7.ジョン2

 畳に、ヘアピンが当たった。それでも足りず、さらに頭をこすりつけて懇願する。

「何もない、空っぽの人間を受け入れてくれた場所を、これ以上、壊さないでくれ」

 俺は土下座の姿勢のまま何時間でもいる覚悟だった。偽りの“夢”で自分を着飾って、その実、誰も何も受け入れようとしなかった俺の居場所を守るためならば、何でもできる。

おもてを、上げないか……」

 一分ほど経ち、ジョンさんが、虫の鳴くようなか細い声で言った。俺は顔を起こすと、枯れ木のように呆けた格好でいるジョンさんの言葉を待った。

「君の言った通り、全て、事実だ」

 ポツリポツリと自白をするジョンさんに尋ねる。

「何が目的だったんだ」

「金だよ」

 端的かつ単純な答えが返ってきたが、俺は納得しない。

「嘘だな。あんたはそれなりに俗物だが、手段を間違えるようなヘマはしない」

 だが、丸サングラスの奥の目線は以前、何もない中空を泳ぎ続けている。

「いや、僕に抱いてくれている幻想を打ち砕いてすまないが、本当に目的はマネーなんだ。杉野にカネを貰い、セイレーンの原盤をコピーしてライブハウスに仕込んだ」

 ジョンさんは紫煙と共に言葉を吐き出し、中程まで吸ったマルボロを真っ黒な灰皿に押し付けた。どこか投げやりなその挙動に、諦観の念が胸の内に広がるのを感じつつ、俺はなお食い下がる。

「そうか。何か物入りだったのか。いつも言っていたよな、“必要”が全ての源だって、何が必要だったんだ」

 自分でも意外なほど震えを帯びた声色で言った質問に、一瞬の空白を入れて、ジョンさんは独り言のようにこぼした。

「―――人並みの生活さ」

 遠かった。

 ジョンさんが、そのアーティスト名である“ジョン”という人物から、遠ざかっていく気配がした。

「サブ君。これを見てくれ」

 ジョン・レノンを愛する一人の中年男が、木造アパートの四畳半一間の部屋で両手を大きく広げた。

 使い込まれた敷布団とギター、いつから干されているのか分からないパンツや靴下がぶら下がっている。ゴミ箱にはスーパーで安売りされている菓子パンの袋ばかり。

「家賃は三万円のこの部屋が、この国で、この歳の男が生活する空間だと思うかい?」

 答えるとするならば「運や才覚が無ければ、そういうこともあり得るだろう」ということなのだろうが、ジョンさんの問いは返答を聞きたい類のものではないと分かったので、黙っておく。

「両親はもういない。親戚も友人も、地元から離れてこっち、連絡も取っていない。かつていた妻は、今では遠い土地で二人の子供を産んだ。僕の時間だけが、止まったままだ」

「…………」

 そんなことはないだろう、ということを言いたいのに、言えない。20歳と50歳、いくら老けて見えると言われても、ようやく人生80年の四分の一を終えたばかりの俺と、どんなにバイタリティに溢れていようがその命の折り返しをとうに過ぎたジョンさん。年齢からくる人生の重み、絶望感が舌を硬直させる。

 ジョンさんは、欠けた湯呑でお茶を煽ると、また胸に溜め込んだ想いを零すように話し始めた。

「君はまだ若いから、就職するなんて簡単だろうけどね、僕はもう50歳。そして、未だに生活保護受給者のフリーターさ。いや、恐らくは一生そうだろうね」

 穏やかというか、抑揚のない口調は、次第に暗い熱を帯びていった。

「ヘルニアは治らないし、老眼も入ってきた。歌うこと以外には何一つ特技も職能もない。家族もいない。このままじゃあ、孤独に野垂れ死にすることが決まっているんだ!!畜生!!」

 激昂した拍子に、灰皿を手で吹き飛ばした。溜め込んで、こびりついた汚い灰が、畳を汚す。

「抜け出したかったのさ……!この掃き溜めみたいな生活から」

「そのために、一緒にライブをやって、同じ楽しみを共有した仲間たちを病院送りにしたってわけか」

 ジョンさんがサングラスを外し、初めて俺と目を合わせた。だが、その瞳は、今まで一度も見たことの無い、卑屈に歪んだ光を宿していた。

「君も、僕の若い頃と同じようなメンタリティを持っている。孤独で、世間に対して反抗的で、肝が据わっていて、頭もいい。しかし、それだけじゃあ路頭に迷う。僕のようにね」

 渇き切った顔に、自嘲の笑みを貼り付かせ、ジョンさん、否、無職の中年男・平出ひらいでまもるが言った。

「君もいつか、勢いで学校やバイトを辞めたことに後悔する日が来るよ」

 思えば、彼の裸眼をまじまじと見るのは久しぶりだった気がする。像のように小さな垂れ目、ジョン・レノンの端正さには遠く及ばない。俺は、そんな“普通”の域を一歩も出ない男に向かって自分の言葉を投げかける。

「こっちこそ、あんたが勝手に作り上げた虚像を破壊するようで悪いが、俺は学も才も無いバカで、ほかのミュージシャンと力量の差を感じてとんずらするほどの臆病者で、誰かがいないと何もできなくて、いつまでも反抗期が抜けないただの子供さ。買い被るなよ」

 一つ正解があるとするならば、それは孤独だったということだ。しかしそれも、過去形の話だ。

「ただ俺は、自分自身には絶望させられてばかりだが、この道を選んだことを後悔することはないと思う。色んなバンドや、ライブハウスの人や、あんたに会えたからな」

 俺は、俺と家族になってもいいと言ってくれた、今は亡き少女の顔を思い浮かべながら話す。


『他人からの友情や愛情を試さないで。自分から誰かを好きになることを恐れないで』


 そう言ってくれていた彼女の意志を、今ならしっかりと完遂できそうだった。

「音楽を始めた頃から、あんたは師匠で、兄貴で、父親みたいなものだと思ってきた。愛してるぜ、ジョンさん。ラブ&ピース!」

 しょぼくれた顔の前に、右手の指を二本、突き出して見せる。

「そうか……そうか……」

 俯き、うわ言のようにそう繰り返すジョンさんに、俺は続ける。

「イブとシーナも、あんたのことは気に入ったらしい。それなりに家事ができるからな。現金なもんだ」

 ジョンさんが、このやり取りの間で一気に老け込み、やつれた顔を上げ、少しだけ頬を緩めた。

「何なら、家政夫として雇ってやろうか。時給は、そうだな、50円でどうだ?」

 俺の半分本気の冗談に、ジョンさんが吹き出した。その拍子に、涎と鼻水と、涙が飛んだ。

 直後、土砂崩れのような号泣が、四畳半を支配した。

「……なんてこった」

 まさか二日続けてオッサンのむせび泣く声を聞くことになるとは思わなかった。

 ダンゴムシのように丸くなって泣き続けるジョンさんを見て、俺は変な笑みが漏れてしまう。

 本当に可笑しい。

 やがて、大声を上げて笑い出してしまった。

 朝もまだ早い時刻の小さなアパートの狭苦しい一室に、大号泣と大爆笑が木霊していたので、いよいよブチ切れた大家の登場かと思ったが、来なかった。空気を読んでくれたか。

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