8.アンドロイドは電気羊の―――
にゃあ。
ソファの上でついつい寝てしまった人間の鼻面に、キジトラの顔面を持ってくるようなやつとは口を聞かないことにしている。
「あ、起きた」
「おはようクラリス」
だが、俺は成長している。実年齢三十路のアンドロイドが仕掛けてくるイタズラ程度にへそを曲げるきりしまさぶろうくん(20)ではないのだ。
「不用心だぞ。鍵も掛けずに」
「あれー?そうだっけ」
「本当に、ポンコツだな」
「何だって!?ご飯抜きにするよ!」
イブの足元に置かれたビニール袋がカサカサと音を立てる。
「悪いな。もう俺が作っておいた―――なんだその顔は」
泥団子を巻いたアルミホイルでも噛まされたような表情のイブを無視して、俺はソファから立ち上がった。
「シーナとヨンジーは?」
「まだ病院。私は、着替えを取りに来たの」
「そうか、なら俺も手伝おう」
二人で二階に上がる。流石に、ヨンジーの服を物色するのはよろしくないので、元自分の部屋でシーナの着替えを詰め込む。
「ねぇ、サブ」
紙袋に服を入れてきたイブがやってきた。
「あなたの弟、シローっていうのね」
近くで買い物をするのにそんな時間はかからないことは分かっていたが、聞かれているとは露ほども考えなかった自分の迂闊さを呪った。
しかし、ニヤニヤ笑いながら話しかけてきたイブに隙を見せるのも癪だ。俺は努めて平静を保つ。
「妙な気を回してくる親なんだ」
「そうかな。当たり前じゃない?三の次は四って」
正確には四郎ではなく志郎だが、それに関しては触れず、イブにこう返す。
「一と二はどこにいった」
「いるじゃない。たくさん。サブの“前”に」
行政に管理される過程において、名無しの権兵衛じゃいけないというだけの理由でつけられた名前。確かに、一郎も二郎も、探せばいるのだろう。
「こんなこと言ったら、怒られちゃうかもしれないけど、私は、サブや“根本”のみんなが羨ましい。あんなにたくさん兄弟がいるんだもの」
「そうかもしれんな」
怒られることなんてないだろう。事実、俺も多少はそう思っていた節がある。
「“お墓参り”、私も絶対に連れて行ってね。ううん、ついていくから!」
「……ああ」
“墓参り”という言葉にこもった決然とした意志を感じ、俺は曖昧に返事をした。
「ふー」
イブはベッドに腰を下ろすと、大きなため息を吐いた。あれだけのことがあったのだ。疲れてしまっていても、しょうがない。
「サブ」
「うん?」
「私の寿命って、何年くらいだと思う」
「そうだな、ポンコツだから、十年もたないかも知れないな」
「そっか」
肉体言語による反論を覚悟した俺の答えに、しかし、イブは素朴な納得の声を発してみせた。
「あのね、どんどんね、老いて行くの。私が通っていた高校の同級生や、先生や、TVや雑誌で見るアイドルたちが、どんどん先に行っちゃう」
やや雑然としたイブの告白は「あのね」と、続く。
「あの車の中でね、シーナもヨンジーもエミさんも、すごく怖がってたけど、私は、ちょっと安心しちゃったの。ああ、これで終わるんだなって、終わりにできるんだなって」
死にたくても死ねない人間。確か、初めて会ったとき、そう言っていた。
俺は、イブに近付いていった。初心なアンドロイドの身構えたような仕草は無視して、ベッドの向こうにある窓を開け放った。留めていないカーテンが揺れ出した。そして、あまりまとまっていない頭で喋り出した。
「さっきまで、夢を見てた。もう、かれこれ十年くらい、同じ夢しか見てない」
遠くから、蝉が気勢を上げだした。連中の七日間と、イブが過ごした三十年、俺が生きた二十年、そして、俺が死んだように生きた十年。そこに、どのような差があるというのだろう。
「いや、あんなもん夢でも何でもないな。ただの過去だ。そして、覚めたら覚めたで代わり映えしない昨日の続き。寝ても覚めても一緒だったんだ。ずっとな」
話しながら、イブの隣、六月まで俺が寝ていたベッドの上に、俺は腰掛けた。
「ここでシーナと寝ながら、お前はどんな夢を見ていたんだ」
「夢なんて、見ないよ」
「電気羊だとか、ユニコーンの夢を見る設定は無いのか」
「相変わらず、例えがオジン臭いなぁ、だからモテないんだよ」
俯いていたイブが顔を上げ、涙を零さない瀬戸際の少女だけが見せる笑顔を作った。
「お前たちが来てから、俺は、目覚めながら夢を見ることができるようになった」
思った以上に重くて、思った通り繊細なイブの身体を、両手で抱き寄せた。
「事故みたいなことは多かったけど、こうやって自発的に抱き締めるのは、初めてだな」
小さな左肩に顎を乗せ、硬い肉感のある耳に口をあてがい、言った。
「髪、こんなにきれいだったんだな。いい匂いだ」
右手を首に回し、中指と薬指でイブの黒髪に触れる。それと同時に、左手の人差し指を肩甲骨に付け、すっと腰のあたりまでなぞる。
「柔らかい身体だ。それに、温かい。オーバーヒートしてるって意味じゃないぞ。お前は、いつだってそうだった」
彼女の脳にまでしっかり届くように、低音を響かせた声で、一つずつ丁寧に言葉を流し込んでいく。
「強さだけじゃない。そのあたたかさと、優しさも使って、シーナたちを守ってやってくれ」
身体を離し、自分の鼻が当たるほどの場所に顔を持っていった。鼻柱がちろちろと当たる距離で、イブの潤んだ瞳を見つめる。よく見える。この少女に貰ったヘアピンのおかげだ。
「ありがとう、イブ」
返事は聞かず、俺は素早くポケットから出したスタンガンをイブに押し当て、スイッチを押した。アンドロイド専用(多分)のそれで、ゆっくり意識を失い、倒れていくイブをベッドにそっと寝かす。
「さぁ、行くか」
ベッドから立ち上がった俺は、軽く身体を伸ばしながら独り言ちると、部屋を出て、一階に下りていく。
―――にゃあ。
階段の途中に、家主が前足をぺろぺろと舐めながら座っていた。待っていたわけでは無かろうが、かけがえのない友人となったシーナを助けた礼くらいはされてもいいと思う。
「志郎から伝言を言付かっているんだが、聞いていくか」
レノンは濡らした前足で顔を洗うと、軽い身のこなしで階段を駆け上がっていった。興味なし。これだから猫は。俺は苦笑して気まぐれな家族に背を向け、台所へと向かった。
冷蔵庫の中身を確認し、テーブルに一枚の紙を置いた。
出かける前の用事は、これで全部だ。蝉の音は、止んでいた。
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