、羨ましくも思う。鷹より迸る覇気を導くには、若く精強なる鞘が求められよう。そう、まさしく文官のごとく。この老骨では、能わぬのだ。なれど、若き鷹を導き得ぬことに口惜しさは覚えながらも、その鷹より求められていることには、少なからぬ喜びがあった。

「口惜しいな」

 鷹が、苦笑した。

「おれは、きみのちょう王にはなれんのか」

「充ち満ちた龍玉を、どうして枯れ枝が支えられましょう。ましてや、かん王すら支え切れなんだ非力にては」

「廷尉を排せるは、僣人せんじんの盲目故にございます」

 割って入る、文官の声。やや熱く、やや固い。

「廷尉は、まさしく漢王の張子房ちょうしぼうにあらせられた。漢王の威徳は論ずるまでもなく、我らは廷尉の手腕にも心服しておりました。また廷尉が未だ衰えぬこと、この書斎を埋める億兆もの文字が物語っておりましょう。この乱世において――」

「そこまでだ、張賓ちょうひん

 鷹の制止は、実に間合いを心得たものであった。文官、張賓よりの二の句は現れぬ。また、ただひとつのやり取りが、両名の息の合いようをも示しているかのようにも感ぜられた。

「認めるしかなかろう。おれらでは陳廷尉、いや、陳元達ちんげんたつどのは動かせんよ。手腕云々の問題ではない。おれの側に貴様がおり、高帝こうていの側には子房があった。漢王と元達どのも、またその例に違わん、と言うことだ」

 鷹の気配が、寄る。

 肩に、その手が乗った。

「面を上げてくれ、元達どの。ならば、おれも今は、ただの石勒せきろくだ。去まし日に同じ主を仰いだ友として、主のことを、きみと語らい合いたい。だが、なにぶんおれには学がない。なので、きみの話を補足してくれる張賓の同席を許してはくれまいか」

 顔を上げれば、鷹――石勒の破顔があった。

 漢王麾下きかにては万余の兵卒を率い、その苛烈なる差配を以て数多なす朝敵を打ち払った驍将である。改めて、実感せずにおれぬ。石勒の、この人を引きつける笑みこそが、この者をして驍将たらしめたのであろう。

 張賓を見る。その目つきは鋭く、凍てついている、と評さねばならぬ。なれど石勒の熱き眼差しとで比ぶれば、不思議と釣り合いの取れた組合せなのでもあろう。

 主従の形は、主従の数だけある。漢王と孤人とは明らかに違う、しかし確かな紐帯を目の当たりとし、図らずも方寸に、ことり、と落ちるものがあった。

 得心する。孤人は、この時を以て、生を全うするのだ。

「漢王はあざなのごとく、大海にも等しきお方。孤人の浅才にて、その広きを、その深きをいかほど語り得るのやら、いささか心許なくはありますが」

 鷹が、満足げに目を細めた。

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