第八話 ネイチャー・イットセルフ・イズ・グッド・マザー
1.救済同意書
面会時間が過ぎた。エントランスも閉まり、俺も今日はおとなしく家に帰って眠ろうと思っていると、ある人物が向こうから親しげに手を上げて歩いてきた。この病院の近所にある工場、つまり俺の元職場の作業着を着た男が顔見知りであることに、すぐには気付けなかった。
「ヒロ、か」
これを馬子にも衣裳というのは違うのだろうが、安っぽい工場作業員の服を着せれば、暴力団の末端にいた荒くれ者もそれなりに善良な人間に見えるのは、ちょっと新鮮な発見だった。
「どうしたんだ、入院中に惚れた看護師にラブレターでも渡しに来たか」
もともと細い目をさらに細めて笑う。まだリンチの傷は完治していおらず、というか鼻が曲がったままだし、片方の耳がくるめたティッシュのように潰れてしまっているが、とりあえず元気そうで何よりだった。
「この間マナさんの部屋に遊びに行ったときに、こんなものを見つけてよ」
そう言って同僚とはよろしくやっているらしいコソ泥が見せてきたのは、一枚の妙な紙切れだった。
「『プライベートエデン救済同意書』?なんだこれは」
その用紙が異様なのは、宗教らしさの全く感じられない事務的な体裁にあった。
『教団の教義に基づき、下記人物の救済に同意いたします』の簡潔な文章の下に、『被救済者』と『保証人』の名前とそれぞれの印鑑。そして右上に『本人控え』の文字。宗教特有の神秘性、ざっくりと言ってしまえば嘘臭さがまるでない、病院と交わす手術同意書のようだ。
相手に同意させる必要があるということは、何らかのリスクがあるということで、リスクがあるということは、それに見合うリターンを期待されているということでもある。“リスク”と“リターン”に“同意”、どれも宗教には似合わない言葉たちだ。
「まったく意味が分からないな。マナミはなんて言っていた」
「マナさんも話してはくれなかった。だけど、あんまり怪しいから、あの人の親父さんに直接訊いてやろうと思って、仕事終わりに来たってわけだ」
よく見ると、『被救済者』の欄がマナミの親父殿の名前になっていた。保証人がマナミだ。俺はつい三日前、妙に歯切れの悪い調子でPEの集会に行っていたスーツ姿を思い返す。
「それで、何か聞き出せたのか」
それ以前に、ちゃんとコミュニケーションが取れるのか不安な病状である。俺があった約一年前は、ベッドからあまり動けず、話すことがやや苦しそうだった。
「いや、本人も知らないようだった。ただ、娘をよろしく、と」
「それは良かったな。親公認だ」
「ばっ、何を言って―――」
反応が中学生みたいだな、とからかうのもそこそこに、俺はマナミとその父親が欲しがる“救済”とやらについて推理を巡らせる。
延命治療しか手の無い末期患者が求めるものは、やはり病気の完治。最早現代医療ではどうにもならない父親の状態を見て、マナミが宗教に救いを求めていった。
それまでは良いが、どうやらそれは、俺が思っているスピリチュアルなものではないようだ。たとえば、杉野がああなってまで教団をかばうほどの“実利”はマナミの父をも利するもの。バイオテクノロジー、シーナ、イブ―――やはりそういうことなのだろうか。
「おい、サブ、どうしたんだよ」
「ああ、すまない。実は昨日から碌に眠れていなくてな」
話をはぐらかすために嘘を吐かなくていいというのは寝不足の利点だ。今でも気を抜くと意識が多少飛びそうになっている。
「そうか。新しい仕事が忙しいのか」
「いや、俺はまだ無職だ」
「なんだそりゃ」
ヒロが笑い、俺も笑う。本当に、どういうことなのだろう。
「仕事は続けられそうか」
紹介者として、とりあえず訊いておく。
「全然仕事しねぇのにうるさいオッサンも多いけど、まだ大丈夫だな」
何人か顔の浮かぶ元バイト仲間や社員がいた。
「偉そうなオッサンは仕事ができないと相場が決まっている。あまりいじめてやるなよ」
まだヒロが入りたての下っ端だから良いようなものの、ある程度物を覚えた後でヤクザの地金を出して恫喝しようものなら、たちまち恐れ戦いて小便を漏らしそうなほど器と心臓の小さい連中だ。そういう手合いはすぐに“上”に言いつけるので注意が必要だった。
「ああ、マナさんや小野田にもそう言われた」
小野田か。あの朴訥としつつ場をきっちり仕切ることができる有能株が抑え役になっているのなら、問題は無いかなと思った。
「今のところは、組も絶縁だし金もねぇしサブへの借金もあるし、我慢するしかねぇよな」
そうぼやくヒロに、俺は改めて、この、家にも学校にも身の置き場がなかった男の依存先を奪ってしまったことを思う。今でも最良の選択だったと思うし、後悔も反省もしていないが、碌な場所を提供できなかったという申し訳なさは、依然、あった。
「そういえば、お前の親はどうしているんだ」
マナミの父親の話が出たついで、といったように振った話題に対しての答えは、素気の無いものだった。
「さぁな。もう死んでるんじゃねぇの」
肉親に対してこの冷酷な物言いになるほどの家庭環境だ。生みの親より育ての親というし、親は無くとも子は育つともいうが、いっそいない方がマシな親というのも存在するのだ。
「サブの方こそ、実家はどうしてるんだ」
「一年に一回、帰るか帰らないか、ってところだ」
中学を卒業し、ナゴヤに移り住んで僅か三ヶ月でミュージシャンになると言って高校を辞めた手前、そうそう頻繁に帰るのも格好がつかない。
「そうかよ。またお前ン家の菓子が食いたいんだけどな」
「いつでも行ってやればいいさ。背中の“落書き”は見せるなよ」
母のお気に入りであるヒロなら、一人で行っても大丈夫だ。
「ああ。流石にもう消せないしな。何とか上手くやるよ」
この世には、あまりにその問題が深過ぎると、もうどうにもならなくなることがたくさんある。身体に刻み込まれた刺青然り、食事という名の餌と、虐待を与えるだけの関係であった親子然り、この男には、取り返せないものが多すぎる。
「サブ」
暗い病院の通路では、声がよく通るが、ヒロのそれは、いつも通りの酒に焼けたようなガサガサ声だった。
「どうした」
「飯、食いに行こうな」
そういえば、二週間前に会ったとき、そんな話をしていたことを思い出す。あの時は退院祝いをする予定だった。あまりに日々が激動過ぎて、すっかり忘れていた。
「―――今、俺が関わっていることが片付いたら、家に来い。美味い餃子を食わせてやる」
「それは勘弁だろ」
「なんでだ!」
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