第30話 月と太陽
人、人、人。
ざわめき、歓声、笑い声。
動線を保持する簡易柵に挟まれ、警備員ににらまれ、防犯ドローンに一挙一動を監視されながら、彼も彼女もじっと待つ。
人頭の向こうに咲いた、きらきらと輝くアイドルの笑顔を思い浮かべながら――
師走を目前にしたこの日、福岡チェリーブロッサムズの本拠地・タイニーガーデンでは、ファン感謝祭が開かれていた。
灰白色のかぼちゃを思わせるドーム球場に詰めかけたファンの数は四万人以上。
この球場独特の芝桜のフィールドは遺伝子強化されているため少々のことでは傷まない。だからファンたちは普段入れないファウルラインの中に足を踏み入れることができる。それだけでもこのイベントに参加する価値はあるが、彼らの一番の目的はやはり選手たちとの交流だ。
先だって開会セレモニーとミニライブが行われたメインステージでは今、ファン参加型のラジオ番組の生収録が行われている。さらにフィールドのあちこちにもお楽しみがあり、選手サイン会、ツーショット撮影会、子どもたちだけのミニゲームなどが開かれている。
ファンたちはお目当ての選手を求め、各エリアを順繰りに巡っていく。
その様子を、最上階貴賓室のバルコニーからオペラグラスで眺めている美女がいる。
福岡チェリーブロッサムズのGM兼総合P、指宿莉桜その人だ。
ペナントレース期間中は選手兼任監督という肩書きも持っていた指宿だが、来季からはフロント業に専念することをすでに発表している。
惜しむ声は多かった。規定打席到達者の中で打率ブービーに沈む一方、本塁打数で二位になった彼女は、やや非力な桜打線の中では欠かせぬアクセントとなっていた。同様に、彼女の爆裂なスタイルもまた、スレンダーな博多美人たちの中では重要なアクセントだった。その露出が減ることをファンは悲しんだのだ。
身長177センチ、上から101・62・94。
たぐいまれなパワーを秘めたその伸びやかな肢体は今、清純・無垢を標榜するチェリーズのフロントオフィスに相応しい爽やかな桜色のスーツに包まれている。
「なーんか湿っぽいなぁ」と指宿は言って、背後に控える役員風の男に振り向いた。「瀬戸内さん、見てます? サインもらいながら泣いてる人がいる」
「みな悲しいのですよ」とチェリーズCEOの瀬戸内は、しわの目立つ顔を渋めて言った。「チームを去る選手が何人もいます。特に、引退してしまう選手のファンは――」
「卒業、ですよ。引退じゃありません」指宿は微笑を浮かべ、またオペラグラスに視線を預けた。「あっ、美月ちゃんが手握られてる」
「山本は不動のセンターでしたから」瀬戸内はしみじみと言った。「低迷していたチームがなんとかもっていたのは彼女のおかげです。まったく、感謝のしようが――」
「ねえ、警備ちゃんとしてる?」指宿は通信機にとげのある声で言った。「選手に余計な負担かけないで。いい? ――っもう」
同じバルコニー席に、チェリーズの芸能面を取り仕切るプロダクションの社長も座っている。恰幅は良いがどこか小心そうな彼は、ひとまわり以上若い指宿に対しておずおずと口を出した。
「なぁ指宿……握手くらい、いいじゃないか。あんまり取り締まるとファンの楽しみがなくなってしまう」
「野村さん、あなたは事務所代表としてそれでいいんですか。選手の皮膚で財布をつくることしか考えてないんでしょうか」
「ばか言え」野村は血相を変えて立ち上がった。「俺はそんなやり方には断固反対だ」
「もちろんですよ。選手を売るならもっと良い相手がいるし」指宿は野村を見てくすりと笑んだ。「あなたのお父さまとか」
野村の表情はたちまち強張った。
父親が日本芸能界の重鎮であり、息子は七光りだとさんざ言われてきた彼は、そのことをあまり話題にされたくない。
無言で席を立った野村を横目で見送り、瀬戸内はわずかにため息を洩らした。
「実際、あなたは野村総帥のチームに山本を売りましたね」
「ええ」指宿はオペラグラスを構えながら答えた。「彼女ももう二十代の半ば。アイドルは卒業して、次のステージに行かせてあげるべきでしょう」
野村総帥のチームは、資金力も戦力も国内リーグには収まりきらない「
アジアのほかの国々にも同じような立場の規格外球団はあり、それらのチームとともにインターナショナル・プレミアリーグの東アジア地区に所属している。本拠地の兵庫県西宮から東シナ海を飛びまわり、シンガポールやジャカルタのメガクラブと球運を試し合うのだ。
国内外から代表クラスの選手が集まるインターナショナル・プレミアリーグは、日本のパールボール選手にとって最も身近に「世界」を感じられる場所だ。そのためアイドルリーグの選手の多くが、そのきらびやかな舞台を夢の先に見据えていた。
「異存はありません」と瀬戸内は額のしわを深めて言った。「しかし我が球団としては大打撃です。不動のセンターと三番打者とチーム一、二を争う人気者をいっぺんに失う」
「ですよね。総帥が見返りにスポンサーくれるとはいってもね。弱ったなぁ」
「何か、妙案が?」
「それはありますよ」指宿は振り向いてにっこりと笑った。「今シーズン、レギュラーを勝ち取った玉城ティナちゃん。ぴちぴちの十八歳。彼女がきっと軸になってくれると思うんですけど、どうです?」
「結構ですね。加えて、ドラフト一位の朝倉もいます」
「あっさくらかぁ……」指宿は困った顔をした。「あれは、完成されすぎていると思いませんか。それに、喋るとちょっと……」
「お気に召しませんか」
指宿は可笑しそうに声を立てて笑った。「そんな、私の好き嫌いは関係ないですよ」
「……一部のファンは、順番が逆だと思っています」瀬戸内はグラウンドを見渡して言った。「玉城をセンターに据えるために、山本を卒業させたのだと」
指宿は微笑を浮かべたまま小首を傾げた。
「玉城はあなたがオーディションで見出した逸材だ。そこには、特別な思い入れが」瀬戸内は指宿の視線に気づいた。「いえ、ファンがそう言っているのです」
「一部のファンが、ですよね」
「この会場にもきっとおるでしょうな」
「あぁ、憂鬱」指宿はオペラグラスを隣の椅子に放った。「このあと卒業セレモニーで花束渡さなきゃ。去年ブーイングされたの思い出すなぁ」
「注意すべき人物は全員遠ざけておきました」
「えっ、そんなことしちゃいます?」
「ブラックリストを用意させたのは誰ですか」
指宿は悪戯ぽい眼をして立ち上がった。
「いくら遠ざけたところで、雑音は消えるどころか、ますます大きくなりますよ」
「アンチが増えるのは構いません。応援と非難、両方の声の総和が我々の力になるのですから」
堂々とした指宿の背中を見送って、瀬戸内は再びグラウンドに顔を向けた。
「……異存はありません」
◇
「お疲れさまです」
「おう、お疲れ」
帰宅するスタッフと言葉を交わしながら、雄吾は事務所の階段を下りた。
まだ七時前だが、すっかり日が落ちて辺りは暗くなっている。
おういと呼ばれて振り向くと、大下が車のそばで手を振っているのが見えた。
「すいません、送ってもらって」
「なあに、同じ方角なんだから遠慮するな」
車は球場を囲む一方通行の細い道を通り、表の県道へ出る信号で止まった。
そこはちょうど工事中のレフトスタンドのそばだった。
「工事けっこう進んでますね」
「ああ。もうすぐだ」と大下は安堵した声で言った。「マリーくんのほうはどうだい?」
「もうプレオープンしてますよ」
「ははは、そうか」
少し話題が途切れた。車内にはヴォリュームを絞った音楽が流れていた。快調に進んでいた車が再び信号に引っかかったとき、大下がおもむろに口を開いた。
「私はね、仕事柄いろんな人間のいろんな話を耳にするんだが……マリーくんはスカウトのあいだでもっぱらの噂だったよ。それこそ、彼女とヴィクトルが日本に来てすぐの頃から」
振り向いた雄吾は、慎重に声を出した。「知ってたんですね、マリーのこと」
「ああ。あの公園で君たちと出会ったのは、まったくの偶然だけどね」大下はそこで思案がちに眼を細めた。「だから、何というか、君たち家族とは個人的な関係でいたくてね。私の仕事とは関わりないところで、君たちの力になりたかった」
雄吾は黙ってうなずいた。
サンフラワーズのスタッフによれば、大下はもともと自分のことをあまり話さない人だという。それでも雄吾たちに職を明かさなかったのは意識的だったのだろう。
前に浪花レパーズのスカウトが述べたことは、全部が全部でたらめでもない。プロチームの幹部と有望アマチュア選手。底意があって近づいた、と大下は思われたくなかったのだ。
「しかし、いつの間にか言い逃れできない状況になってしまったな」と大下は苦笑した。「君はうちで働きたいとやってくるし、うちの職員の福利厚生には歯科割引が含まれている。衣装部のスタッフはほとんど朱里絵ちゃんの紹介だ。見事に我々は癒着してしまった」
車が道端に停まった。雄吾の家はすぐそこだ。
大下は後部座席から球団ロゴの入った封筒を取って雄吾に手渡した。
「これ……! 応募書類?」
「マリーくんに頼まれたものだ。渡してやってくれ」と大下は言って、この人には珍しく、複雑な思いの混じった微笑を浮かべた。「ヴィクトルが反対したら、援護射撃を頼む」
「うちはみんな賛成ですよ」と雄吾は笑って言った。すでに家族の中で話は済んでいる。
「なるほど。しかし、安心してもらっては困るよ」と大下は仕事のときのトーンで言った。「オーディションは公正なものだ。私はすでにほかの審査員たちに、君たちとの関係を明らかにし、もはや贔屓目にしか見れないことを白状している」
わざわざ白状しなくても、と雄吾は思ったが、「それが筋だからね」と大下はまじめな顔でうなずいた。
「だが同時に、ユニホーム組の支持がなければ不合格にすることをみなに誓っている。私は芸能畑の人間だから、候補者がグランドで何ができるかについて評価はさせてもらえない。マリーくんがあと一か月足らずでどこまで自分を取り戻せるかどうか……」
「でも、マリーなら」
大下はふっと表情を緩め、彼らしい明るい笑顔になった。
「彼女が合格したあかつきには、最大限のサポートを約束しよう。幸運を祈る」
差し出された手を雄吾は力強く握り返した。
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